PTAはPTA

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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学習指導要領は、日本中どの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするための各学校での教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準となるもの、つまりは日本の教育の方向性を示すもので時代の変化や子どもたちの状況、社会の変化を反映して約10年に1度改訂されています。2017年が8回目の改訂9回目の改訂が近づいています。

学習指導要領は目標やおおまかな教育内容を定めてい、幼稚園・小学校・中学校・高等学校・特別支援学校ごと、教科ごとに策定されています。

また学習指導要領は、学校教育法および同施行規則に基づき、文部科学大臣が定める「告示」なので国が定める「法規」としての性質(義務的)を持っていますが、大綱的な基準(最低基準)としての義務であり、学校や教員が独自の教育を行う裁量も認められています

2008年の改訂がちょうど私がPTA会長の時で、小・中学校の授業時数が1割増え小学校でも英語が必修となる大きな改訂の時でした。
とてもいい機会だと思ったので小学校の学習指導要領の授業時間数の変化を調べてみました。
単純に時間だけを比べてみると
1947年  5565時間  1951年  5780時間  1958年  5821時間
1968年  5821時間  1977年  5785時間  1989年  5785時間
1998年  5367時間  2008年 5645時間  2017年 5785時間

高度経済成長期の入り口になる1958年と真っただ中の1968年に告示された学習指導要領の授業時間数が一番多いことがわかります。この時期は私が小中学生だった「詰め込み教育」や「教育内容の消化不良」と言われる時代でした。

また、1998年(平成元年)に告示された学習指導要領は、ゆとりの中で「生きる力」を育むことを目指した改訂で、授業時間数では一番少なくなっています。
完全週5日制の導入と総合的学習が新設されたいわゆる「ゆとり教育」と言われる時代ですね。

そして2008年の改定では脱ゆとり、授業時間が単純計算で年間278時間増えることになったんです。学校は通常の授業と学校行事など年間カリキュラムを組むのに大変だったと思います。

私は当初、学習指導要領の改訂版を全文印刷して保護者に配布したらどうか?と考えましたが、内容は保護者向きではなかったしボリュームも相当なもの、仮に配布しても目を通す人は少ないだろうと思い直し、その後に文科省が作成した保護者用パンフレットを活用することを役員会で話し合って決め、まずPTA総会で校長先生に学習指導要領改訂について、なぜ?何を?どういう形で?と大まかな話をして貰おう、その後パンフレットを配布して保護者の皆さんに目を通してもらう。さらにその後、学校側の創意工夫でどうカリキュラムに反映させかを学級懇談会や学級だよりなどで保護者の皆さんに伝えてもらうのがベターではないかと学校三役との話し合いで合意し、そのとおり保護者の皆さんにお伝えできました。



また学習指導要領に目を通すと今何かと話題に上がっている部活動の変遷もある程度わかります。
1947年 学習指導要領において部活動は選択科目の「自由研究」に位置付けられ、学年の区別がない児童生徒のクラブ活動が初めて教育課程の中に示されました。

1951年の改訂では、全生徒が参加し自発的な活動をする正規の教科と並び、重要な役割を果たす特別活動の領域として位置づけられ、1958年、1960年の改訂でも同じ位置づけでした。

特別活動とは①学級活動(ホームルーム活動)②児童会・生徒会活動③クラブ活動(小学校のみ)④学校行事(儀式的行事、学芸的行事、健康安全・体育的行事、遠足・集団宿泊的行事、勤労生産・奉仕的行事)のことを指しています。

1968年の改訂では、体育は学校教育活動の課題として「総則」に記され、教育課程内の「クラブ活動」が全生徒必修となり、それまで位置づけられていた部活動に関わる表記がなくなりました。

しかし1977年の改訂では部活動を再び学校教育活動として位置付けています。

1989年の改訂では、中・高等学校については部活動に参加する生徒については、当該部活動への参加によりクラブ活動を履修した場合と同様の成果があると認められるときは、部活動の参加をもってクラブ活動の一部または全部の履修にかえることができると示され、条件付き教育課程内のクラブ活動の代替を認めています。

しかし1998年の改訂では、中・高等学校における「クラブ活動」は廃止、学習指導要領に位置付けがなくなりました。

2008年の改訂では、中・高等学校の総則に教育課程外としながらも学校教育の一環として教育課程と関連を図るよう留意するなど部活動の意義と留意点等が示されました。


2017年の改訂でも同様に教育課程外としながらも、生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動についてはスポーツや文化科学等に親しませ学習意欲の向上や責任感連帯感の涵養等学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり学校教育の一環として教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の々の協力社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い持続可能な運営体制が整えられるようにするものとするなど、地域連携が中・高等学校の総則に記されました

どうも次期改訂でも、部活動を学校から完全に切り離さずに教育課程外(必須ではない)としながらも学校教育の一環であるとする方向性のようです。

 

