夜半の駅構内はがらんとしていてどこか淋しかった。
忘れ去られた思い出のようで、その光景に泣き出したくなる衝動に駆られた。
「ここでいいか…」
右手にぶら下げていたギターケースを地面に置き、中から古びたギターを取り出した。
僕の周囲には主だった人の気配はなかったから、ここならば思いっきりよく歌えた気がした。
6本の弦に指を掛ける。
ギターコードはこの数ヶ月間の特訓のおかげか、始めたころに比べると手馴れた扱いが出来るようになっていた。
指を弦のコードに合わせ準備が整った。
数ヶ月前からこの曲だけを必死に練習している。前回、前々回とかなりの手ごたえを感じていた。今日こそは一曲丸々完璧な演奏ができるような確信を持っていた。
本来ならばピアノソロで始まるのだが、─というかピアノソロで始まるところにこの曲を良さがあるわけだが─そんなことを今更言ったところでどうしようもない。
深呼吸をし、指の位置を確認した。
自分の中のタイミングと指の動く絶妙なタイミングとを探る。
僕だけが周りの空間と切り離されたような感覚に陥る。
目を瞑りもう一度呼吸をした。
パン、パン、パン、…。
パン、パン、パン、…。
ゆっくりと、焦らずに自分のペースでタイミングを取る。
頭の動きと身体の動き、心の動きを一つにまとめる。
ここだ。
頭の中でピアノソロのイントロが入った。
「さっきとても素敵なものを
拾って僕は喜んでいた…」
歌いだしは上々だった。
頭と指と心のタイミングがばっちりと重なったのだ。
歌いだしの声にも問題はなかった。変に力も入っていない。音程も合っている。
このまま、何の問題も起こらずに終えれることを祈るばかりだ。
しかし、そんな簡単に事が運ぶわけもないか…。
「ねえ、今度の休みはどこに連れて行ってくれるの?」
夕飯を終えて、ソファでのんびりしていると顔を覗き込むようにして彼女がそんなことを聞いてきた。
テーブルの上にはシャトー・サン・ドミニクの2003年物と2人分のワイングラスが置いてある。
僕は自分のグラスにそのワインを並々と注いで、ぐいっと一気に飲み干した。
火照った顔に彼女の声と吐息がかかった。
「ねえってば、聞いてる?」
「あぁ…聞いてる聞いてる」
僕のいい加減な返答に痺れを切らしたのか、彼女もまたグラスにワインを並々と注いだ。
「お、おい…そんなに飲めないだろ?」
「大丈夫だって。それに明日は土曜日だし。今日はここに泊まってくもん」
子供っぽい彼女に微笑みで返答した。
僕が空になったワイングラスを見つめていると、顔を赤らめた彼女が僕のグラスに再びワインを注ぎ始めた。
ワインボトルを持つ手元は危なっかしく、零れ落ちてしまいそうになる。
「ちょっ、気をつけろって」
「あははっ!」
慌てる僕に対して、彼女は無邪気にそれを楽しんでいた。
そんな平和な光景がいつまでも続けばどれだけいいのだろう。
結婚しても、子供ができてもいつまでもこんな風に暮らしていけたら…。
彼女との結納の日がもうすぐそこに近づいていた。
*
「あんたももうすぐ結婚とはねぇ…」
実家に帰ったその日、事も無げに母親がそう呟いた。
「なんだよ、急に」
「いや、ほら一時はどうなることかと思って」
「は?」
「あんたが結婚しないだなんて言い出した時だよ」
「あぁ」
「でも、ま。こうやってちゃんといい人を連れて来てくれたし。これで後は孫の顔でも見られればあたしは言うことないよ」
「そんな…気が早いよ。それに結納すらもまだ先の話なんだから」
「お互いに結婚する意志があれば同じことよ。とにかく良かった」
母親は能天気にもすでに僕と彼女との子供を期待していた。
それもそのはずか。
僕の4つ年上の姉はいまだ実家にパラサイトし続けている独身OLだった。
年齢を考えたら結婚適齢期はとうの昔に過ぎている。だからと言って手遅れ、というわけではないのだけど。
それでもかつて言われていたような「負け犬」というやつにだけはなって欲しくないと、母親は口癖のように言っている。
僕が実家に帰るたびにその愚痴は繰り返されていた。
姉は姉で、僕と顔を合わせる度になんとも言えない視線を向ける。それならまだ何か言ってくれたほうがマシだ。
