PTAはPTA -2ページ目

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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フジテレビの問題はじめ兵庫県知事選や東京都知事選など、最近のTVや新聞・雑誌などの報道や記事、またSNSなどを見ていると「軽率な一般化」「一事が万事」という言葉が私の頭の中をよぎっていきます。

「軽率な一般化」とは、自分の身の周りで起こった出来事、あるいは自分がたまたま見聞きした事象から結論を引き出し、その結論を一般化してしまうこと。

「一事が万事」とは一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができるという意味。

人に対して使う場合、どちらもひとつの行為だけを見て、その人を「あいつはこういうヤツだ」と決めつける思考停止のひとつだと私には思えてなりません。

そういった決めつけの主張が多いことがメディアやネット、SNSの特徴の一つかもしれませんが。

10年以上前にネット上のPTA絡みの掲示板に上がっていたある投稿が私にはとても印象に残っています。
それは「経歴にPTA会長とある政治家に投票しないで」という投稿でした。
投稿をした人の大きな理由は
「政治家になるための足掛かりとして誰もが嫌がるPTA会長を引き受けた」でしたが、
 それだけにとどまらず
 「違法行為(自動加入、入会届未整備、任意加入未周知)だから」
「地元有力者がPTA会長(や自治会長)になるのは利権絡みだから」などが続いていました。

その人が知っているPTA会長がそうだったのでしょう。
確かに市町村議員の中にはPTA会長経験者がそこそこいらっしゃいます。
政治家への足掛かり、第一歩と考える人もいらっしゃるでしょう。

でもPTA会長経験者の政治を志した理由が一事が万事、すべての人がそれとは限りません。

任意加入を広く周知したいというのが本旨で、大所高所から客観的な視点からの投稿が多かった人なのに、その投稿だけが私には『軽率な一般化』に映りました。

職が個人経営、サラリーマン、職種もマチマチ、JC出身者もまあまあ何人かいらっしゃって、どうして市議会議員に?って知り合いの議員さん数人にも聞いてみたことがあるんです、とても政治に興味があるとは思えなかったから。

田舎の市町村議員は地域代表(代弁者)みたいなところがあって
「多くの人から頼まれて・背中を押されて」という答えとともに「PTA会長を経験してみて、政治の重要性に気づいた」「現状を変えられるかもしれないと思った」という答えが返ってきました。

以前、「長」という職責は「やりたい人」ではなく「やってほしい人」に担ってもらうものだと言われたことがありましたが、一理あると思います。一方で「やりたい人がやればいい」と言うのも理解できます。

でも「やりたい人がやればいい」と主張しながら、実際に「やりたい人」や「やっている人」を非難するっていうのは明らかに矛盾しているとも思うんです。

ボランティアや地域活動などに熱心な人は、兎角ターゲットにされやすくて非難を浴びているんですよね。
目立ちたがりだ、お山の大将だ、自己満足だ、偽善だ、売名だ、利権絡み、労働力搾取、下請けなどなど

やる・やらないは本人の自由だし、その理由もそれぞれ何かしらあるでしょう

単純に誘われたから、何となくって人も多いと思いますよ、アンケート調査結果でもボランティアを始めたきっかけが「友人・知人に誘われた」が一番多いらしいですからね。

やっている人がやらない人を非難するのはどうかと思いますが、逆にやらない人がやっている人を非難するのも、どうでしょう?
もっと滑稽じゃないですか?

先日のマジョリティとマイノリティの立場の話ではありませんが、人は誰しもみな「自己矛盾」を抱えているんですよね。

自分がマイノリティの立場時には民主主義とは?と強く唱え、数の論理・単純多数決を批判して少数意見の尊重を強く訴える人が、逆にマジョリティ側に立つと少数意見を切り捨て、単純多数決・数の論理を正当化して称賛しているという矛盾をよく見かけませんか?

時々見かけるのが、

事業や行事の廃止の決議が賛成多数で可決
Pや日Pの加入・脱退(退会)を賛成多数で可決
PTAの解散を賛成多数で可決

全会一致ではないのに称賛の声が多くあります。
少数意見は切り捨てればいいとまでいう人もいらっしゃいました。

いつも声高に主張している個人の尊重は?少数意見の尊重は?民主主義の原点はどこに行ったんでしょう?

