PTAはPTA -2ページ目

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

テーマ:

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

自動車を運転する人はご存じでしょうが、自動車にはハンドルやブレーキに「あそび」が設けてあります。急なハンドル操作やブレーキ操作をしても、いきなり車が方向を変えたり急停止したりしないためで、「ゆとり」「余裕」と置き換えたほうが分かりやすいかもしれません。
このほんの少しの「あそび」が、自動車と運転する人間とのインターフェース的な役割を果たして安全性を高めていると説明されています。

確かに、もし「あそび」がなかったら、触れたら止まる・曲がる、常に急ブレーキ・急ハンドル状態になります。F1などのレーシング用を除けば、そんな車は危険極まりなく、怖くて運転でなくなってしまいますね。

これは機械だけでなく人間社会も同じで、効率性を最優先して「ゆとり」「あそび」のまったくない社会だったとしたら、1mmの誤差も許さない四角四面の人だったら、人と人との関係性はギスギスして超ストレス社会になってしまうように思います。

そして今、社会全体が、社会を構成する人々が少しずつですが「あそびのない」方向に進んでいっているようにも感じます。

企業も経済効率性の観点から社員に対して直接的な成果を強く求めるので、同僚や後輩の相談話や雑談、愚痴や部下への丁寧な指導といった一見非効率とも思える社員間の「ゆとり」「あそび」「余白」の部分がどんどん減少しているように思います。
それがかえって社員のモラルやモチベーション低下を引き起こし、結果として会社全体のパフォーマンス低下、業績停滞に繋がっている面があると思ったりします。

そんな社会になることを何十年も前に危惧したのか、「あそび」「ゆとり」と同じような意味合いで発されたのが、以前記事にも書いた松下幸之助さんの言葉「心に縁側を持て」ではないかと思えてきます。

白か黒か、善か悪か、右か左か。い「二項対立」の視点で物事を捉えようとする人が目立つ現代社会。実際には正しいのはAかBと、すべてを二項対立で捉えられるほど世の中は単純ではなく、ほとんどのことがAとBが混ざり合った間の場所に答えがあるのが実態だ。

それを昭和の頃まで日本家屋にあった家の「内側」で「外側」ともいえるような場所「縁側」に例えて、AかBか白黒をつけずに、さまざまな意見が集まってくる場所があ、そこで最適な答えを考えていく、そんな曖昧な部分、余白(あそび)を持つことが、多様化して捉えづらくなった世の中を、寛容に受け止めるスペースになり、心の余裕に繋がるのではないかと訴えたのだろうと思います

今から何十年も前に、すでに憂いておられたんですね。
そういうところが「経営の神様」とまで言われる由縁なのかもしれませんね。

社会人として必須のスキルであるロジカルシンキング(論理的思考)が身についている人は、物事を二項対立で捉えて、論理的に自分の考えを主張できます。素晴らしいし、ビジネスには必要な能力です。

もう一つ社会人には必須のスキルと言われるのがクリティカルシンキング(批判的思考)です。

ロジカルシンキングができている人の多くは、他者の意見を批判的に捉えることもできています。でも自分の主張について批判的に捉えた考察、本当の意味でのクリティカルシンキングが身についていないので、どうしても自分の考えに固執、自分は絶対正しいから抜けられず、色々な立場からの視点、多様な視点からの考えを想像するところまで行きつかない、そんな人が、特にネット上にはとても多いと感じます。

法律や制度・しくみも然りで、社会の秩序を維持するために、人々の権利と自由を守るために、とても重要な役割を担っている必要なものです
でも正直、法律も制度や仕組みだって、完ぺきなものは存在しないと思うんです。

 

過去の経験(歴史)に基づいて、こうありたい、こうあるべきという理念や理想を実現するために法律や制度・仕組みを作るわけで、そうした理想がないと、殺伐とした社会になってしまいますが、一方でそれらは社会全体の利益を考慮して作られていくので、個人の倫理観と衝突する場合が多々あるし、現実の社会には法や制度・仕組みには当て嵌まらない、外れてしまうものや、あるいは明確に分けられない、いわゆるグレーゾーンや隙間・狭間が必ず存在するのもまた事実なんですよね

