曖昧な文化を好むのに二項対立も好きな日本人 PTAの話題も | PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村


日本は曖昧な文化だからこそ、世界有数の安全で豊かな国になれたと外国籍の人からのご意見がありますが、一般的には「物事をはっきり言わない」「自主性がない」などと批判されることが多いですね。

そんな日本人が、いやそんな日本人だからなのでしょうか
近年は二極化、二項対立の状況をつくって対立しているのをとてもよく目にします。
加えて、現代は何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代です。多くの企業人は数字とエビデンスに追われ苦しむ日々、そして今後は、人が、自分の感覚や経験則よりもAI(人工知能)が導く最適解に従うことになるのかもしれませんね。

白か黒か、PTAで言えば要か不要か、正か誤か、
その根拠は? 心情・感情も見える化が求められたりします。

SNSをはじめネット上では、さまざまな社会問題について議論が行われていて、PTAをめぐる話題も例外ではなく二項対立での非難合戦が行われているのをよく目にします。それも直接ではなく、空中戦が目立ちます。

要・不要に始まって肯定派と否定派、あるいは推進派と否定派
賛成派と反対派、さらには信者とアンチなど言い方はそれぞれで、本来なら、様々な人が自身の見解をもつことは至極当然で、かつ自由で、お互いの意見を交流させることは、知識の量と質を高めていき、最適解を見出すのにも役立つ、だから議論をするんでしょう。

しかし現実は厳し、そこまでたどり着くことなく実際には自分と見解が異なる人の間で意見が衝突すると、感情的な言い合いが続いたり、中には人格を否定したり傷つけあったりしているような交流もすごく目立ちます。

こうした二項対立が成立した時点で、すでに解決策が消失していると思うんですが、残念ながら当事者たちが気づいていないことがとても不幸だと警鐘を鳴らす人もいらっしゃいます。同感です。

十人十色というように、人の主張が「同じ」なのは「不自然」と言えますが、「似ている」のは「自然」なこと、でもそのことに気づいていない人が「同じ」=「似ている」で対立軸を作っていく気がします

また、言い合いをよくよく見ていると、その多くは目的・目標は同じで、達成に向けての手段やアプローチが違うだけなことが多いので、2択ではなく、両方選択だってあり得るし、2つの融合やそれ以外の手法だってあり得る、よりベターな解を導き出すために違う考えの人たちが話し合うわけですが、答えがひとつであることに固執し、ひとつにまとめようと自己主張するあまり、他を排除しようと相手を非難し始めるわけです。

なぜか?
一説には、自分の主張に不安があって相手の主張に恐怖心を感じるからだそうです。

違う考えを受け入れると、自分の想いと異なる方向へ進む可能性があることが恐怖心となり、それを阻害しようと行動にでるんだそうです。

ネットでもリアルでも口だけならまだマシで、人は自分と異なる主張を妨害し、排除し、貶めようとする手段に出た段階で、解決策はなくなってしまうのにそれを当人は忘れてしまうらしいです。

特に反対や平等を強く主張する=正しい主張と思うあまり、自身が他を排除し、相手の意見に聞く耳を持たないことを忘れてしまうらしいです。
あるいは賛成の人は反対意見に対し怪訝そうに眉をひそめ、反対の人は他人の意見にケチをつけ、尊厳を貶めてまでも反対を叫ぶなど、実は両極ともにやっていることは一緒なんですよね。

PTAの話題でも自分と対極の考えの人に対して
上から目線で偉そう
勉強不足

理論より気持ち
独自解釈での言い切り

自分に都合の良いものしか見ない、聞かない
口先だけで何もしない
みんな=全員じゃない
自分が言うのは意見・指摘・批判、相手が言うのは文句・非難
相手が質問に答えないのは論点ずらし、トーンポリシングと叫び、自分が答えないのは答える義務ないから
主語が大きい
それとこれは別の問題

相手には数的根拠を求めるが自分は示さない
特に「みんな」という表現にもよく食いついてみえます

私もよく使いますが、以前記事にも書いたように「3人以上=みんな」らしいので、自分と仲の良いお友達や自分と同じ考えの人が3人いれば「みんなの意見

など、対極の人たちのことを非難するときに使ってみえるのをよく見ます。


もちろん、「エビデンスに基づく意思決定」

できる限り合理的かつ冷静な判断を社会の合意として実行していくことができれば素晴らしいと思いますが、エビデンスを持ち出せば、全てがうまくいくと思ったら大間違いで、現実社会ではうまくいかないほうが多いように思います。

例えば、私個人の経験は紛れもない事実かつ私にとってはある意味絶対的なもので、誰にもそれを否定することはできませんが、それが一般的であるかのように他の人や集団にそのまま当て嵌めても上手くいくとは限りません。

それは個人同士でも集団同士でも、個人と集団でも同じで、あなたの成功例や私の失敗例がほかの人や集団に対して当て嵌めるとは限りません。

また、先に書いたようにエビデンスの母数や収集方法、質問の方法などによってその分析結果は大きく違ってきます。数値の読み方によっても解釈が変わってきます。

例えば
PTAの事業参加者にとったアンケートでは不参加の人の意見は反映されない
単位PTAの会員意識調査では会員の考えしか分析できない
ネット上でのフリーの意識調査では関心のある人しか回答しない

合理性・客観性ばかりを追い求めると、数値データがないと不安になり、その状況に自分が耐えられなくなってしまうらしく、SNSでは無理矢理どこかのデータを引っ張り出してきて、エビデンスという道具(武器)を使って他者をたたきたいという欲望が蔓延していて、自分の気に入らない投稿を批判するような書き込みが急増中らしいです。

そんな自己矛盾に気づいていない人たちが多いのが現代の日本と言えるかもしれません

 

汚れな記大人への道険し

ですね

 

 

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村