PTAはPTA -2ページ目

PTAはPTA

私が経験したことを基にPTAに対して感じたこと・感じていることを綴ってみようと思います。

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9月18日の虎に翼 寅子の家族会議でのセリフです。
「そうね。その考えも正しいわ。
どの考えも正しいからよい落としどころを見つけないとね」

ホント、そうなんですよね。
「正義の反対は別の正義」と言われますが、本来は会社や団体での議論も〇か×か、右か左かではなく、どの考えにもそれぞれの正しさがある、だからまずはその考えを認め合ったうえで、よい落としどころを探るために話し合いベターな結論を導き出す、そんな形で進めていくのが理想ということですよね。

先日、私の居住地域で朝7時頃に農道の草刈りをしていたらパトカーが来た、こんな話が聞こえてきました。

居住地域は、市街化区域と市街化調整区域が入り混じり、田畑があるので週末はどこからともなく草刈り機のエンジン音が聞こえてきます。

以前は涼しい時間帯に草刈りをと朝の5時頃からエンジン音が聞こえていて、地域の皆さんもご事情を概ね理解されていたので特に苦情もなかったようですが、週末の朝5~6時から聞こえるエンジン音は確かに気になるしうるさいんです。
私も家の周囲の道路の法面を年に4,5回刈りますが、概ね7時過ぎなら大丈夫と暗黙の合意がされていたんですが、新たに宅地開発された住民の人はそうしたご事情を全くご存じないため、うるさいから何とかならないかとの通報のようでした。

うるさいのもよくわかるし、朝早くから作業したいのもよくわかります法律違反や条例違反をしているわけではないので警察も行政も何もできないのが現状、ゴミ収集車が収集の合図で鳴らす音楽も「子供が寝ているから鳴らすな」と言われる人もいれば、「音楽が聞こえないからゴミ出しが間に合わない」とお叱りの声が出す人もいらっしゃるように、どちらの言い分も間違ってはいません。
こうしたトラブルは他にもたくさんありますが、極端な事案以外は法では解決できないことばかりなので、その地域に暮らす人たちがそれぞれの考えを出し合って、よい落としどころを導き出すしかないんじゃないかと思います。

自治会や町内会はそこに住む人たちの集合体なので、何かをする主体というよりも、こうした話し合いをするステージを用意する、あるいはプラットホームの役目をすることが存在価値ではないかと私は思います。

昭和の時代は町内会に入らないと村八分的な空気は流れていましたが、それも徐々に薄れて、平成に入る頃には加入を無理強いするようなことはなくなっていて、自分の町内にも加入されない世帯は当時からいらっしゃいました。

自治会の加入問題については、ネット上では平成17年の最高裁判決がよく紹介されていますが、新しい集合住宅ができる町内会は、なかなか加入してもらえないのが悩みと仰っていたようにリアル現場ではもっとずっと以前から加入は任意ということはみなご存じで、その判決の加入・非加入への影響は特になかったというのが私の印象です。

平成以降は、私の暮す田舎で自治会・町内への加入率は横ばいから低下傾向です。
一方で、平成の大合併により自治体規模は肥大化、住民ニーズは多様化が進、公の限界と言わんばかりに身近な住民サービスは住民自身の参加と協働のもとで展開するという動きが都市部の一部で起きはじめた、自治会の存在意義が再認識されるようになっているとまちづくり系のフォーラムなどに参加すると言われてました。

特に2011年の東日本大震災の発生が契機となって、住民自身が公助よりも自助・共助、行政の下請けから住民自治の担い手へという意識は強まってきている印象は受けましたが、反対に超少子高齢化からくる加入率の低下、活動の担い手不足も顕著化していて、意識と現実の乖離を痛感させられています。

そうした現状を打破すべく自治会等加入促進条例はじめ自治基本条例や住民参加条例の中に自治会等への加入を規定するなど、自治会・町内会への加入促進に向けた取り組みを始める自治体が少しずつ増えてきているようです。
こうした条例の多くは理念条例で、特に罰則設けていないのが特徴だと思います。
ちなみに居住市にはこうした条例はありません。

平成14年12月に制定された高森町町民参加条例がその先駆けといわれています。

条例制定に向けては、多くの自治体が勉強会やワーキンググループを設置、住民や法学者などの意見を聴いたうえで条例案を作成し、パブリックコメントを経て議会に提出されています。

専門家からは「加入の義務付けには法的限界があると言わざるを得ないので、努力義務にとどめておく方が望ましい」と意見されていて実際「住民は、町会・自治会の重要性を理解し、自らが居住する地域の町会・自治会に加入するよう努めるものとする」と規定している自治体が多いようです