必要(必須)なことはボランティアなどに頼らず行政でやるべきとよく言われます。

理屈の上ではそうだと思います。

でも、自分が管理職になって、第一線の現場から離れてみて気づきました。

自分も含め、そういう理想やべき論を語る時って、制度や法律を組み立てている官僚と同じで本当の現場を知らないんだと。ネット上で見かける「ああすればいい」「こうすればできる」という発言も私には直接現場に関わっていない人が多いように映ります。

 

現場で要・不要を含め明確な線引きができるかといったら、なかなか明確にはできないことが多いのでとても悩ましいのが現実ですだからと言って線引きできないまま放っておいても問題が解消するわけでもありません。


法律や制度を定めれば杓子定規に当てはまて線引きをすることになり、外れてしまうコトやモノや人が必ず生まれます。それらは全て必要のないオプションということになってしまいます

れらを行政サービス意外の市場サービスだけで解決できるとは思えません

だから喧々諤々意見が違う者同士が話し合ったり歩み寄ったりして対応策や打開策を考えることが必要だと私は思いますが、それを避けるだけでなく、行政のせいだ、自治会のせいだ、会社のせいだ、政治のせいだと訴えているだけだから、二分化してしまうことが多いんだと思います。

行政も民間も手が出せないけど「やったほうがいいよね」と隙間を埋めてきたのが、市民活動や地域活動、PTAやボランティア活動でもあるわけです。

一例で言えば通学関係です。

オプションだからやりたい人がやればいい


地域の道路・交通環境によって様々なので全国一律ではありませんが、例えば校外の子どもの安全確保は保護者の責任、子どもたちの登下校に関わる旗振りや見守り系の活動、登校班もオプションで「あったほうがいい」と思う人がいたから継続されてきたわけですが、そうした活動はもちろん任意なので、今後いつまで継続する(できる)かは不透明です。

保護者だけで活動しているところもあれば、地域の皆さんがやっているところも、老人クラブが自分たちの活動としているところもあります。まったくやらない地域もあるでしょう。

 私人が自ら土地を買い、道路や歩道を整備して市に帰属(寄附)され篤志家の人もまれにいらっしゃいますが、ハード整備は確かに行政の役割です、交通規制は警察の役割です。

見守りはオプションなので原則は自己責任、自分の身は自分で守る、やりたい人がいなければ、子どもだけでの登下校か、海外のように保護者が付き添うかになっていくこともやむを得ないということなんでしょうね。

 

とても困るご家庭やお子さんがいらっしゃっても自己責任

 

どうしても必要なら法制化するべき、制度化するべきという主張になるんでしょうか

それって明日できます?

今困っている人はどうしましょう?

これからの日本はそんな共助のない自助と公助だけの社会に向かって進んでいくのでしょうか。

 

 

 

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

テーマ:

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村


義務教育の目的は何?と割とシンプルなお尋ねに、近年の学習指導要領には人としての基礎となる「生きる力」を身につけることと記載されています、最近は「生き抜く力」とも言われています。

社会に生きる市民として,他人を敬う・平和を願う・道徳心を持つ・生活する力を育む・自然と触れ合い感受性を養い職業生活,市民生活,文化生活などを充実して過ごせるような力を育む。
そのためには子どもたちにできる限り多様な分野に触れてもらい、個人が持つ可能性を開花させる礎を築くことが義務教育の目的と記されています。

半世紀以上前の私たち世代でも、幼い頃から主体的に、自主的に、自発的にと大人の人たちからは言われて育ってきました。

これは戦前・戦中の全体主義的な教育を払拭し民主主義を根付かせるためと言われていて、学習指導要領でも一貫して何事も受け身の姿勢で取り組んでいてはいけないと「主体性」「自主性」を求めています。