そんなこんなで、彼女との結婚報告をして以来、以前に比べると実家に帰ることが少なくなった。
僕も彼女も物心がついた頃にはすでに父親がいなかった。
僕の父親は僕が幼稚園に入ってすぐに、交通事故で亡くなった。
飲酒運転をしていた大型トラックと父親の乗っていた乗用車との接触事故だったらしい。
彼女の方は小学生の時に両親が離婚により、父親とは疎遠になったと聞いていた。
それ以来父親とは一度も会っていないらしく、今では父親の顔もまともに覚えていないとのこと。
ただ、たまに僕の横顔を見ていると父親の面影を思い出すことが増えたと、そんなことを彼女が言っていた。
「別に父親が好きだったとか、そういうことじゃないんだけどね」
彼女が僕の顔を見て父親の面影を思い出すとき、いつも「あっ!」と声を漏らす。
それは無意識に言っていることらしく、あっ!と漏らした後、恥ずかしそうな顔をしながらいつもそう言って自分の『ファザコン』を否定していた。
別に、『ファザコン』でもいいのに。
一度、僕がそんな恋人でも気にしないと言うと一瞬恥ずかしそうにした彼女だったけれど、やっぱりまた同じような文句で否定していた。
きっとそうやって否定することで、今の自分を保っているんだなと純粋に思った。
だからまだ彼女は僕に彼女自身の全て曝け出してないんだなと、たまに悲しくなることがあった。
今では、もうそんなことどうでもいいかと思えるようにもなったけれど。
「結婚てね、そんなにしたいって思ったこと一度もないのよ、実は」
休日にやって来た遊園地の観覧車の中、突然彼女がそんなことをポツリと漏らした。
その時はちょうど空が夕焼け色に染められ始めた頃で、空を見ることが好きだった僕は夢中になって窓にへばりついていた。
彼女もまた向かいの席で窓に広がるオレンジ色の街並みと空を眺めていた。
頬杖をつきながら、彼女が漏らしたその言葉に僕は一瞬受け流したが、そのまま受け流すことが出来そうもなかった。
なぜなら彼女と付き合う時、彼女から提示された条件が『結婚を前提とすること』だったから。
実際には明からさまに条件を提示されたわけではない。
元々は彼女とは大学時代からの友達だった。
何度か2人で遊んだり、飲み会を開いたりしているうちにどちらからともなく惹かれあった。
それは突然過ぎるキスから始めって、その後は親密な関係になるのにさほど時間はかからなかった。
彼女が『結婚』の二文字を言い出したのは、その付き合う前に何度かお酒の席で聞いた話の中でのこと。
それでも僕と付き合いだして、2年もすると彼女の気持ちにも幾分かの変化が生じてきた。
僕らが2回目の冬を迎えたある日、その日は久しぶりに休日のデートを楽しんだ夜で、僕らは滅多に来ないラブホテルにいた。
ベッドの中で肌を重ね合わせ、どちらからともなくそっとお互いに近づきあい、並んで天井を見上げた。
裸で絡み合った身体は汗ばんでいて、それが少しエロティックで、僕らは天井に描かれてある天使をまじまじと見つめていた。
「ねぇ、もしさタイムマシーンがあったらどうする?」
「は?」
「だからさ、もしタイムマシーンが使えるならどうする?」
「ん~…未来の自分の姿を見に行くかなぁ…自分がどんな大人になってて、奥さんとは仲がいいのかとか、子供はいるのかとか。由貴は?」
「…私はね、えへへっ」
「どうした?」
「ううん、何でもない。もしタイムマシーンがあったらねぇ…私は…」
「うん」
「やっぱり内緒っ」
「は?そんなんありか?」
「ありあり」
「ずるいだろ?そんなの無しだっての」
「そのうち教えるから。ね?」
「ったく…絶対に今度教えてもらうからな」
「了解~っ」
天井に備え付けられた暖房器具から漏れてくる音が、しんとなった部屋に静かに響いていた。
「ねぇ、子供は何人欲しい?」
唐突に彼女がそう聞いてきた。
「そうだな…まあ、あんまり実感とか伴わないけど…2人くらい?」
「そっか…」
「どうした?急に」
「ううん。なんとなく。私も作るなら2人くらいかなぁって」
「じゃあ、一緒だ」
「それも一姫二太郎の順番ね」
「そうそう」
それから僕らは意味もなく笑いあって、また飽きることなくSEXをした。