 

どこかに置いてきてしまったのでしょうか

自分も無意識に同じことをしているのかもしれません。

指摘している自分こそが、実は、指摘されている側に立っている。
笑っている自分が、実は、笑われている側の人間である。

それに気づいている人は絶えず葛藤を抱えているし、気づいていない人の言動はどこか荒唐無稽に聞こえてきます。

軽率な一般化

自分も気をつけなくちゃいけませんね。

 

 

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人が挨拶をするのは、人と人がコミュニケーションを取るための最も基本的で大切な手段、社会に生きるマナーだと言われていますが、これは世界共通だと思います。


挨拶を交わすことは相手の存在を認めていることを相手に積極的に伝える行為であり、人間関係を円滑にし、相手との距離を縮めるための基本的な行動でもある。その積み重ねが信頼関係を築く土台となることから、挨拶の大切さは多くの人が認識できていると私は思います。

そんな中、最近の人たちは挨拶をしなくなった(できなくなった)という声をネットでもリアルでもよく見聞きします。

子どもや若者に対してが多い印象ですが、私は年齢はあまり関係ないんじゃないかと感じています。

ただ、挨拶をしない(できない)理由についてはその人の成長過程や経験知が影響しているのではないかと思うことあります。

挨拶をしない理由について、子どもや学生へのアンケートでは
「恥ずかしいから」「相手にあまり興味がないから」「警戒しているから」「面倒くさいから」「無視されたから」という回答が多いようです。

私も中学を卒業するまで赤面症で悩んでいたので「恥ずかしい」はよくわかります。

見知らぬ人に挨拶をしない(できない)のは、子どもへの声かけ事案などあって犯罪リスク回避を理由に子どもには「挨拶ない・話さない」と教えている保護者が増えている影響もあると思います。

一方で真逆の、知らない人でも挨拶を交わしたほうが防犯上安全という人たちも多くいらっしゃいます。警察は挨拶し合う・声を掛け合う街ほど犯罪率は低いと統計を元に話しています。

どちらが正しいとか間違っているとかではないし、土地柄や地域性もあると思います。

若手会社員が挨拶をしない理由として答えているのは
「挨拶するかしないかの基準は人によって違う」「挨拶しない自由がある」「気持ちがこもっていない挨拶は必要ない」などが多く、子どもや学生とは違う理由が加わってきます。

現代の世相を反映しているように思える理由ですね。
ビジネス文書やメールでも、定型句や時候の挨拶は無駄、必要ないという人たちも増えてきています。

一理あると思うし、相手方もそういう考えならば全く問題ありませんが、そうでないとその一言を、その一文を削除しただけで不快感を覚え、商談が不成立になることだってありますので、自分本位に考えるのではなく慎重にねって老婆心ながら思います。

なんてたってお互い信頼関係を構築するための第一歩が挨拶ですから。

また、年齢・世代に関係なく挨拶をしない理由として多いのが
人づきあいが苦手、社交的な場が好きではない、過去のトラウマからなどがあります。


確かにありますよね、私もどちらかと言えば社交的ではないし、そういう場も得手ではありませんのでよく分かります。

でも、だから挨拶しない(できない)というのも違う気がします。


そんな理由の中でも、とても的を得ている・鋭いなって思ったのは日本では客側から店員への挨拶感謝を述べる事を必要としていない環境になってしまっている、挨拶するのは店員側、挨拶されるのはお金を払う客側という一種の上下関係に似た構図となる土壌があらゆる場に浸透しているため、挨拶はするものではなく、されるものだと思っている人が多いのではないかという指摘です。

偉そうにするお客や上司、学歴や職業から人を見下すような態度の人、いますよね、リアルでもネット上でも。

挨拶をするのはどんなシーンなのか?

日本でも世界各国でも、朝の出社時や帰り際、朝起きたときや外出するときなど出会いと別れの場面を想像されるのは同じではないかと思います。

ただ諸外国の挨拶は「親愛」の意味合い比べてみると日本人にとっての挨拶は「礼儀」や「尊敬」「労い」の意味含まれていて、そちらの側面がとても強いのではないかと言われます。の象徴的なのが「お辞儀」だと。

確かに日本人はよくお辞儀をしますよね、挨拶する時はもちろんですが、人とすれ違う時、扉を開ける時、道を譲ってもらったとき、私もやってしまいますが電話をしているときだって、まるでそこに相手がいるかのようにお辞儀をしている、そんな光景に遭遇したことがあると思います。