それ自体は否定しないものの、見方を変えるとあたかも「受け身」=「怠惰」「怠け者」、「能動的」=「勤勉」みたいな価値観を刷り込んでいるようにも受け取れます。

でも、そもそも「教育」はある意味強制であり受動的なもの、個人の主体的で能動的な行為は「学習」と呼び、敢えて教育と区別してきたように思います。生涯学習という言葉もそんな概念から生まれたかなって思っていました。

実際の私の義務教育時代はというと、いわゆる詰め込み教育・管理教育と言われる時代で、完全なる受け身、学習指導要領にはあれもこれも、これでもかと学ぶ内容がてんこ盛り、これまでで最もボリュームがあった時代だったと言われています。

実際に、ゆとり時代の自分の子どもたちの頃の教科書を見て「これだけ?」って思いましたもの。

その背景には高度経済成長と60年代後半からの大学闘争があったという指摘もあるように、経済成長を支える人材育成を最優先した能力主義の教育政策がとられて詰め込み教育もその一つ、必然的についていけない子どもたちが増加、その影響か80年代中盤までは学校では校内暴力の嵐が吹き荒れていました。その抑止力として校則や体罰の強化、全員加入制の部活など、児童生徒の管理を徹底する主体性・自主性とは真逆の教育が進められた時代だったと思います。

その後、学校内に警察が介入するなどもあって目に見える荒れた学校、校内暴力は鎮静化していった代わりに、今度は目に見えないいじめや不登校などの問題が浮上、増加し続け今に至っています。

また高度成長期以降からバブル期までの日本社会は一億人の働きバチと世界でも揶揄されるほど長時間労働が常態化していて社会全体が成績至上主義でした。
忙しいけど、働いた分だけ給与や賞与がアップする、そんな時代でした。

バブル崩壊後は一転、企業も学校も週5日制を導入、学校教育は「ゆとり教育」と呼ばれました。導入後は統計上、いじめや不登校が減少に向かい、子どもたちのストレス緩和にある程度効果があったと評価されましたが、その一方で全体の学力低下をもたらし、ゆとり教育は失敗とまで言われて、再び学力重視、偏差値重視の成績至上路線になってきているのが現在だと思います。

 

義務教育のあり方を時代に合わせて考える、変えていくのは必要だと思いますが、それがこれまでの学習指導要領の変遷でもあること無視できないと思います。

また、流れてくるネットやメディア報道だけを鵜呑みにして、アメリカや北欧と短絡すぎる比較をして結論を出すこととても危険だと感じています。

 

話しは変わって
年末年始は高校ラグビー「花園」、高校サッカー選手権、春高バレーに高校バスケニューイヤーカップと全国大会が目白押しで熱戦が繰り広げられていましたが、近年の中学・高校の部活動も様々な困難な問題を抱えています。


以前は、教員が部活の顧問になることは当然、特に公立では生徒も原則全員加入という形式が圧倒的に多く、しかも部活動は教員の無償による指導で成り立っていました。

熱心な指導は体力増進よりも競技性が色濃くなり、私の中学生時代にはなかった全国中学校体育大会(中総体)が立ち上がり、指導者も子どもたちも、そして保護者も実力至上、成績至上主義の人が増えていったと感じています。

早い段階から専門種目に特化したトレーニングを積むことで、各競技では有望選手が台頭、技術も競技レベルも全体的に底上げされた一方で、小中学生の心身へ過度な負担による影響も出始めて、最近では中総体を廃止したらどうかという声が増えてきています。

また、私たち世代では部活動の大会や学校の体育祭・文化祭の応援・観戦に来られる保護者の方はとてもレアでしたが、今は男女問わず多くの人が学校や大会会場に足を運ばれているようですね。
中には保護者の第二の青春か?と感じるほど過熱し過ぎている保護者集団も目にしますが、サラリーマンでも平日学校や試合会場に足を運べる社会環境になってきているのは個人的にはいいことかなって思います。