忘れ去られた思い出のようで、その光景に泣き出したくなる衝動に駆られた。
「ここでいいか…」
右手にぶら下げていたギターケースを地面に置き、中から古びたギターを取り出した。
僕の周囲には主だった人の気配はなかったから、ここならば思いっきりよく歌えた気がした。
6本の弦に指を掛ける。
ギターコードはこの数ヶ月間の特訓のおかげか、始めたころに比べると手馴れた扱いが出来るようになっていた。
指を弦のコードに合わせ準備が整った。
数ヶ月前からこの曲だけを必死に練習している。前回、前々回とかなりの手ごたえを感じていた。今日こそは一曲丸々完璧な演奏ができるような確信を持っていた。
本来ならばピアノソロで始まるのだが、─というかピアノソロで始まるところにこの曲を良さがあるわけだが─そんなことを今更言ったところでどうしようもない。
深呼吸をし、指の位置を確認した。
自分の中のタイミングと指の動く絶妙なタイミングとを探る。
僕だけが周りの空間と切り離されたような感覚に陥る。
目を瞑りもう一度呼吸をした。
パン、パン、パン、…。
パン、パン、パン、…。
ゆっくりと、焦らずに自分のペースでタイミングを取る。
頭の動きと身体の動き、心の動きを一つにまとめる。
ここだ。
頭の中でピアノソロのイントロが入った。
「さっきとても素敵なものを
拾って僕は喜んでいた…」
歌いだしは上々だった。
頭と指と心のタイミングがばっちりと重なったのだ。
歌いだしの声にも問題はなかった。変に力も入っていない。音程も合っている。
このまま、何の問題も起こらずに終えれることを祈るばかりだ。
しかし、そんな簡単に事が運ぶわけもないか…。
「ねえ、今度の休みはどこに連れて行ってくれるの?」
夕飯を終えて、ソファでのんびりしていると顔を覗き込むようにして彼女がそんなことを聞いてきた。
テーブルの上にはシャトー・サン・ドミニクの2003年物と2人分のワイングラスが置いてある。
僕は自分のグラスにそのワインを並々と注いで、ぐいっと一気に飲み干した。
火照った顔に彼女の声と吐息がかかった。
「ねえってば、聞いてる?」
「あぁ…聞いてる聞いてる」
僕のいい加減な返答に痺れを切らしたのか、彼女もまたグラスにワインを並々と注いだ。
「お、おい…そんなに飲めないだろ?」
「大丈夫だって。それに明日は土曜日だし。今日はここに泊まってくもん」
子供っぽい彼女に微笑みで返答した。
僕が空になったワイングラスを見つめていると、顔を赤らめた彼女が僕のグラスに再びワインを注ぎ始めた。
ワインボトルを持つ手元は危なっかしく、零れ落ちてしまいそうになる。
「ちょっ、気をつけろって」
「あははっ!」
慌てる僕に対して、彼女は無邪気にそれを楽しんでいた。
そんな平和な光景がいつまでも続けばどれだけいいのだろう。
結婚しても、子供ができてもいつまでもこんな風に暮らしていけたら…。
彼女との結納の日がもうすぐそこに近づいていた。
*
「あんたももうすぐ結婚とはねぇ…」
実家に帰ったその日、事も無げに母親がそう呟いた。
「なんだよ、急に」
「いや、ほら一時はどうなることかと思って」
「は?」
「あんたが結婚しないだなんて言い出した時だよ」
「あぁ」
「でも、ま。こうやってちゃんといい人を連れて来てくれたし。これで後は孫の顔でも見られればあたしは言うことないよ」
「そんな…気が早いよ。それに結納すらもまだ先の話なんだから」
「お互いに結婚する意志があれば同じことよ。とにかく良かった」
母親は能天気にもすでに僕と彼女との子供を期待していた。
それもそのはずか。
僕の4つ年上の姉はいまだ実家にパラサイトし続けている独身OLだった。
年齢を考えたら結婚適齢期はとうの昔に過ぎている。だからと言って手遅れ、というわけではないのだけど。
それでもかつて言われていたような「負け犬」というやつにだけはなって欲しくないと、母親は口癖のように言っている。
僕が実家に帰るたびにその愚痴は繰り返されていた。
姉は姉で、僕と顔を合わせる度になんとも言えない視線を向ける。それならまだ何か言ってくれたほうがマシだ。