お辞儀という行為はもともと中国から仏教が伝来したタイミングで日本に伝わったとされていますが、中国ではお辞儀が日本ほど頻度高い行為ではないようです。
日本のお辞儀は正式には会釈 15度)・ 敬礼 (30度)・ 最敬礼 (45度)の3種類があるそうですが、今はそこまでしなくて目礼という軽めの挨拶がよく使われていると思います

挨拶を交わすこと自体海外の方が一般的で、知らない人同士でもお店とお客の関係でも気軽に挨拶を交わしますが、言葉以外の行為では諸外国の多くは「お辞儀」ではなく「握手」が一般的で「握手」のほかにもハグ、チークキスや合掌などがあり、それらの行為は相手に敵意を持っていないことや親愛やフレンドリーさを示すものであることに対し、日本人のお辞儀は相手への敬意や労いの意味合いが強いとされています。

挨拶の文化の違いだからでしょうか、外国の人から見ると日本人のお辞儀は不思議で、お辞儀をされると戸惑いを感じる人がとても多いようです。


以前、日本人ってどうして挨拶しないの?と言われたことを書いた記事の中でも触れた外国籍の人も、日本に来てしばらくは日本人が声を出しての挨拶をしてくれなくて無視されていると悩んだそうですが、日本の生活に慣れてくるうちに声を出す挨拶はなくても、日本人の多くが会釈や目礼を自分に向けてくれていたことに気づいたそうです。

 

自国にはお辞儀の文化がないので最初は戸惑ったそうですが、慣れてくると「ああ、シャイなだけでちゃんと認めてくれているんだ、挨拶してくれているんだ」と思えるようになったそうです。

ただ、海外では日本人のお辞儀を「日本人らしくていい」と好意的に受け止められることも、「心配」「世界では通用しない」と否定的に思われることもあるので、郷に入れば郷に従えでその国の文化や挨拶の習慣に倣うこと必要なって思います。

事実、諸外国の人が日本人のお辞儀に戸惑うように、私たち日本人も挨拶としての握手については戸惑いと躊躇があったりしませんでしたか?


日本人同士で握手を求めてくるのって政治家ぐらいで、日常生活で握手の習慣はありませんよね、私もビジネスシーンで最近やっと外国の人と抵抗なく握手やハグができるようになりましたが、最初はかなり戸惑いがあって、握手してもとてもぎこちなく不自然だったことを思い出します。

もう一つ、挨拶の一つと言えるのがハンドサインやハンドジェスチャーです。

日本人が人と別れるときに「バイバイ」と手を振る行為には「無事を神に祈る」という意味が込められていると言われています。

かつての日本には、空中に多くの目に見えない神様がいるとされ、空気を揺らすことで、神の御加護による安寧を祈ったり、厄を払うと考えられていたことに由来するらしいです。

外国の人に日本に来て何が良かったと聞くと、ほぼ必ず空港での飛行機のお見送りをするグッバイウェーブや友人たちの「別れ際に手を振りながらいつまでもバイバイしてくれる日本人」がランクインするそうです。

海外でその場を去る時に手を振ってずっと見送ってくれることはまずありませんが、ドライなわけでなく、それは相手に気をつかわせない、相手のためを思ってお別れをそっけなくしているのだとか。ホント色々ですね。

そういえば食事をする時の「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶も、外国の人はとても驚くそうです。映画などを見ていると、食事の前に神様へのお祈りをするシーンが出てきますが、今は一般的ではなく、それをするのは敬虔なクリスチャンの家くらいだそうで、ご飯を食べる”合図”みたいな感覚の言葉はあるようですが、そこに感謝の意味があるわけでなく、日本独特の習慣だそうです。

挨拶はコミュニケーションを取るための最も基本的で大切な手段

 

その大切さを子どもたちに教えるのは誰でしょう?

 

学校の先生も大切さを教えてくれるでしょう

周囲の大人たちも事あるごとにお話してくれるでしょう

 

でも一番は各家庭で躾としてマナーとして子どもたちに身に着けてもらえるよう伝えていくものではないでしょうか

 

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先日、仕事でお世話になっている大学教授のお一人と仕事以外のお話しする時間が取れて、大学の内情について色々なことを聞くことができました。知らないことが多く新鮮でした。

大学教員について知っていたことと言えば法に規定のある職階(学長、教授、准教授、講師、助教、助手)と小中高のような教員免許がない(いらない)こと、それ以外は「白い巨塔」や「下町ロケット」などの小説・ドラマで大学内外の派閥による権力闘争などが取り上げられているようなことが真偽はともかく、そういうことがるのかと思うくらいで、運営側の視点を意識したことがあまりありませんでした。