他方で部活動は正規の教育活動じゃないため教員の顧問就任も任意、生徒の加入も任意ということが広く認識されるだけでなく、部活の活動日や時間を制限する学校も増え、外部コーチの招へいだけでなく国を挙げて部活の地域・社会教育移行が進められています。

スポーツ界では90年代からアスリートのプロ化が進み、これまでの学校・企業中心のスポーツからヨーロッパ方式の地域に密着した地域型、総合型地域スポーツクラブへ意識がシフトし始めていて、Jリーグ発足の理念はまさにそれだったと思います。

バスケットのBリーグやラグビーのリーグワンなども企業がメインスポンサーですが地域密着での運営を進めています。地域型の運営が上手くいっているところはまだ少ない状況ですが、その中でアルビレックス新潟は地域による総合型運営の成功例の一つとして注目されていて、積極的に取り組んでいる他の地域もあり、その動向が注視されています

成績至上主義は学力重視、偏差値重視社会など、スポーツや受験戦争、就職戦線に反映されていて、受験戦争は韓国や中国ほどではないにしろ大学から高校、中学、そして幼稚園とどんどん低年齢化しています。早期専門化や低年齢化が過熱気味に進んだことで、10代中盤に燃え尽き症候群になってしまう子どもたちが日本だけでなく世界中で増えているとも聞きます。

義務教育の役割については色々なご意見はあるでしょうが、大人たちが求めてしまいがちな習熟度や進行速度、深堀りは本来は子どもたち一人ひとりが学習することで達成するもの、学校やご家庭の役割は先に書いたように幅広い分野で子どもたちにできるだけ多くの経験を重ねてもらって自分のやりたいことを見つけるきっかけを作ることに重きを置くこと

 

どうでしょう?実践できますか

頭では理解できても、現実は・・・・・じゃないでしょうか。

 

 

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

テーマ:

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

 

KAT-TUN解散、亀梨和也さん退所という報道が流れたとき、木村拓哉さんのSMAP解散後、残留した理由「自分のことを考えたら辞めたほうがいいのかもしれないけど、自分だけでできている仕事じゃないし、ファンの方たちがいてくれていて俺ら初めて成立しているじゃん」と語ったことが頭をよぎりました。

 

一般の私たちも終身雇用制度の衰退や若年世代の意識変化などによって、転職が一般的、当たり前の時代になりましたが、それでも転職者の3割は罪悪感を持つようです。

 

「採用してもらった」「育ててもらった」恩を裏切ることになる、った仲間たちの負担が増えるなどが主な理由だそうです

 

中には会社負担で資格取得やMBA取得後に転職するというケースも聞きます。

 

会社側が「せっかく育てたのに・・・」と転職の留意を促す場合もあると思います。

 

私は、会社がその人にとって魅力がなかったことを自覚したほうがいいとは思っていますが、円満転職できるか否かは、会社や同僚、先輩たちのこれまでの関わり方が大きく影響すると思います。

 

オリンピアンのメダリストたちがインタビューの際異口同音に「自分一人の力ではない。みなさんのおかげ」と、これまで支えてくれた家族、恩師、コーチや同僚に

…いや、それだけでなく自分を今日まで育んでくれた人や環境、コトに加えて応援してくれた不特定多数人を含めて「皆さん」の「おかげ」と感謝の言葉を口にされることが思い出されます。

先日、別大マラソンで有終の美を飾った青学の若林さんも「沿道からのたくさんの応援が心強くて」「皆さんの声援が力となりました。最高の景色を見せてくれてありがとございます」と応援の声が後押しくれたことに感謝の言葉を口にしています。

何事にも個が尊重され、自分本位・自己主張が主流の中、個人の能力と努力の極みであるメダリストが自分以外のすべての存在に対して「おかげ」を意識して、自然に口にできるというのは、自分が単体で独立した存在ではなく、周囲との関係性によって今があることを無意識に自覚されているということなんだろうと感じています。