部活動の変遷を見ると、改訂のたびに現場は振り回されていることがよくわかります。

理想や理念は素晴らしくてもヨーロッパ型総合型地域スポーツクラブの失敗や各スポーツ競技の企業型から地域型への移行の困難さを考えれば、部活動を学校教育から切り離して社会教育、地域へ完全移行するには日本の土壌ではまだしばらく時間がかかるだろう、当分は曖昧な状態が続くんだろうと思っています。「学校教育の一環」という言葉は重いですね。

 

現状の部活動については、生徒の自主的自発的な参加(任意)だからPTA会費からの支援(助成)は不適切、受益者負担が当然だという意見を目にします。PTAの活動対象は当該学校の児童生徒全員だからという理由だそうです。

 

もっともらしく聞こえますが、受益者負担の原則にのっとりPTAが会員のお子さん限定の活動をすると活動対象が全員だから保護者の加入・非加入に関係なく全員を対象とすべきだといい、部活動は生徒の自主的な参加だから受益者負担というのはとても矛盾しているように思rえるんですよね。

 

個人の意見は意見としてと尊重しますがPTAは法的根拠のない任意団体で学校教育とは別の社会教育、活動の内容も対象も構成員が決める団体。

一方部活動は教育課程外とはいえ学校教育の一環と学習指導要領に明記していますからねえ。

 

 

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映画の中で、アン・ハサウェイ演じるネット通販会社のCEOジュールズが、専業主婦のママ友たちから「(仕事ばかりで)子どもの学校行事に参加しない」「手作りのお菓子を持ってこない」と陰口を叩かれるシーンがありました。

人種差別や貧富の差による子ども同士の嫌がらせなどは青春系映画でよく描かれていますが、保護者の人間関係はあまり記憶になくて、このシーンはまさにアメリカの「学校コミュニティ」における保護者の感情のリアルな一面が描かれていると当時アメリカ国籍の知り合いに聞いたことがあります。

ジュールズのようにバリバリ働く女性に対し、家庭専念の保護者が自分たちの価値観(家庭第一)を守るために攻撃的になることを描いたこのシーンは特に教育熱心な層(ミドル・アッパー層)に多い対立だそうでアメリカでは珍しいことではないとのことでした。

映画の中で市販のピザを買ってきたことをなじられるシーンがありましたが、欧米では手間をかける=愛という価値観が学校行事にも現れ、学校に関わること=子どもを愛しているとなり、逆に学校との関わりが薄い=子どもを放置しているというレッテルを貼られる可能性すらあるそうです。

ちょっと怖くないですか。

アメリカのように徹底した自由な個人主義でも、実はコミュニティへの貢献を美徳とする強い同調圧力が根っこにあって、関わらない自由はもちろんあって周囲も表面的には穏やかだけど、心のうちは決してそうではなく、学校行事は誰かの無償の活動で成り立っているため、一切手伝わず、恩恵だけ受けている家庭に対してはやっぱり楽をしているという不満を持ち、それが陰口として表れているそうです。

特に社会的地位の高い人ほどノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)として学校への寄付やボランティアを熱心に行うので、何も行わない持てる人への視線はより厳しくなるみたいです。

貢献方法は多様、富裕層は多額の寄付金で学校の設備を整え、専門職の人は法律相談やITサポートを無償で行う、普通の人は少額の寄付や授業のお手伝いをするなど、自分の得意分野やできることで何かしらの貢献するのが当たり前というスタイルなので「お金も出さない、スキルも貸さない、手伝いもしない」という3拍子揃った無関心は最も嫌われると言っていました。

ネット上では欧米では学校に関わらなくてもPTOに加入しなくても何も言われない(なかった)という表現や感想をよく目にしますが、それは表面上のマナーだけ、コミュニティの一員としての責任を果たしていないと見なされれば冷遇されたり、疎外感を感じたりするのが欧米のリアルな実態のようです。

日本のように強制的にやらされているという受動的な考えはなく、よい学校・よい地域にしたいから能力のある自分がやる(自負と責任感)という自発性が強いのは確か。

だからこそ何もしない人に対して「なぜあなたは協力しないの?」という批判が陰口ではなく直接本人に投げられたりすることも多いようです。

欧米諸国PTAや自治会のような組織ある・なしにかかわらず、また加入の有無に関係なく、自律した市民の義務と責任としてコミュニティへの貢献は当然なこととして求められるんですね。

特にアメリカの教育制度はその区域の不動産(固定資産税)の評価によって予算が決まる制度、裏を返せば教育の評価が自分たちの資産価値に直接影響するため死活問題、より学校環境の整備に熱心なのかもしれません。

ヨーロッパ諸国の義務教育は子どもの権利であると同時に保護者の義務としての側面が非常に強く、オランダやスペイン、イギリスなどでは、子どもの正当な理由のない長期欠席に対しては自治体から保護者へ罰金刑が科されたり、裁判所への出頭を命じられたりすることがあるそうです。

またイギリスなどでは、学校は単なる行政機関ではなく地域コミュニティの共有物として運営されるため、保護者がSchool Governor、経営者の一員のような立場で関わり責任を持つことが一般的だそうです。確か北欧諸国もそうだったように思います。