努力義務違反は違法とは言わないからなのか努力義務規定しても違憲とは言わないんですね。

中には「加入するものとする」という義務的表現の自治体もあり、小諸市自治基本条例が私が知る限り最も強い表現でした。
9条(区への加入)
本市に住む人は、前条第1項の目的を達成するため、区へ加入しなければなりません。

次のように逐条解説されていました。
「区は、その地域の人たちによる、地域のことを最もよく知る自治の主体です。地域福祉、防災防犯等について、きめ細やかな対応をすることができ、よりよい地域を作り出していくためには、地域の人たちの話し合いの積み重ねと地道な活動がなければ成しえません。
このことから、小諸市に住む人はその地域の区へ加入して、地域の自治活動に参加するべきであるという理念を決意として規定しています。以下略

制定前の市民フォーラムやパブリックコメントで「違憲ではないか」という声が多数あり、ワーキンググループでも何度も議論が重ねられ、11名/16名の賛成でこの表現になったと資料にありました。

9条だけでなく条例全体、色々な意見、逐条解説から、加入は住民の義務というより住民の権利という視点が強い、中田實教授の考えにも近い印象を受けました。

自治会・町内会だけでなくPTAボランティアについてもネット上の発信は、その定義や位置づけが全国共通であるかのように語られていますが、実際には定義も位置づけも人によって全く違っているし、地域によって全然違うので、共通の問題として語るには無理があると感じましたが、ネット上でもマスメディアも、全く同じもの(景色)を見ているものとして、あーだこーだと騒いでいるように私には映りますが、他の皆さんはどうなんだろうと考える今日この頃

 

 

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時々、PTAや自治会・町内会の加入のメリットを尋ねられることがあります。
最近の私の答えは、「メリットはない」です、また変わるかもですが。

メリットは利点、価値、功績などのこと、デメリットは欠点、損失と訳されています。

人は何かしら行動に移す時、メリット・デメリットを考え、それらを意識的あるいは無意識に天秤にかけてどうするかを決めていて、そこには損得勘定が一定程度働いていると言われます。

確かにそうかもしれません。
でも私がメリットはないと考えるのは、自治会やPTAなどの会員さんは単に団体からサービスを受給するお客さんではなく、誰かのためだけでなく、自分のためにも活動する人なので、損得・メリット・デメリットという考えは当てはまらないと思っているからというのが一つです。

日本で寄付行為がなかなか広がらないのは、お金(会費)を払う=誰かに何かしてもらう・得があるという考えが根本にあるからかもですね。

一般的にPTAや自治会加入のメリットとして
住民や保護者同士、先生たちとの円滑なコミュニケーション
地域や学校の様子・情報の円滑な入手
意見集約や行政への要望
いざという時の協力体制
などが挙げられていますが、これらも加入すれば享受できるものでなく、享受するためのツール・プラットホームの一つに過ぎません。
それは唯一無二のツールでもないし、そんなツールは必要ないと思う人もいらっしゃる、または真逆のデメリットと捉える人もいらっしゃるでしょう。
対人や集団が苦手・苦痛・不得手という人も案外多いと思います。

自分には必要ないと思う人は無理に加入しなくてもいいと思いますが、世の中には必要とされる人がいらっしゃること、誰かの力を借りたい、自分では声に出せない人に思いを馳せるくらいの想像力はお持ちになってもいいと思います。

「私はできる」から「あなたもできる」、「あの子ができる」から「あなたもできる」=「誰でもできる」=「誰もがすべきだ」ではないんですよね。

同じように「居住自治体(学校)がやっている」から「どこの自治体(学校)もできる」でもないと思うんですけどね。

一方、PTAや自治会はそうしたツール、手段として機能よりも活動が主体、目的になっているという現実があります。そしてNPOのように個別の課題ではなく、地域や学校で起こる様々な課題に対しマルチに対応する集団マルチの課題に取り組むから行政や学校の下請けのように映るし、お財布機能ではないか、税の二重取りではないかという批判の声が上がるのだろうと思います。

でも、よく考えてみれば、例えば交通安全や防犯、防災、地域環境の整備は行政や警察だけの、いじめは学校だけの課題なんでしょうか。
それらの課題は本来私たち個々人の課題であり、地域の、そして住民の共通課題のはずだと思うんですが、行政だ、警察だ、自己責任だ、やらされているんだ、私は被害者という声がとても多いと昨今は感じてしまいます。

その視点は、今の現実に対して正しいのか、今一度よく考えてみてもいいんじゃないかと最近よく思います。お上主導的発想なのか、私には日本人の心がどんどん貧しくなってきているように思えて仕方ないんですけどね。