こうした自然に発する言葉、謙虚、美談、イメージ戦略といった、単純で一般的な感覚と混同してはいけないものだと感じる反面、「おかげ」と「他力」によって自分が生かされているということは、一般の私たちの仕事にも日常生活にも共通している、そういう自覚が必要ではないかとも思いました

 

NBAのレブロン・ジェイムズ選手はアメリカ代表チームの時に「僕らは僕ら個人のためではなく、アメリカという国のためにプレーしている糸を引くように一人が動いたら次の選手が動く。一人が倒されたら別の選手が起きるのを助ける。このチームに個人主義は一切ない。」と語ったようにアメリカという国は実は団結力が強い。MLBの選手たちも一流ほどチーム最優先で、大事な試合前などは日本のように監督がみんなを集めるのではなく、選手が指揮をとってミーティングを開き自分たちで何とかしようとします。日本よりもチームへの忠誠が強いようです。

 

そういう選手たちだからこそFAを行使しても円満移籍できるんですよね。きっと。

だから一般の私たちもそういう「おかげ」「他力」の意識をもって関係性を構築していれば円満転職できると思います。

 

自分を振りかえると、高校入学の1年間は新設校だったので先輩も後輩もいない、グラウンドもまだ大きな石ころだらけの整備中。何度も頼み込んで条件付きで認めてもらった一人陸上部には当然ながら顧問はいませんでした


円周率を使って何日もかけて凸凹の石ころだらけのグラウンドに200Mトラックを描き、箒で刷いて1レーンだけ走れるようにして練習をしたことを思い出します

2年生になり、指導者もでき後輩も入部、グラウンドも7割完成し部活動らしくなったおかげもあって、秋の新人戦では県大会で入賞でき、本気でインターハイを狙える位置まで辿りつ気がしてちょっとの自信と過信が自分の中に出来たんだと思います

 

でもすぐに気づきました。自分の力だけでいい結果が出たんじゃない。
一緒に練習する仲間がいる、記録をしてくれる人がいる、指導やアドバイスをしてくれる人がいたので、試合でパフォーマンスが発揮でき結果に繋がることの有難さに。

社会人になって、再び一人で競技を始めたときにもそれを痛感しました。

計測もアドバイスも踏切の位置を見てくれる人がいない・・・

大げさかもしれませんが、人は一人では生きていけない


普段、特に意識しないで何げなく暮らしていますが、よくよく考えると自給自足ではない現代社会では、衣食住、自分の身の回りのほとんどすべてのものが、自分以外の人が働いて作ったものだということに気づかされる、個人事業主でも会社員でも、働いていない人だって何らかの形で人の役にたつことをしている、社会に貢献しているそうしたお互いの人間関係によって社会が成り立っている、つまり人間関係なくして社会生活は成り立たないということが分かってきます。

そう思うと

 

今の自分があるのは?

 

自力だけでなく他力のおかげ

 

 にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村p>

テーマ:

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

 

フジテレビの問題はじめ兵庫県知事選や東京都知事選など、最近のTVや新聞・雑誌などの報道や記事、またSNSなどを見ていると「軽率な一般化」「一事が万事」という言葉が私の頭の中をよぎっていきます。

「軽率な一般化」とは、自分の身の周りで起こった出来事、あるいは自分がたまたま見聞きした事象から結論を引き出し、その結論を一般化してしまうこと。

「一事が万事」とは一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができるという意味。

人に対して使う場合、どちらもひとつの行為だけを見て、その人を「あいつはこういうヤツだ」と決めつける思考停止のひとつだと私には思えてなりません。

そういった決めつけの主張が多いことがメディアやネット、SNSの特徴の一つかもしれませんが。

10年以上前にネット上のPTA絡みの掲示板に上がっていたある投稿が私にはとても印象に残っています。
それは「経歴にPTA会長とある政治家に投票しないで」という投稿でした。
投稿をした人の大きな理由は
「政治家になるための足掛かりとして誰もが嫌がるPTA会長を引き受けた」でしたが、
 それだけにとどまらず
 「違法行為(自動加入、入会届未整備、任意加入未周知)だから」
「地元有力者がPTA会長(や自治会長)になるのは利権絡みだから」などが続いていました。