だから世界絶賛されていたフィンランド教育が3年前に学校教育の崩壊や学力低下などフィンランド教育は失敗と正式に政府が表明した時も、学校教育に問題があるのは単に行政だけではなく自分たち保護者にも責任があるとフィンランドの人たちは受け止められるんですね。

他にも授業中のサポートや専門知識を活かしたゲスト授業を行う、先生の休憩中子どもの見守り(メディエーター)を保護者が行う国もあるそうで、その辺りはアメリカとよく似ていますよね。

 

欧米諸国の義務教育世帯の共働き率は統計では平均80%前後今の日本と同等もしくは少し上回るぐらい、それでもコミュニティへの貢献は当たり前として受け入れているんですね。

日本のPTA問題はやり方の非効率さや強制力が問題になっていますが、欧米ではそういうことじゃなくコミュニティに貢献しない人は発言権や居場所を失うという、日本よりももっとドライで厳しい自己責任の原理が働いているようです。

組織がないから楽なのではなく、組織がないからこそ個人の立ち振る舞いが常に評価され、親が学校に関わるのは当然という強烈な社会通念が、組織以上に個人を縛っているということが実態としてあると聞きます。

また日本のように役員決めで揉めることはないらしいですが担い手不足は同じでやはり不満はあるようです。また関わらない人には、例えばメールの返信をわざと遅らせる、重要な連絡を強調しない、学校行事のボランティア枠から外すなどの行為あるそうで、貢献という対価を払わない者に居場所はないことを如実に表している行為とも言えます

うした感覚は日本のみんな平等にという情緒的な不公平感よりも合理的かつ冷酷だと私は感じましたが皆さんはどうでしょう?

いずれにしても制度の形がどうあれ、何も貢献しない人がコミュニティで尊重されることはあり得ないという感情は、世界中どこへ行っても変わらない事実なんだなということがよく分かりました。

日本では画一的な関わり方が望まれますが、欧米では多様な貢献手段が認められています。

からこそ、どれも選ばないことへの責任は日本以上に重く、厳しい評価として返ってくるんですね。

この欧米式の多様な貢献方法は、まさしく金子みすゞさんの詩「みんな違ってみんないい」が伝えたかったことではないでしょうか?

お金がある人は寄付で、時間がある人は労力で、知恵がある人はアイデアで。それらがない人は、せめて感謝と理解の心で。

責任や貢献の果たし方は個の尊重であり多様であることを表現しているように受け取れます。

また、同じ意味合いのことを松下幸之助氏や土光敏夫氏、日清食品の安藤百福氏など日本のレジェンド的な経営者たちも過去に言っておられました。

「金がないなら知恵を出せ。知恵がないなら汗を出せ。汗を出せないものは静かに去れ」と。

「私」や「あなた」はんな今の日本の教育現場や社会の中どこに立っているんでしょう?

私はスタジアムのフィールド上ではなく観客席にいる人がとても多いのではないかと最近強く感じています。

欧米諸国では、試合成立のためにプレーヤーはもちろん、審判グラウンドキーパー、ボールボーイなど当事者や関係者としてフィールド内に立ち、自分が汗をかこう、自分たちの試合だからと主体的です。

 

日本人はフィールド内ではなくスタジアムに試合を観に来た観客のように観客席に座り学校というグラウンドで起きていることをチケット代(税金)を払った観客として眺め、プレーが悪ければ野次を飛ばし、期待外れなら文句を言う、自分は金を払っている客だから最高のパフォーマンスを見せるべきだと大声で叫ぶ傍観者じゃないかと思えて仕方ないんですよね。

 

そんなんでいいのかな?とプラダを着た悪魔2のプロモーションを見て思う今日この頃

 

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定義でいえば

自治は自分たちの住む地域は自分たちで守り、作り上げるという「市民参加」の意識と責任。

ボランティアは 「自発性」「無償性」「社会性」を原則とした、第三者や地域社会のための行動。

主体

自治地域住民全体、あるいは自治会や町内会などの地域組織。

ボランティア個人、あるいは志を同じくする任意のグループ。

目的

自治:住民全体の利益、円滑な地域運営。

ボランティア課題解決、支援、人とのつながり。

 

という感じでしょうか?

とはいえ自治会や町内会は、法律上は「権利能力なき社団」や「認可地縁団体」であり、任意団体なので法的な「加入義務」はありません。

 

法的義務がないから多くのが自治会もボランティアだと思っていることは否めません

ボランティアを奉仕と訳してしまったこともあって、無償の活動=ボランティアが浸透していることが大きく影響していると思います。

 

だから自治(生活インフラの維持管理)は本来公と私の間に存在する「公共(パブリック)」だったはずが、ボランティアという「善意の余力」と解釈してそこに依存してしまった結果、地域の維持管理は受益者負担であるはずという原則が疎かにされてしまったのではないかと思います。

 

また日本人の多くは公共の概念が低く、社会には公と私しか存在しないと思っているから自由を声高に主張してる人は、自治も公(行政がすることだと主張されるんですよね、でも行政に任せるということはお国の管理、つまりは個の自由の放棄になるんですけどね。