その中でも描かれていたように大学教員になるには大学院に入り、修士課程を修了し修士号の取得、教授になるには博士課程を修了し博士号の取得が必須、教授のもとで研究を手伝いながら、何本かの論文を発表という構図が一般的と言われていますが、実は論文執筆は「義務」でも「絶対」でも「ない」らしく、さらに文化・芸術・スポーツ分野などで顕著な業績を残した人だけでなく、大学の教授会が承認すれば修士号・博士号を取得していなくても大学教員にも教授にもなることは可能らしいですね。

余談ですが、今回お話しした教授が私と同い年だったこと分かって、急に親近感が湧きました。


日本の大学教授は定年制があるものの基本は終身雇用制、彼は公立大学の教授なので定年は65歳、残り4年だと仰っていました。
今の普通の公務員は60歳で役職定年になるので多少優遇?されていると言えるのかな?

65歳過ぎると完全に退官するか、同じ大学に特任教授として残らせてもらえるか、私立大学に再就職するかだそうです。私立大は公立よりも定年が少し遅く68~70歳くらいだと仰ってみえました。

色々伺って一番の驚きは、大学教員が論文執筆についてです。
教員、特に教授の主な仕事は専門分野の研究と学生の教育、加えて大学運営にも関わること、これが案外大変そうです


仕事の核である研究には、成果を論文や学会発表などで社会に還元することと学生に授業で教えることが含まれてい、自身の研究成果を発表する論文の執筆は研究に関わる者にとって最重要な仕事と言えるものの「義務ではない」という事実。それでも専門分野や年齢で論文の執筆数は違ってくるそうですが、多い人は年に5~10本の執筆、平均でも年に1本程度は筆頭論文を執筆されているそうです。

また最近では地域貢献・地域再生が大学命題として課されています。

大学教員は研究室やゼミ、学生を巻き込んで地域活性化やまちづくりのための新しいアイデアを生み出したり、一緒に現場で活動したりと学生と地域とをつなぐ役割などが期待されているそうで居住市でも付属機関や様々な分野の審議会などのメンバーには学識経験者として多くの大学教員が任命されているし、自治体の担当部署、企業や商店街、まちづくり団体などとコラボして商品開発やソフト事業を展開されているのを地域メディアや街中で見かけます。

中には、教授自らNPOを立ち上げ大学の仕事とは別に、お住いの街の地域貢献に関わってみえる人もいらっしゃいます。

 

授業に研究、論文、メディアへの出演や講演会の依頼、それに加えて大学の運営となると、それをこなす教授というポジションはかなり大変です。

その一方で地域貢献はしない、論文も書いていない、研究業績もあげていないただ学生への講義だけをこなしている大学教員もクビにはならないのが日本の大学の現実だそうです。

准教授までは教授を目指して研究論文を定期的に発表していた人も、教授になったとたんに論文執筆が激減、5年も10年も論文を発表していない教授もまあまあ多いらしいです。忙しいからでしょうか。

アメリカの大学は、研究業績や講義の学生満足度を定期的に評価され、結果が悪ければクビになるらしいですから日本とは大きく違いますね。

興味深かったのは別の大学教授から聞いた大学の運営についてで、私立大学にも公費(税金)が「経常費一般補助」と「経常費特別補助」の2つの補助金として文科省から投入されているんだそうです。

経常費一般補助は、教職員の給与費、教育と研究の経費等を対象で、国庫予算で約3,000億円程度。これは教職員の人数や学生の入学定員の過不足等によって金額が決まるため、毎年増減があるものの申請すれば必ず受けられるのでほとんどの私立大学が申請していると聞きました。

経常費特別補助は特定の分野や課程等に係る教育・研究の振興を図るためのものなので申請しても、枠もあって審査によって不採択になることがあるそうです。

驚きなのはどちらも使途は限定されていなくて報告の必要もないらしいので、補助金で備品を買っても教職員の給与に充ててもいい、大学の自由だそうです。

どこの大学もだいたい支出予算総額の1割くらいをこの補助金が占めているんじゃないかと仰ってみえました。

幼小中高校の私学助成については身近でも毎年時期が来ると、増額の署名活動が回ってきますので知っていましたが、大学にも研究費助成以外の、「使途も紐付きじゃない」「自由な経常費の補助」があることは知りませんでした。