その人が知っているPTA会長がそうだったのでしょう。
確かに市町村議員の中にはPTA会長経験者がそこそこいらっしゃいます。
政治家への足掛かり、第一歩と考える人もいらっしゃるでしょう。

でもPTA会長経験者の政治を志した理由が一事が万事、すべての人がそれとは限りません。

任意加入を広く周知したいというのが本旨で、大所高所から客観的な視点からの投稿が多かった人なのに、その投稿だけが私には『軽率な一般化』に映りました。

職が個人経営、サラリーマン、職種もマチマチ、JC出身者もまあまあ何人かいらっしゃって、どうして市議会議員に?って知り合いの議員さん数人にも聞いてみたことがあるんです、とても政治に興味があるとは思えなかったから。

田舎の市町村議員は地域代表(代弁者)みたいなところがあって
「多くの人から頼まれて・背中を押されて」という答えとともに「PTA会長を経験してみて、政治の重要性に気づいた」「現状を変えられるかもしれないと思った」という答えが返ってきました。

以前、「長」という職責は「やりたい人」ではなく「やってほしい人」に担ってもらうものだと言われたことがありましたが、一理あると思います。一方で「やりたい人がやればいい」と言うのも理解できます。

でも「やりたい人がやればいい」と主張しながら、実際に「やりたい人」や「やっている人」を非難するっていうのは明らかに矛盾しているとも思うんです。

ボランティアや地域活動などに熱心な人は、兎角ターゲットにされやすくて非難を浴びているんですよね。
目立ちたがりだ、お山の大将だ、自己満足だ、偽善だ、売名だ、利権絡み、労働力搾取、下請けなどなど

やる・やらないは本人の自由だし、その理由もそれぞれ何かしらあるでしょう

単純に誘われたから、何となくって人も多いと思いますよ、アンケート調査結果でもボランティアを始めたきっかけが「友人・知人に誘われた」が一番多いらしいですからね。

やっている人がやらない人を非難するのはどうかと思いますが、逆にやらない人がやっている人を非難するのも、どうでしょう?
もっと滑稽じゃないですか?

先日のマジョリティとマイノリティの立場の話ではありませんが、人は誰しもみな「自己矛盾」を抱えているんですよね。

自分がマイノリティの立場時には民主主義とは?と強く唱え、数の論理・単純多数決を批判して少数意見の尊重を強く訴える人が、逆にマジョリティ側に立つと少数意見を切り捨て、単純多数決・数の論理を正当化して称賛しているという矛盾をよく見かけませんか?

時々見かけるのが、

事業や行事の廃止の決議が賛成多数で可決
Pや日Pの加入・脱退(退会)を賛成多数で可決
PTAの解散を賛成多数で可決

全会一致ではないのに称賛の声が多くあります。
少数意見は切り捨てればいいとまでいう人もいらっしゃいました。

いつも声高に主張している個人の尊重は?少数意見の尊重は?民主主義の原点はどこに行ったんでしょう?

 

どこかに置いてきてしまったのでしょうか

自分も無意識に同じことをしているのかもしれません。

指摘している自分こそが、実は、指摘されている側に立っている。
笑っている自分が、実は、笑われている側の人間である。

それに気づいている人は絶えず葛藤を抱えているし、気づいていない人の言動はどこか荒唐無稽に聞こえてきます。

軽率な一般化

自分も気をつけなくちゃいけませんね。

 

 

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

テーマ:

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村

人が挨拶をするのは、人と人がコミュニケーションを取るための最も基本的で大切な手段、社会に生きるマナーだと言われていますが、これは世界共通だと思います。


挨拶を交わすことは相手の存在を認めていることを相手に積極的に伝える行為であり、人間関係を円滑にし、相手との距離を縮めるための基本的な行動でもある。その積み重ねが信頼関係を築く土台となることから、挨拶の大切さは多くの人が認識できていると私は思います。