 

自由は本来自分たちのことは自分たちで決める権利(自律)とセットなので、そのためには相応の義務と責任が伴います。だから人は自由を恐れる(バーナード・ショーの言葉)んですが、日本で自由を叫ぶ人の多くは、自由何の負担も負わなくていい状態思っているんですよね。

 

昨今は、公か私か、損か得か、yesかnoかの二進法でしか考えられない人が増えているのが私には少し残念です。

実際、繋ぐという役割を担う中間支援組織や自治組織はなかなか評価されません。理由としては成果が自分より他者に帰属するため個人の利益・効率・コスパを重視する人たちにとって成果が見えず、達成感を感じられないからだといわれています。

 

その一方で、震災後やコロナ禍の緊急事態宣言中の行動の規律の正しさは世界でも類を見ません。

平常時に「自治」が機能せず、有事にのみ「規律」が発動できるのは不可思議な日本人の国民性といえるかもしれません。

有事には、誰に教わったわけでもなく、他者のために動き規律を守る。そこには損得を超えた「生きるための和」が間違いなく存在していると感じますが、その規律正しさは、実は「自律的な判断」ではなく、「場の空気を読み、型に合わせる」という同調圧力のポジティブな発現だとの指摘があります。

 

日本の自治は、欧米の自分たちで勝ち取る権利はなく、与えられた枠の中での運営に近いものだったからという指摘です。

 

なるほど、そうかもしれませんね。

 

現代人が標榜する自由や個人主義は、本来その土台となる公共心や自分が社会を構成する一要素であり、自分の自由を守るために、他者の自由と折り合いをつける責任を負うという自律した市民という意識が抜け落ちた、自分は誰かが作った社会という商品を、代価(税金)を払って享受する消費者感覚、他人事になってしまっている気がします。

 

自由は行政に依存せず誰にも縛られない代わりに、自分の足元を自分で固める(=自治)という働きがセットになっている本来とても厳しいもの

そう考えると今の日本の多くの人が求めているのは、自由ではなく管理された中での気ままさかもしれませんね。

 

これは以前記事でも触れた聖徳太子の「和をもって貴しとなす」金子みすゞの「みんな違ってみんないい」の誤解釈と同じ気がします。

 

「和をもって貴しとなす」は、単に空気に合わせることではなく、違う意見があることを前提に、それでも共に生きるための着地点を泥臭く見つける合意形成のプロセスしっかり議論せよ(独断するな)というもの。しかし異論を排除、あるいは面倒を避けて関わらない、同調する事なかれ主義を「和」と呼んでいる人が多いと思います。

 

 「みんな違ってみんないい」は鈴と鳥と私ではできることも違うしできないことも多い、それを受け止めたうえで社会という一つの仕組みの中で、それぞれが自分にできる責任(役割)を果たすという相互補完のこと。しかし、今は私はやりたくないからやらない。それが私の個性だ勝手気ままにしていいという個人を正当化する免罪符として使われています。

 

世界を見渡せば「自由と責任」の形はより明確で、血の通った選択の結果として存在しています。

 

例えばアメリカの自治は

国に管理されない自由の代償として、恐ろしいほどの物価高も高額な医療費も治安の不安定さも「自己責任」として引き受けていて、その欠陥を補うのが、凄まじいまでの寄付文化や自分たちの街は自分たちで守るという自警団的な精神に基づいNPO(自治・ボランティア)という自発的組織です

 

北欧は真逆で国家との契約基づいた徹底的な実益重視の自治です。

福祉(安心)の代償として、重税だけでなく兵役や労働の義務を負国との契約を忠実に履行している。特にスウェーデンなどでは、国が高い福祉を保障する一方で、生活の足元にある管理は住民の義務として組み込まれているようで、分譲・賃貸を問わず建物の清掃や庭の手入れを住民が交代で行う「トゥグダグ(清掃の日)」が厳格にありサボると「管理費(罰金)の上乗せ」という形で明確にペナルティが課されると聞きます

北欧の人にとっての自治はボランティア(善意)ではなく、自分たちの資産価値と生活環境を維持するための実務、ただ行政は大きな枠組みは作が地域内の細かい運営には口を出さない。住民組織強い決定権(自分たちでルールを決め、違反者に対応する権限)を持つ義務としての共同体管理で成り立っているそうです。

 

また任意も同様で、公(強制)ではないが、共(自治)の中で自ら役割を選択し引き受ける、アメリカのように公を信じないから自分たちでやる(自治)、あるいは北欧は公と契約したから自分たちの分をやる(義務)という主体的選択が本来のはず。

 

対して今の日本だと、公(強制)に依存しながら自分の義務は自由の名の下に嫌ならやらなくていい、何の責任も負わなくていい拒否する消費者的な拒否権を自由、任意と呼び、任せて文句を言い高負担も責任も引き受けないそんな考えがとても多いと感じています。

それって自律した市民といえるのでしょうか。

 