全体の1割とは言え、私立大学の運営に、自由に使えるお金として税金が投入されているわけです。私も私大卒ですがちょっと複雑な気持ち。。。

今の時代ですから、どこの大学もHP等で大学の教員や収支決算報告を公開されているでしょうから、教員の職階や学位、寄付金の多い大学、収入(研究収入など)が多い学校、資産運用している学校など、ご自身の興味のある大学の教員や運営費用を確認されてもいいかもですね、新しい発見があるかもです

 

 

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2000年前半、PISAで世界1位になったフィンランドの教育が世界中で注目を集めたことは多くの人がご存じだと思います。

私立学校を廃止して、大学まで授業料無料公立学校のレベルを一律に底上げする教員のレベルの高さ、それを支える教員になるための競争率の高さ、子どもの権利を優先する考え方、生徒が自分でカリキュラムを決める生徒主導型学習、宿題を出さない詰め込み教育をしない方針でPISAで世界1位結果が出たことに世界は衝撃を受け、世界中の教育関係者などが研修、留学、取材などの名目でフィンランドを訪れて学校現場を視察し、関係者に話を聞き、レポートを報告していました。どの報告にも理想的な教育だと美辞麗句が並び、称賛と感動にあふれていました。日本でもたくさんフィンランド教育を絶賛するレポートが報告されています。

新方針を検討していたもののまだ詰め込み教育を行ってきた日本とは真逆の方法で世界一ですから、当然日本の教育界にも影響があったでしょう、それが2002年のゆとり教育導入となったのかもしれません。

世界中から理想の教育と称賛されてたフィンランド教育ですが、当のフィンランド政府の教育文化省は1位になって以降の教育レベル停滞、学力(順位)の下落などを含め、過去20年の自分たちの教育施策理想的なものとは考えていないと一昨年?に発表衝撃を与えました。
実は国内では数年前から自国の教育に否定的な論調が大勢だったようです。

学力下落などの理由ははっきりと分からないとあるものの、世界1位になった時の子どもたちが学校に入学したの1992年頃、当時新方式は導入されていたもののまだ従前の教師主導型の教育影響下にあり、その時期に学んでいた子どもたちPISAで1位という結果をだした現実から、従来の教師指導型の教育成果だったのではないかと大学で研究、分析がされようです。

新方式が学校現場にしっかりと浸透していったのは導入から10年経過した頃、その頃からフィンランドの読解力、数学力、などのPISA順位が急激に下降しているという現実が分析結果の根拠の一つとなっているようです。

日本のゆとり教育でも課題となりましたが、フィンランドでも時間に余裕があるからと言って全ての子どもたちが、興味あることに関心を持って、自然を観察したり、楽器を弾いたり、スポーツするわけではなかったことが判明したわけです。

遊びへの欲望と闘いながら、好奇心が勝ち、学習方法を自ら選択し、計画的に学習するのは子どもにとってはとても難しく、可能だったのは環境含め条件が整っている一部の子どもに留まり、条件が整っていない子どもたちについては教師主導の方式で指導した方が良い結果が出ていて、全体として学力が二分され、その差も大きく広がる結果となったとされています。

フィンランド教育は失敗なのかと言えば全てが悪かったわけではないでしょう。


自分たちが期待していた数値が出なかったという面はあると思いますが、教育施策はすぐに成果が目に見える形で表れるものではないし、どの国の教育も一長一短、トライ&エラーの繰り返し、何かを改善してもその結果が出るのは10年・20年くらい先になるんじゃないでしょうか。

またフィンランド世界幸福度ランキング7年連続1位、他の北欧諸国も常に上位にランクされているということも世界の人々の北欧礼賛に繋がっていると思います。

そんな北欧諸国ですが、一方で日照時間が短くて気候が厳しい影響かEU諸国に比べると、自殺率やうつ病発症率が高いそうです。数字だけ見ればフィンランドの人口10万人当たりの刑法犯認知件数は日本の約18倍になります。10代の自殺率は日本より高い。
さらにアルコール依存症の人やドラッグ問題などの課題もあるし、近年は移民問題が深刻化している様子

またフィンランドでは18歳までは親と一緒に暮らし、18歳になると家を出て自分で暮らす慣習があるので、現在は孤独大国ともいわれていて、若い世代だけではなく、中年世代も、高齢世代も一人暮らしがどんどん増えているらしいです。