そんな中、最近の人たちは挨拶をしなくなった(できなくなった)という声をネットでもリアルでもよく見聞きします。

子どもや若者に対してが多い印象ですが、私は年齢はあまり関係ないんじゃないかと感じています。

ただ、挨拶をしない(できない)理由についてはその人の成長過程や経験知が影響しているのではないかと思うことあります。

挨拶をしない理由について、子どもや学生へのアンケートでは
「恥ずかしいから」「相手にあまり興味がないから」「警戒しているから」「面倒くさいから」「無視されたから」という回答が多いようです。

私も中学を卒業するまで赤面症で悩んでいたので「恥ずかしい」はよくわかります。

見知らぬ人に挨拶をしない(できない)のは、子どもへの声かけ事案などあって犯罪リスク回避を理由に子どもには「挨拶ない・話さない」と教えている保護者が増えている影響もあると思います。

一方で真逆の、知らない人でも挨拶を交わしたほうが防犯上安全という人たちも多くいらっしゃいます。警察は挨拶し合う・声を掛け合う街ほど犯罪率は低いと統計を元に話しています。

どちらが正しいとか間違っているとかではないし、土地柄や地域性もあると思います。

若手会社員が挨拶をしない理由として答えているのは
「挨拶するかしないかの基準は人によって違う」「挨拶しない自由がある」「気持ちがこもっていない挨拶は必要ない」などが多く、子どもや学生とは違う理由が加わってきます。

現代の世相を反映しているように思える理由ですね。
ビジネス文書やメールでも、定型句や時候の挨拶は無駄、必要ないという人たちも増えてきています。

一理あると思うし、相手方もそういう考えならば全く問題ありませんが、そうでないとその一言を、その一文を削除しただけで不快感を覚え、商談が不成立になることだってありますので、自分本位に考えるのではなく慎重にねって老婆心ながら思います。

なんてたってお互い信頼関係を構築するための第一歩が挨拶ですから。

また、年齢・世代に関係なく挨拶をしない理由として多いのが
人づきあいが苦手、社交的な場が好きではない、過去のトラウマからなどがあります。


確かにありますよね、私もどちらかと言えば社交的ではないし、そういう場も得手ではありませんのでよく分かります。

でも、だから挨拶しない(できない)というのも違う気がします。


そんな理由の中でも、とても的を得ている・鋭いなって思ったのは日本では客側から店員への挨拶感謝を述べる事を必要としていない環境になってしまっている、挨拶するのは店員側、挨拶されるのはお金を払う客側という一種の上下関係に似た構図となる土壌があらゆる場に浸透しているため、挨拶はするものではなく、されるものだと思っている人が多いのではないかという指摘です。

偉そうにするお客や上司、学歴や職業から人を見下すような態度の人、いますよね、リアルでもネット上でも。

挨拶をするのはどんなシーンなのか?

日本でも世界各国でも、朝の出社時や帰り際、朝起きたときや外出するときなど出会いと別れの場面を想像されるのは同じではないかと思います。

ただ諸外国の挨拶は「親愛」の意味合い比べてみると日本人にとっての挨拶は「礼儀」や「尊敬」「労い」の意味含まれていて、そちらの側面がとても強いのではないかと言われます。の象徴的なのが「お辞儀」だと。

確かに日本人はよくお辞儀をしますよね、挨拶する時はもちろんですが、人とすれ違う時、扉を開ける時、道を譲ってもらったとき、私もやってしまいますが電話をしているときだって、まるでそこに相手がいるかのようにお辞儀をしている、そんな光景に遭遇したことがあると思います。