前回の記事に書いたようにすでに自治会の裁判やPTAの裁判で司法の判断はあくまで団体の性質上強制加入は認められないと言っているだけで地域インフラを誰がどう維持すべきかという統治上の問題も自由といったわけではなく、受益と負担の適正化はしっかりと認めたものでした。

 

アメリカのように「国がやらないから自分たちでやる」という自立心も、北欧のように「国に任せる代わりに義務を果たす」という契約精神もないまま、法的に自由であること社会的に無責任であることは別物であるという当たり前の倫理を受け入れず、欧米流の権利だけを輸入して権利を主張することが正義と信じ込んでしまっている人が多いのが現代の日本社会かもしれませんね

 

改めてPTAはボランティア組織でしょうか?自治組織でしょうか?それとも・・・

 

 

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GWで少し時間ができたので、PTAに関するSNS(主にX)の投稿を久しぶりに拝読しました。

批判的な人もそうでない人もその大半の人がPTA=ボランティア団体を前提に意見をされていると改めて感じました。でもなぜそう断言できるか、その根拠や理由を明確に説明している人はいらっしゃいません。これは以前触れた論理的・科学的な根拠のない「人権」を絶対化しているのと似ていると感じます。

 

政府や行政が言っているから? 日P自らが言っているから? 知識人やジャーナリスト、学者が言っているから?

 

私がPTAをボランティア団体だと思っていない理由は何度も書いてきました。

 

ボランティアは原則としては自分の利益とは切り離された他者や社会への活動なので自分や自分の家族活動の対象としていないはず

 

一方PTAは同じ学校に通うどもたちを真ん中に置いて、家庭(保護者)と学校(教員)がそれぞれの知恵を出し合い、わが子のためにあるいは教え子のために教育環境を整える学び学びあい、それを実践するというのが目的で、自分や自分の子供が活動の主な対象で

 

PTAの活動の対象がボランティア団体とは全く違いますから、論理的に考えてもボランティアの規定概念から外れているというのが現時点での私の結論です。

根拠もないのにボランティア団体と決めつけて、ボランティアの一般的な定義に当てはまらないと批判されていますが、そもそもボランティアじゃないから当てはまらないのは当たり前だと思うんですけど。

 

明確なのはPTAは法に規定のない入退会は自分の意思で決める任意団体であることだけ。

ずいぶん是正されたものの任意だけど事実上の強制というPTAがまだまだ多いのも事実でしょう。

それとPTAがボランティア団というのは全く別で、逆に法律に規定がある強制加入団体は、特定の権利や責任が伴う弁護士会などいくつかの士業団体とマンションの管理組合などしかありませんので、世の中のほとんどの団体は任意団体です。

 

もし任意団体(入退会自由)=ボランティアならこうした世の中のほとんどの団体がすべてボランティア団体ということになってしまいますが、さすがにそれは乱暴でしょう。任意であることはただの構成上の属性ボランティアを規定する根拠にはならないと思います

 

またPTAは社会教育関係団体と言われていますが、これも法に規定があるわけではありません。

法には社会教育関係団体は「公の支配に属さない団体」と定義しているだけで、PTAの名称は一切出てきません。また公共的な活動をしなさいとも規定もありません。

 

もし社会教育関係団体=ボランティアなら囲碁サークルや野球クラブやサッカークラブなどもボランティアとなってしまいますが、誰もそうは思っていないでしょう。

 

極端に言えば自分や自分の子のために活動することがボランティアならば、家庭内での育児や家事もボランティアとなってしまいませんか?

 

活動の対象が自分や自分の子どもたちということを鑑みれば、どちらかといえば「自分たちのことは自分たちで」という自助(セルフヘルプ)、自治組織や互助組織に概念は近いと思いますが、これも法的な根拠があるわけではありません。

 

だから私のブログのタイトルが「PTAはPTA」 なんです。

もし、PTAがボランティア団体だという明確な根拠があればぜひご教示ください。

 

また、同じように問題視されている自治会や町内会も任意団体ですが、ボランティア団体とは言いませんよね。

 

自治会に関しては全国各地で加入問題や防犯灯やゴミ出しルールなどで裁判が起きています。

 

最高裁の判決では規約に会員の親睦のための組織と規定されている親睦団体、入退会の規定は規約にないため入退会は自由な組織である、その一方で自治会は地域での生活に不可欠な活動(ゴミ集積場の提供や管理や防犯灯の管理、地域清掃など)を行っているのでそれに対する対価支払う必要がある(義務)との判決でした。

昨今の地裁での自治会裁判も同じような判決になっているため、ボランティアという概念ではなく受益と負担の適正化という自治組織の論理で実態と照らし合わせた司法の判断といえるのではないかと思います

 

PTAに関してもいくつか裁判が起きていますが、有名なのは熊本のPTA加入問題裁判と堺のコサージュ裁判です。

熊本の加入問題では、PTAが冊子を交付し原告が会費を納入したことで両者に黙示のPTA加入に関する合意が成立民法ではPTA加入について特に書面が必要ではなく、黙示の意思表示により成立しうるという判決でしたが、配布した冊子だけでは小学校がPTAを統括しているように保護者誤信する可能性があることがわかり、控訴審の和解案に会が自由な任意団体であることを認識し、十分に周知することが示されました。