フィンランド統計局のデータでは、フィンランドの一人暮らしの人口数は全人口の約23%、日本の国勢調査では一人世帯の人口数は全人口の約11.5%で割合はフィンランドの半分です。

ただ一人暮らし=孤独というわけではなく、スポーツやジム、文化サークルでの活動や友人と食事したりと多様なアクティビティを楽しむ人もいます。
逆に一年を通して人に会うのはクリスマスや誕生日などのときだけという人も多くいらっしゃるようです。

それを孤独と感じる人もいれば、人に会わないことが当然であり、自然とともに生きることに幸せを感じられるという人もいらっしゃる。

幸福度ランキングが発表されるたびに諸外国からインタヴューを求められるので、それに対してイラついている国民も案外多いそうですよ。

幸福度の基準は何だ!誰が決めたんだ!ってね。

ただの普通の生活、なんとなく不満がない、なんとなく大丈夫、なんとなく生きていける生活ができている。

「幸せ」だと思う人は少ないが、自分の人生に「なんとなく満足している」という人が多いというのがフィンランド流の幸せと言えるかもしれません。

毎日「笑って過ごしているかどうか」ではなく「不幸が少ないかどうか」という解釈らしいですよ。

様々な北欧礼賛のレポートを読むたびに、隣の芝生が青く見えてしまうのか、敢えて青く見せようとして書いてみえるのか分からなくなる今日この頃。

 

 

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2024年は世界中が大きく揺れ動いた年でしたが、2025年になった今も継続しています。
ウクライナ情勢、中東情勢、アメリカ大統領選、シリアの政権崩壊、日本の中央も地方も政治が揺らいだ年、お隣の韓国も大統領による非常戒厳令の発令・弾劾、USスチール買収問題など、世界中のリーダーがやや右方向に、そして強いリーダーを求める方向に進みかかっている世界市民が多い今、民主主義という言葉をもう一度噛みしめています。

民主主義は一人ひとりが主権を持ち、その意志をもとにして政治を行う主義のこと、民主的とはどんなことでも一人ひとりの意見を平等に尊重しながらみんなで相談して決め、誰もが納得のいくようにすることとあります。考えが違ってもとことん話し合って相談して決めることが本旨、これは聖徳太子の17条の憲法の第17条と全く同じ、現憲法も同じ、多数決は意思決定の最後の手段として有効であっても決して民主主義=多数決ではないということですね。もちろんリーダーの強い意思表明も重要ですが独裁は論外のはず。

ネットやリアルで色々なご意見や発信に触れて思うのは、誰にも一人の人の中に、ある属性においてはマイノリティ、でも別の属性ではマジョリティという面がある、逆に言えば一人の人が全てにおいてマジョリティであることやマイノリティであることは稀だということ。

誰しも実はそのことをちゃんと認識しているはずですが、いざジブンゴトになると・・・・・・なんですよね。

相手の立場になって想像しろと言われますが、ある分野で自分の考えがマイノリティ側の場合、その分野のことには超敏感で、ちょっとした他者の言動に差別や偏見を感じたりして自己肯定感が低くなりがちですが、別のある分野でマジョリティ側にいるとその立場が当たり前すぎて、マイノリティ側の心情や立場が想像できない、とても鈍感になっています。

人って自分には甘いので、他人の矛盾には過敏に反応するけど自分の矛盾には鈍感、そしてそんな矛盾した自分には気づかないふり、自分も含めそんな人が多いように思います。

例えば、人権侵害、個の尊重を声高に発信し、相手に根拠の提示や論理的な説明を求めてみえる人たちが、相手の人権は認めず「やられたらやり返す」という思考を是と主張されているのを目にすることがあります。

そういえば10年位前に池井戸潤さんの作品の主人公「半沢直樹」のセリフ「やられたらやり返す 倍返しだ」が流行語大賞を受賞するほど有名になりましたね。

理想と正義を追い求め、自分の信念のもとに突き進んでいく姿は現代版の水戸黄門様のようで、相手に下す正義の鉄拳はスカッとします。
私も「やられたらやり返す」は感情的にとても共感できます。
当時、主人公半沢直樹を理想の上司像に挙げる人も多かったようです。

江戸時代、武家文化の日本では、この「やられたらやり返す」は一定のルール下で「仇討ち」として認められていましたが、世界史で習ったハンムラビ法典や旧約聖書に載っている「目には目を、歯には歯を」という復讐律と呼ばれる考え方も同じ、世界的に容認されていたように思います。

