どっちもいい | PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

 

先日、知り合いがアメリカに帰ることになったと報告がありました
彼曰く、自分は日本で暮らしたかったが、奥さん(日本人)がアメリカで暮らすことを強く希望しているからだそう。

まったく同じ内容の話を妻からもつい最近聞いたところでした。
妻の会社の同僚が、奥さん(日本人)が彼の母国(オーストラリア)で暮らすことを希望したので今月中旬に帰国されたと。

本当はずっと日本で暮らしたかった二人は、日本を仕事先に、加えて日本人をパートナーに選んだのは、世界一治安が良くて安心、そして交通の便も日常生活もとても便利、安全で快適な日本で子育てをしたいとずっと思っていたからだそうです。

一方、奥様方は、調和や集団の美を重んじる日本はとても窮屈で、自分がやりたいことを、他人の目を気にせずどんどんチャレンジしたり、他人との違いを評価してくれる海外での自由な暮らしや働き方への憧れが強かったようです。

双方ともベクトルが真逆で、お互いがないものねだりのようにも見えますが、自身にないからこそ憧れるというのは人の性でしょう、十分理解できます。

そういえばノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎氏も
「日本の人々は、いつも他人を気にしている」「私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」と仰っていたことを思い出しました。

海外で暮らす人やルーツのある人にとって、日本のように家の外でもある程度安全が確保され、絶えず自分の身は自分で守らなくてはいけない緊張感を持たなくていい環境の日本はとても暮らしやすいと感じる人は多く、一方、他人の目を気にして生きる日本はとても窮屈に感じている日本人は案外多いのかもしれません。

よく話題にあがる日本の学校文化、厳しい校則などはその顕著な例の一つかもしれません。

同じ制服、髪の長さや色、結び方、シャツや靴下の指定など厳しい校則で縛ることや、得意科目を伸ばすよりも不得意科目を克服すること、あるいはどの科目も平均点をとることに力点を置く日本の学校教育を、皆が同じになることを強要しているように感じるのは、ある意味当然かもしれませんね。

だから他人の目を気にしない、個人を尊重する海外の国々に日本も倣うべきと言われることが多いですが、そこだけ切り取って日本が倣ったら果たしてどうなるでしょう?うまく嵌るでしょうか?

私は結構難しいと感じていて、根底には宗教観の違いが大きく影響しているんじゃないかと思うんです。

日本人は無宗教といわれます、多宗教という人もいます、また多神教という人もいらっしゃいます。

私なんかはどれも当て嵌まるように思っていたんですが、海外の一神教の人たちから見ると日本人はどれにも当て嵌まらないという見解らしいんです。

そうなの?

他人を気にせず、自由にふるまっているように見えても、決断する時の拠り所として「神に背かないか?」とか「自分の行動が信仰的にどうか」など、必ず信じる存在があって、その教えが個々の行動の規範になっているそうです。

それに対し日本人は、キリスト教も仏教も、神教その他色々な宗教を受け入れているけど、宗教のことを何も知らない。
全部信じて、全部信じないなんて自分たちには全く考えられないらしいです。

確かにそうかもしれませんね。
私を含め日本人は宗教に関してはとても浅学な人が多いと思います。
知らないというのはつまり関心がないか薄いともとれます。
知識も乏しく関心も薄い、宗教が何かを信仰することだとするなら、信仰の対象に関心がないというのはあり得ませんものね。

そんな拠り所を持たない土壌で、日本人が他人を信頼し他人と協力するような行動ができるのはなぜでしょう?何を規範として、世界一治安がいい、安全な国といわれるようになっているのでしょう?

PTAや自治会などの自動加入問題などが語られるとき、集団主義、同調圧力、ムラ社会という言葉がよく使われます。この集団主義的、同調圧力、ムラ社会といった監視社会だからでしょうか。

しかし、東大の高野教授の研究で『日本人は集団主義的』という通説は誤り、割合的にも他国と差異がなく、通説には確たる証拠がないという分析結果が発表されているし、ほかにも、日本人のほうが欧米諸国よりも個人主義的に行動する、お互いを信頼しない、信頼することがめっぽう苦手な国民という研究結果もあるとか。

それでは何が?と考えてみると、相互監視という面もありつつ、もしかしたら日本人の行動の規範は「ウチ」と「ソト」、あるいは「世間」と「社会」という二つの世界観を持っていることに起因しているかもしれません、この概念は欧米諸国にはないと思うんですよね。

「ウチ」は、自分の身近な家族や友人、所属する会社、学校、サークル、地域など直接関わりがある人や関係性を指し、「ソト」は逆に親しくない人、自分が所属していない会社や学校などを指しているが、特に定義や基準はありません。
余所者や他人との関係を「水くさい」というのは、「ソト」に分類される人には水のように冷たく、特に助け合わず、時に無礼な態度を取ったりするなんて言われたりしますが、確かにそんな面がありますよね、日本人には。

同じように「世間」は自分の知っている人や関係のある人たちで構成されるもの、一方の「社会」は自分に関係がない、関係が薄い、距離の遠い人たちで構成されるものと区分けしますが、「世間体を気にする」とか「世間に顔向けできない」という言葉があるように、私たち日本人は「世間」の中で、他人からどう思われるかを気にして暮しているんだと思います。
社会体を気にする、社会に顔向けできないとは言わないですし、そもそも社会という言葉日本にはなくて、福沢諭吉はsocietyを人間交際と和訳したとか。

一方で「旅の恥はかき捨て」という諺があるように、多少恥ずかしいことをしても「ソト」の人の目は気にならない・気にしない面を持っている気がします。

日本人はなぜ挨拶をしないのか?と外国籍の人たちに言われてしまうのは、「ソト」の人に対しては冷たく、声もかけないから、でも「ウチ」の人とはお互いに気にかけながら積極的に言葉を交わしているので、「挨拶しない」「親切じゃない」「信頼していない」と言われても日本人の私たちはピンとこないのかもしれません。

今後、国際化・都市化・少子化・高齢化が進み、地域の関係性の希薄化がより一層顕著になっていけば、「ウチ」の範囲もどんどん小さくなって、「地域」は「ウチ」や「世間」から外れてしまい、あまり気にしなくてもいい「ソト」に移っていくんじゃないかと思えてきます。

地域がソトになっていけば、他人の目を気にしなくていい気楽な関係性に近づくかもしれませんが、お互いが緩やかに繋がって、気に掛けあう関係は薄れるとともに安全の確保や礼儀など、普段の生活からの学びの減少、また犯罪率の増加などが懸念されるところです。

こうした他人の目を気にするという日本人の特性は決してネガティブ・悪いことだけではなく、ポジティブな印象もあると思います。


他人の目を気にすることは、例えば東日本大震災の時の行動やサッカーワールドカップのサポーターのごみ拾いなど、自分以外の人に思いやりを持つことに繋がるでもあるので、ポジティブな影響も計り知れないと感じました。

自分以外の人に思いやりを持って接することができ、海外のように一人ひとりの個性も尊重できるようになったら、日本は今よりもっと住みやすい国になれる可能性を持っていると私は思います。

「どっちがいい」ではなく「どっちもいい」と考えたい

 

 

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村