 

コサージュ裁判では卒業式の記念品が受け取れない等の不利益が生じた、控訴審では実費負担の申し出を拒否したことは、子どもに対する差別との主張でしたが、PTA側には退会した保護者の申し出をすべて受け容れる義務はない。またPTAが任意団体である以上、構成員の子どもと退会した保護者の子どもとの間で取扱いに差異が生じるのはやむを得ない。

またPTAは学校にコサージュの仕様を伝えて、退会保護者が用意できるようにしたのだから、PTAが退会保護者の子どもを差別したことにはあたらない。

こうしたPTAの一連の行為が退会保護者に対して、PTAへの加入を強制するものとも認められない。

との棄却理由でした。

 

PTAは学校環境の維持や子供の安全確保という、構成員やその子ども全員に関わる共通の利益(あるいはコスト)を自分たちで管理・運営する組織であり、この棄却理由から司法はPTAが公共のボランティアではなく、自分たちのルールで自分たちの環境を運営する受益と負担を原則とする自治組織であることを認めているようにも受け取れます。

 

判決文や理由にもPTAがボランティア団体だとは一言も出てきません。

 

しかし法的根拠や論理的な根拠を他者に示せという人たちの中には、こうした法的な問題がないという判決がだされてもPTAは学校の子ども全員のための組織を前提とした対応が望まれると道徳論・感情論を持ち出して、それを差別という表現をされる方が多くいらっしゃいます。

 

別に主張も要望もかまいませんが、どうするかはその団体の構成員が決めること。

また別の視点でみれば、仮に自治組織なら参加・不参加の自由はあるが、不参加者がその自治によって得られる利益(備品、イベント、安全管理など)を無条件で享受できるわけではないことは受益と負担という民主主義の原則であるということを学校や保護者が子どもたちえる必要があるのではないかと思います

 

学校での配布物に差異があることが差別なら、努力や負担の有無によって結果に差が出ることすべて「差別」学校で成績の順位をつけたり、任意での夏休みなどの自由研究など民間が募集するチラシも配布できないし、応募した児童生徒が受賞した際に朝の会などで表彰もできなくなります。

 

それを差別だとPTAに対して「会員・非会員に関わらず一律に扱うべき」という通達や指導する教育長や市教委は論理的な平等ではなく、単なる事なかれ主義の責任逃れをPTAに押し付けているようにさえ思えます。

 

先に書いたように自治組織と言い切れるか法的な根拠はありません。ただ実態を鑑みるとそれに近いというだけです。

 

ボランティアも同様で明確な定義があるわけではありませんが一般的に「自発的な意志に基づき、他人や社会に貢献する行為」とされ4原則 自主性(主体性) 社会性(連帯性)無償性(無給性) 創造性(開拓性)がうたわれています。

絶対的な定義がないのは価値感が人や文化、時代によって違う、変化するからといわれています。

 

突き詰めれば「自発性」や「主体性」を標榜しながら学校(官)からの要請に応えて活動するのはボランティアではなくただのお手伝いもしくは下働きになってしまいますが、日本ではそれをボランティアと呼んでいるんですよね。

 

生活様式や価値観の多様化、日々の多忙さに加え形骸化しつつある活動の実態からPTAや自治会は時代に合わないと全国では解散や廃止というところが出てきています。

 

構成員の皆さんの判断なのでそれは尊重しますが、私は自分たちで決めて自分たちで行動するという土台(組織)や緩く繋がるいうツールを本当に手放していいのだろうか?

 

廃止や解散はそれを手放して、これまで以上に公(官)に任せるということになりませんか

 

自由や人権を謳いながら、自由とは真逆の自分たちが忌み嫌ってきた強制とか全体主義に加担するを自ら進んでいるように思います。廃止や解散を内心ほくそ笑んでいるのは行政かもしれません

 

ボランティアだから嫌ならやらない、強制は差別だと権利を主張してPTAを解体・縮小していく行為は、一見すると自由を勝ち取っているように見えます。確かにそこにかけていたコストはなくなるでしょう。でも自分たちで物事を決める力(自治能力)を自ら放棄し、国家権力にお預けしていることになります。

 

そうした主張を見ていると、世の中には「公」と「私」しか存在していないかのように面倒なことは行政がやるべきだ思っているようにしか見えない。でもそれは生活の細部まで行政の管理・コントロールを受け入れるのと同じじゃないか、でも自由といいつつ自らそれを望んでいるように見えると最近強く思います

 

なぜでしょう? 責任を取らなくていいから、楽だから。それをある人は「自由」を求めて走っているつもりが、実は「自ら檻の中に入り、鍵を官に渡している」と表現されていましたが強烈な皮肉ですよね。

 

仕組みがおかしいという人もいらっしゃいます。でも私はそうはっていなくて今の仕組みをどう使うか、そして誰が主体なのかが肝心、PTAでできることたくさんあります

 

PTAを解散・廃止した後に、繋がる・意見集約機能はあったほうがいいと保護者だけの組織、保護者会を立ち上げているところも多くありますが、ある意味学校や行政そちらの方が怖いんじゃないかと思ったりします。

 

なぜか?