ただ復讐律には何でもOKではなく、「自分がやられた以上の過剰な復讐はできない」という意味が込められていると言われていますが、裏を返せば同じ程度の復讐ならばやってもいい、復讐は是としているとも解釈できます。

忠臣蔵が今も世でも人気があるように、感情的には理解も共感もされる人は多いと思いますが相手の「人権尊重」とは真逆にあると思うので、人権を語る人が一方で「復讐律」を是として行動や発言されることにはどうにも腹に落ちなくて、とっても自分本位の都合の良い人権尊重や個の尊重だなって感じてしまいます。

少し前に興味深いある大学教員のツィートが流れていました。
講義やゼミの中で学生たちに「話し合って決めよう」と言うと、学生たちは「じゃあLINEで投票しよう」と言って碌に議論もしようとせず、多数決に走ってしまう、議論することを避けている人が若者の中で増えてきているという内容でした。

理由としては
「意見交換しても持論は変わらないから時間の無駄」
「現代は多数派につくのがよしという文化」
などが多いようで、心配なのは「議論が怖いから」という理由だそうです。

人権や自由の問題とよく似ている気がしました。
本来、Aの人権(自由)かBの人権(自由)かのどちらの人権(自由)が正しい、100か0かの問題ではなく、自分の人権を行使することで他人の人権を侵すなど影響が出る場合、相手の人権ときちんと向き合い自分の人権が制限されるかもしれないがお互いに譲れるところは譲って双方の人権(自由)が両立できるよう努力をすることが求められている、それを憲法では公共の福祉という表現で謳っていると思います。

しかし、自分の意見に対し、そういう考えもあるんだと受け止められればいいけど、それって違うんじゃない?って言われたら、自分自身を否定された気分になるので怖くて自分の意見を言えないらしいです。

言われてみれば会社の若手社員にもそういう人が増えているかも・・・
いや自分にもそういう面があるなあって改めて痛感させられます。

確かに私たち日本人は「ちがう意見=敵」と思ってしまいがちかもしれません、とても考えさせられる一言です。

意見の賛否とその人のパーソナル、人間性を切り離せないため、つい違う意見の人を敵とみなして人格攻撃を始めてしまうことが多いかもしれません。

そういう思考だと敵には容赦なく攻撃するし自分が正しく相手は間違っているという極論に走るようになっていくと指摘されています。

加えて、意見がちがう人=敵だと考えている限り、お互いを認めないまま意見も譲らず、ひたすら平行線をたどるだけ、それは議論ではなくただの意見の押し付け合いになると警告もされています。
公共の福祉という考えはどこかに忘れてきたんでしょうか。
いや、最初から持ち合わせていなかったのかもしれません。
だから不断の努力が必要だと憲法に謳ったのかもしれませんね。

ネット上ではまさしくそれに当て嵌まるやり取りが多く散見できます。
ネットの普及により価値観が違う人を避けることも一方的に非難することも、自分と同じような価値観の人たちだけで繋がるムラ社会を形成することも容易になったため、お互いが自分のムラの中だけで、意見や価値観の違う人を非難し続けていることがとても多いように思います。

民主主義の原点は関係する人全員で意見を出し合って対話をすること。
だとするならば現代社会が抱える多くの問題にはまさしく正解がないので、〇か×かの二極分化ではなく多くの知恵を持ち寄って「より正しい答え」を模索することが求められているのではと思います。

目的は相手を論破することや議論や考え方の勝ち負け、優劣をつけることではないはずです。

そう考えれば人格攻撃や揚げ足取り、詭弁は減っていくかもしれません。

しかしコロナ禍を経験し、人が一堂に会する機会が減少してもコミュニケーションは可能となっている今の時代、仮に意見を出し合って平等に尊重しながらみんなで相談して決めることができる場を作れたとして、リアルでもネット上でも果たしてどのくらいの人がその場に参画し、自分とは違う価値観を尊重しながら議論し、最適解を見出す努力ができるでしょうか。

今回のフジテレビの二回目の会見で質問する人たちを見ていても、今のリアルやネット上の意見を客観的にみても、自分が求める答えを引き出したい、あるいは自分の正義を押し通したまま目先の短絡的なYes or No、正or 誤の回答を求めて意見している・発信している人がとてもに多いように感じてしまいました。

 

 

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