お辞儀という行為はもともと中国から仏教が伝来したタイミングで日本に伝わったとされていますが、中国ではお辞儀が日本ほど頻度高い行為ではないようです。
日本のお辞儀は正式には会釈 15度)・ 敬礼 (30度)・ 最敬礼 (45度)の3種類があるそうですが、今はそこまでしなくて目礼という軽めの挨拶がよく使われていると思います

挨拶を交わすこと自体海外の方が一般的で、知らない人同士でもお店とお客の関係でも気軽に挨拶を交わしますが、言葉以外の行為では諸外国の多くは「お辞儀」ではなく「握手」が一般的で「握手」のほかにもハグ、チークキスや合掌などがあり、それらの行為は相手に敵意を持っていないことや親愛やフレンドリーさを示すものであることに対し、日本人のお辞儀は相手への敬意や労いの意味合いが強いとされています。

挨拶の文化の違いだからでしょうか、外国の人から見ると日本人のお辞儀は不思議で、お辞儀をされると戸惑いを感じる人がとても多いようです。


以前、日本人ってどうして挨拶しないの?と言われたことを書いた記事の中でも触れた外国籍の人も、日本に来てしばらくは日本人が声を出しての挨拶をしてくれなくて無視されていると悩んだそうですが、日本の生活に慣れてくるうちに声を出す挨拶はなくても、日本人の多くが会釈や目礼を自分に向けてくれていたことに気づいたそうです。

 

自国にはお辞儀の文化がないので最初は戸惑ったそうですが、慣れてくると「ああ、シャイなだけでちゃんと認めてくれているんだ、挨拶してくれているんだ」と思えるようになったそうです。

ただ、海外では日本人のお辞儀を「日本人らしくていい」と好意的に受け止められることも、「心配」「世界では通用しない」と否定的に思われることもあるので、郷に入れば郷に従えでその国の文化や挨拶の習慣に倣うこと必要なって思います。

事実、諸外国の人が日本人のお辞儀に戸惑うように、私たち日本人も挨拶としての握手については戸惑いと躊躇があったりしませんでしたか?


日本人同士で握手を求めてくるのって政治家ぐらいで、日常生活で握手の習慣はありませんよね、私もビジネスシーンで最近やっと外国の人と抵抗なく握手やハグができるようになりましたが、最初はかなり戸惑いがあって、握手してもとてもぎこちなく不自然だったことを思い出します。

もう一つ、挨拶の一つと言えるのがハンドサインやハンドジェスチャーです。

日本人が人と別れるときに「バイバイ」と手を振る行為には「無事を神に祈る」という意味が込められていると言われています。

かつての日本には、空中に多くの目に見えない神様がいるとされ、空気を揺らすことで、神の御加護による安寧を祈ったり、厄を払うと考えられていたことに由来するらしいです。

外国の人に日本に来て何が良かったと聞くと、ほぼ必ず空港での飛行機のお見送りをするグッバイウェーブや友人たちの「別れ際に手を振りながらいつまでもバイバイしてくれる日本人」がランクインするそうです。

海外でその場を去る時に手を振ってずっと見送ってくれることはまずありませんが、ドライなわけでなく、それは相手に気をつかわせない、相手のためを思ってお別れをそっけなくしているのだとか。ホント色々ですね。

そういえば食事をする時の「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶も、外国の人はとても驚くそうです。映画などを見ていると、食事の前に神様へのお祈りをするシーンが出てきますが、今は一般的ではなく、それをするのは敬虔なクリスチャンの家くらいだそうで、ご飯を食べる”合図”みたいな感覚の言葉はあるようですが、そこに感謝の意味があるわけでなく、日本独特の習慣だそうです。

挨拶はコミュニケーションを取るための最も基本的で大切な手段

 

その大切さを子どもたちに教えるのは誰でしょう?

 

学校の先生も大切さを教えてくれるでしょう

周囲の大人たちも事あるごとにお話してくれるでしょう

 

でも一番は各家庭で躾としてマナーとして子どもたちに身に着けてもらえるよう伝えていくものではないでしょうか

 

にほんブログ村 教育ブログ PTA活動へ
にほんブログ村