保護者だけの純粋な組織(保護者会)になると、自治を機能させ始め自分たちで決めて動いている組織は、学校にとって最強のパートナーであり、同時に最も無視できない存在になるからです

 

私個人は教職員が会員であるPTAのような学校現場と保護者が一緒になった組織のほうが知恵も力も出ると思っていますそもそも設立趣旨は対立や分離ではなく協働の相乗効果にあったんじゃないでしょうか。

 

学校によって子どもの数、先生の負担、地域の特性はすべて異なります。それぞれの現場に、それぞれの最適解があると思います

 

構成員が疑問に思ったら調べる、聞く、考える、話し合うという最も基本的で地味なステップを積み重ねること そこで出した答えがその現場の最適解だと思います

 

そのための第一段階がアンケートと懇談会による意見の聴取と集約、そしてフィードバックによる情報共有と意見交換。自分の意見が形になるのは大人も子供も誰でもうれしいものです

ただ間違えていけないのは受け止めても、それをすべて受け入れないこと。

実現できないこともありますが、意見が多くの人の目に触れるだけでも一つの成果プロセスを大切にすることが信頼関係の礎になると思います。

 

 

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前々回の記事の中の意識アンケートで「要望・意見してもフィードバックがないので言う意味がない」という声が最も多かったのは、過去に要望しても設置や改善が見られなかったのかは不明ですが通学路の件でした。

 アンケートのお子さんの通学路を歩いたことがあるかという問いにはほぼ全員が「ある」と回答、安全かどうかの問いには、8割以上の人が「概ね安全」との回答でしたが、逆にいえば2割近い人が「注意が必要」ということになります。
具体的な自由意見では「押しボタン式信号の設置」「横断歩道の白線引き直し」「水路への転落防止柵の設置」「カーブミラーの設置」「私有地の草刈り」などの要望があがりました。

 居住市では新1年生も始業式から通学班での登校が基本なので、保護者の方が学校まで付き添うことはありませんが、それでもほぼ全世帯が通学路を歩いたことがあるとの回答にちょっと驚きましたが子どもたちの安全への意識が高いことが分かってよかったです。

私が暮らす地域は市街地から少し離れていて地形的には細長い盆地、古くからの街で東西南北に走る歩道のない幅員8mほどの幹線道路3本がメインです。もちろん生活道路にも歩道はありません。

暮らしてきた人には当たり前でも、市外や他の地域から転入・転居されてきた人は歩道がないことにとても驚かれます。

 通学路はメインの幹線道路をできるだけ避け、生活道路や幅員2mもないあぜ道などが指定されていますが、学校が幹線道路に挟まれているので、どの地域からも一度は幹線道路を横断する必要があります。

 いただいたご意見要望を、内容から警察、自治会、行政(市や県)に分けて事前にそれぞれの機関と提出時期も含め協議をしたうえで、自治会を通して要望書を提出しました。
 なぜか? 警察も行政も、個人や一団体よりも、地域自治会など多くの人たちの要望であることを求めるからです。
 また横断歩道や側線の白線の引き直しは、県警全体予算枠の中で警察署ごとに割り振られるので所轄管内の要望から優先順位を決めるので俎上に挙がってもその年度に実行できるとは限らないこと。
 さらには地域全体に関わることなので、それを設置することが本当に望ましいか?の判断が必要なことなどから自治会を通しての要望書提出となること。

 草刈りについては公有地なら管理者(国・県・市)にお願いできます。ただこれも予算枠が限られているので現実として1か所年1回がやっとでした。私有地については行政が勝手に手を出すことができないので、ご地元で所有者が分かっているのなら所有者にお願いするか、許可をもらって自分たちで草刈りをするかになると回答しました。

私の子どもたちの通学路も40年近く前に当時の保護者が地主にお願いして幹線道路から民有地を通るルートに変更されたようで、民有地の通行許可の条件がちゃんと草刈りをすることだったそうです。5月と9月に年2回、そのルートを通る通学班の保護者有志で行っています。

押しボタン信号については、警察と学校、交通指導員さん、安全ボランティア、自治会役員と協議しました。要望箇所は2か所、一つは見通しのいい直線道路で通常の信号から近い場所、もう一つは信号のない三叉路にとても近い場所でした。子どもたちの登校時間は通行車両も多いので、それだけを考えると確かに有効だと思いますが、当時の押しボタン信号は反応に時間がかかるタイプしかなく、場所的に信号を設置すると渋滞する可能性が高いことや住民の利便性が却って低下するのではないかというのが警察や交通指導員さんのご意見で、一旦要望を保留し調査をしてみることになりました。
それらを地域とも共有して会員の皆さんに経過報告として配布しました。