自治会・町内会は、日本固有のものとよく言われていますが、実はアジア圏やアフリカはじめ欧米でも、世界には日本とは違う形で近隣社会内で繋がるシステムがあるようです。

先日、こんな記事を見ました。
「マンハッタンの中では、数多くの「町内会」が熱心な活動を行っている。」

一般的に、それは「Neighborhood Association」という名称で、一定地域に居住している住民等による任意加入のボランタリーな組織として運営されているようです。

生活の質に関わる問題に対処することを第一の目的としているところが多く、具体的には、住宅、ゴミ、道路、交通問題(渋滞とスピード違反)、治安などに関わる問題について住民の意見をまとめ、市役所と話し合いを行っている。その他、美化活動や地域の親睦活動(ピクニック、ハロウィン・パレードなど)も実施しているそうです。

日本の町内会・自治会ととてもよく似ていると思います。

この団体に加入するためには、年会費を支払う必要がある。
具体的には、個人(1名)$35(40歳以下$25、65歳以上$20)、2名で$50(65歳以上は$40)。企業も参加可能で、1~9名の企業は$60、10~24名の企業は$100、25名以上の企業は$250。

加入すると、個人は団体が発行するニュースレター(印刷物とデジタル形式)の購読、地元の店舗やレストランの割引等があり、各企業はニュースレターへの広告掲載料の割引や加入者に対し特別オファーを提供するFacebookへの投稿が年1回認められるようになるそうです。

マンハッタンの街では、地区のボランティアの人たちがゴミ拾いを行ったり、イベントの手伝い、道路沿いの花壇の花々も手入れし、季節ごとに違う種類の花々に入れ替えてみえます。

自分たちの住む地域の生活は、自分たちが維持・改善していくんだという意識がアメリカでは当たり前のようにあるため、行政側からの働きかけを待つのではなく、活動資金を年会費等自分たちの力で集め、自分たちで改善できるところは自分たちで行い、どうしても解決しないときに行政に相談するというスタンスを取っています。これは学校教育も同様なので、居住する地区で教育の質が変わると言われています。

ヨーロッパでボローニャ方式と呼ばれイタリアのボローニャ住民自治協議会が有名で、世界の都市が手本としていると以前から紹介されています。

近年では、ご近所専門SNS「Nextdoor」がアメリカで公開され、オランダ、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、デンマーク、スウェーデンなどでも活用され、登録地域は全世界で17万5千以上といわれています。

元々地域情報に興味はあるが、実際には地域の中で繋がりを持っていなかった状況の中で、限定的な地域固有のネットワークが作成できるツールは、住民が管理するデジタル版の町内会と言えるかもしれませんね。

オーストリアのウィーンでは、1万7000人以上が登録している近隣住民のためのソーシャルメディア「FragNebenan」(ご近所さんに聞いてみよう)半径750メートルの範囲に居住する住民のみのオンラインコミュニティが開設、今では同じようなご近所SNSが世界各地で開設されてきているようです。

こうしたネットワークを活用した助け合いや交流行事など元々はなかったリアルなご近所付き合いが始まり、お互いさま精神で活性化している地域もある反面、管理者が継続できずに消滅してしまう地域もあるとか、日本のムラ社会と同じですね。

住民自治研究の中田實教授は、本来、地域のことは、そこにいるすべての人が参加・決定する権利があって、加入しないのは権利の放棄、選挙でいう危険と同じ性質のもので、加入率が低いというのは投票率が低いと同じと仰っています。自治会問題の最高裁判決に対しても独特の解釈をされている教授です。

先のアメリカの「Neighborhood Association」に関する文献には、「近隣社会は、会員資格は地理的場所の付属物としてついてくる。・・・隣人であるために必要な資格は、おおよそ市民について要請されるものと同様に無差別で包括的である。・・・この包括的で強制に近い性格は、近隣社会を社会のほかのすべての私的集団から区別している。ミニチュアの公共である。」と書かれていると中田教授は講演でも紹介されてみえます。

日本の地縁を歴史的にみると、土地を持つ者と持たない者とではずっと認められる権利に差があった。
戦後にそれを払拭し、地域に暮らす住民がみな平等であるべきとして寄附制や歩合制ではなく、敢えて会費制を導入したという経緯があるそうです。

それも一理あると思いますが、会費制にしたからメリット・デメリットという損得勘定が働き、色々な疑義が生じている気がしないでもありません。

お上絶対主義から脱却するために取り入れたはずなのに
行政のせいだ、政治のせいだ、日本が全体主義だから私たちはやらされているんだ
○○すべき ◆◆するだけだ

やはりお上頼みの私たち
でも、現実の問題として、本当に○○すべきというその理想に向けて取り組むのはお上・行政機関だけで実現は可能でしょうか。ほかのどこの国も国民が主体的に活動している、というかお上に任せることと自分たちが引き受けること、それぞれの役割分担が共有できているのに。