そんなこんなで、彼女との結婚報告をして以来、以前に比べると実家に帰ることが少なくなった。
僕も彼女も物心がついた頃にはすでに父親がいなかった。
僕の父親は僕が幼稚園に入ってすぐに、交通事故で亡くなった。
飲酒運転をしていた大型トラックと父親の乗っていた乗用車との接触事故だったらしい。
彼女の方は小学生の時に両親が離婚により、父親とは疎遠になったと聞いていた。
それ以来父親とは一度も会っていないらしく、今では父親の顔もまともに覚えていないとのこと。
ただ、たまに僕の横顔を見ていると父親の面影を思い出すことが増えたと、そんなことを彼女が言っていた。
「別に父親が好きだったとか、そういうことじゃないんだけどね」
彼女が僕の顔を見て父親の面影を思い出すとき、いつも「あっ!」と声を漏らす。
それは無意識に言っていることらしく、あっ!と漏らした後、恥ずかしそうな顔をしながらいつもそう言って自分の『ファザコン』を否定していた。
別に、『ファザコン』でもいいのに。
一度、僕がそんな恋人でも気にしないと言うと一瞬恥ずかしそうにした彼女だったけれど、やっぱりまた同じような文句で否定していた。
きっとそうやって否定することで、今の自分を保っているんだなと純粋に思った。
だからまだ彼女は僕に彼女自身の全て曝け出してないんだなと、たまに悲しくなることがあった。
今では、もうそんなことどうでもいいかと思えるようにもなったけれど。
「結婚てね、そんなにしたいって思ったこと一度もないのよ、実は」
休日にやって来た遊園地の観覧車の中、突然彼女がそんなことをポツリと漏らした。
その時はちょうど空が夕焼け色に染められ始めた頃で、空を見ることが好きだった僕は夢中になって窓にへばりついていた。
彼女もまた向かいの席で窓に広がるオレンジ色の街並みと空を眺めていた。
頬杖をつきながら、彼女が漏らしたその言葉に僕は一瞬受け流したが、そのまま受け流すことが出来そうもなかった。
なぜなら彼女と付き合う時、彼女から提示された条件が『結婚を前提とすること』だったから。
実際には明からさまに条件を提示されたわけではない。
元々は彼女とは大学時代からの友達だった。
何度か2人で遊んだり、飲み会を開いたりしているうちにどちらからともなく惹かれあった。
それは突然過ぎるキスから始めって、その後は親密な関係になるのにさほど時間はかからなかった。
彼女が『結婚』の二文字を言い出したのは、その付き合う前に何度かお酒の席で聞いた話の中でのこと。
それでも僕と付き合いだして、2年もすると彼女の気持ちにも幾分かの変化が生じてきた。
僕らが2回目の冬を迎えたある日、その日は久しぶりに休日のデートを楽しんだ夜で、僕らは滅多に来ないラブホテルにいた。
ベッドの中で肌を重ね合わせ、どちらからともなくそっとお互いに近づきあい、並んで天井を見上げた。
裸で絡み合った身体は汗ばんでいて、それが少しエロティックで、僕らは天井に描かれてある天使をまじまじと見つめていた。
「ねぇ、もしさタイムマシーンがあったらどうする?」
「は?」
「だからさ、もしタイムマシーンが使えるならどうする?」
「ん~…未来の自分の姿を見に行くかなぁ…自分がどんな大人になってて、奥さんとは仲がいいのかとか、子供はいるのかとか。由貴は?」
「…私はね、えへへっ」
「どうした?」
「ううん、何でもない。もしタイムマシーンがあったらねぇ…私は…」
「うん」
「やっぱり内緒っ」
「は?そんなんありか?」
「ありあり」
「ずるいだろ?そんなの無しだっての」
「そのうち教えるから。ね?」
「ったく…絶対に今度教えてもらうからな」
「了解~っ」
天井に備え付けられた暖房器具から漏れてくる音が、しんとなった部屋に静かに響いていた。
「ねぇ、子供は何人欲しい?」
唐突に彼女がそう聞いてきた。
「そうだな…まあ、あんまり実感とか伴わないけど…2人くらい?」
「そっか…」
「どうした?急に」
「ううん。なんとなく。私も作るなら2人くらいかなぁって」
「じゃあ、一緒だ」
「それも一姫二太郎の順番ね」
「そうそう」
それから僕らは意味もなく笑いあって、また飽きることなくSEXをした。