年度末には横断歩道と側線の白線は綺麗になり、年1回でしたが公有地の草刈りも実施されました。

その翌年度、行政が音頭をとる警察、学校、自治会、PTAによる通学路総点検事業に手を挙げました。平日の午前中ということもあって、参加希望者を募っても10人ほどでしたが、立場が違えば見る視点も違うので、新たな注意個所や問題個所を見つけることができ、直接担当機関が確認できたことが大きな収穫でした。

この事業の成果品としては用水路に転落防止柵が何か所か設置できたこと、危険な場所には側溝を伏せ越したこと、そして通学路危険個所マップが完成し配布できたこと。

もう一つ、行政が作成して多分地域やPTAで設置しただろう何種類かの交通安全啓発用看板が経年劣化によりボロボロになっていたことが協働の総点検で分かりました。

正直いつ?誰が?設置したのか定かではありませんが、当該年度は市の方に啓発用看板のストックが一定数あることを確認したので、会員の皆さん(特に地区委員さん)に啓発看板総チェック(新規設置含む)をお願いしたところ、実に60か所の看板の交換及び設置の要望が上がってきました。

私にとっても通学路全部を確認できるいい機会だったので、要望箇所を回ってみました。
中には警察所管の看板もありましたので対象となるのは50か所くらいで、確かにかなり古い看板が多かった。市からは要望の9割に充る44枚の看板を提供してもらえることになり、看板の取替設置を日曜日にして協力していただける人を募りましたが、結果は私と先生2名を含め8名。これが今のPTAの現実なんだと実感しました、PTA=役員と思っている人がまだ多い、だから役員がやればいいという感覚でしょうね、運営側のPR不足・説明不足を痛感した事業でした。

さらに翌年、地区別の懇談会では登校時の旗当番が議題に上がりました。
旗当番はその場所を通って通学する地区の会員が担うシステムで、方法も地区にお任せしています。

児童が年々減少傾向、最も多くの子どもたちが横断する学校に一番近い場所を担っている地区の世帯数も減少、これまでの2人体制を維持するための他地域への応援要請です。
押しボタン式信号設置の要望がある場所です。

各地区で話し合った後に全体会を開催し、地区の意見を出し合った後に話し合いました。

他地域は自分たちが担う場所でも当番があるのでダブルになり、負担が増すという意見。
自分の子どもが通らない場所での旗当番は責任が持てないという意見。
ダブルになるが自分の子どもの安全確保のためならやるしかないという意見。
皆さん、正直なご意見です。

私の地区はやったほうがいい、そしてできると思う人の当番制で行えばいいという意見でまとまりました。個人的にはその場所には毎日校長先生が立たれるし、隔週で交通指導員が立たれます。さらに大人二人だと過剰人員になるので、合計3人体制にすれば他地域と同じくらいの頻度で実施できるはずと地区ではそのように発言しましたが、せっかくのご提案なので一度やってみてから決めてもいいかなと思いました。

一旦本部預かりになり、再度話し合いの中で校長先生は敢えて発言はされましたが、交通指導員さんは私と同じ考えでした。本部は一度試しにやってみようとなり、協力できる人を募ってプラス要員として加わることで始めました。私も見に行きましたが、予想どおり大人の人数が多すぎて却って危ない印象さえ持ちました。実際に当番をされた方たちも同じ意見だったので、他地域からの応援なしでの校長先生含めて3人体制での実施となりました。

やってみて分かったことなので、納得感を得るために「まずやってみる」は大事だなと思いました。

後悔しているのは子どもたちと一緒に歩いて点検しなかったことです。
子どもの視線・視野と大人のそれではずいぶん違います。子どもも低学年と高学年ではずいぶん違います。危険だと感じることも違います。子どもたちと一緒に歩いて、その違いを時価の現場で気づいて点検したら、さらに安全ルートになるかも・・・

 

また、通学路のルートの途中に宅地開発がされ一定期間通行できないという事案が起き、学校からその間の通学路変更ルートの案内が対象地域(私の居住区域も含まれます)にありました。

確かにそのルートが現実的だったですが、ほかのルートも考えられるので、一旦待ったをお願いして学校と対象区域の保護者に連絡して臨時かつ緊急の話し合いの場を作ってもらいました。

考えられるのは①ちょっと遠回りの学校提案ルート②一昔前の最短ルート③距離が一番長い車歩道分離型のバイパスルートの3ルートでした。

①と②はバスやダンプが走る注意が必要なルート③は安全だが通学距離が延びて低学年には少し厳しく、人家がないので夜は暗くなってしまうルートです。

それぞれの距離と注意すべき点と、ルート図とルートの写真を添付した資料を作成し皆さんからご意見をぃただきました。

 

安全面を優先するなら③、距離を優先するなら②、その中間が①

いろいろな意見が出ましたが、低学年にはかなり厳しい③が最初にはずれ、より安全な学校提案の①のルート、ただ大型車が走る歩道のない幹線道路を歩くためその区間100mほどを保護者登板が付き添うことで合意に至りました。

 

後から聞いた話では学校に自治会長からルート変更について大丈夫かと問い合わせが入ったようですが、保護者が既に動いていて検討を重ねた結果だということをお伝えして納得されたようです。

 

皆さんは通学路、歩いたことありますか?

 

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