私はどう考えても国民が任せて文句を言うだけの社会はもう何年も前に終焉していると思いますけど。

批判している人たち自身が声を上げるだけでなく、自らその問題を引き受けて、自ら考え、自ら実践する社会にしていかないと何も変わらない、本当の自由は手に入らない気がしてなりません。

 

 

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所属したPTAには私が黒歴史と思っている3つの出来事があります。
どれも今から15~25年くらい前のことで、長子が入学する前の出来事と私が役員になる少し前に起きた出来事ですが、役員を引き受けてから初めて耳にしたことでした。
そのうちの一つはすでに地域内外でうわさが広まっていたようでした。
比較的アンテナは高いと思っていた自分ですが、職場が地域外で子どもが未就学では、そういった情報は案外届いてこないと痛感した出来事でした。

これまでも何度か記事で触れていますが、居住地域は同じ市内でも市街地と一線を画した伝統産業従事者と兼業農家の多かった地域で、130年以上の歴史を持つ小学校は、長子の入学したころから全学年単学級の小規模な学校で、毎年児童数は微減傾向でした。

今はサラリーマン家庭が圧倒的に多いですが、過去も当時も中小、家内工業など自営業の人が多かったので、広い意味で共働きのカテゴリに入るご家庭が多かったと思います。

仕事も生活も地域内が主という家庭が多かったため、長年PTA役員選出は比較的スムーズだった期間が続き、過去からずっと役員の半数は男性でした。ただ活動となると、学校の環境整備や通学路の草刈りなどの作業には男性も多く参加されましたが、ほかの活動への参加は役員以外ほぼ女性だったと聞いています。

そんな地域のPTAで起きた黒歴史の一つ目は会長の選出法です。
大小拘らず同業種の経営者が多かったため、何年か先までの候補者選出が容易だった時期が続いていた反面、仲間内の身内盛り上がりによる組織運営になっていて若干周囲がしらけムードだったことは否めません。また、保護者同士とは言え経営者と従業員という関係性も少なからずあったことが運営にも影響があったように思います。

その後、モノづくりである伝統・地場産業の低迷により会長候補者選出が難しくなり、ある年にはくじ引きによる会長候補選出という事態が起きたと聞きました。PTAとは関係ない仲間内のイザコザに因るものだと聞きましたが、真相は定かではありません。

サラリーマンがPTA会長を担うようになったのはそのことがあった以降です。

二つ目は団体の意思決定の方法です。
定例役員会は夜に開催、終了後にほぼ毎回お酒を飲みながらの二次会をしていた時期があったそうです。半数以上の役員が参加されていて和気藹々な雰囲気はとてもいいのですが、問題は二次会の翌日に定例役員会での決定とは違う内容が決定事項として会員さんに通知されることが何度もあったという事実です。
役員会での議論は全く無意味、やる気もなくなったと二次会に参加できない役員さんから聞きましたが、そりゃそうですよね。

そして最後の三つ目、これが一番の黒歴史、2期(2年)連続で起きた会長と役員との不適切な関係の発覚です。
当事者は自分がしたことなので何を言われても仕方ないと思いますが、他の役員さんと当事者のお子さんたちはとても辛い時期を過ごされたと推察します。

この手の話の伝搬性はすごいですね、地域関係者や市内の各PTA関係者もご存じで、翌年役員になりPTAのことでお話しに伺った際の冷たい対応と厳しい視線はこれが原因だったと痛感しました。当事者個人に対する地域の皆さん、保護者の皆さんからの信用はゼロに加えPTAという団体の信用性も地に落ちた感じだったので同じ時期の役員さんたちは針の筵で憤りを感じたことと思います。
事実、役員の大半は辞任の意向が強く、役員会もできない、ほぼ壊滅状態で機能していなかったと後から聞きました。多分そのことが起きたすぐ後に正式に役員(その翌年は会長含み)の依頼があったと推察します。

次期会長候補含め残られた役員さんも、ご自身の残留は苦渋の決断だったと思います。
だから当初私への依頼も、いきなり「会長」だったようですが、断られることを避けるために・・・だから終始彼は、自分は私へのつなぎ役だと明言されていたですね。

実際に運営に携わってみて、これまで1年交代が慣例だった会長を2年引き受けたのは、現状を鑑み何とか保護者のみなさんと地域の関係者からの信用を取り戻すところまでと考えたとき、2年は必要だろうと判断したからです。

個人が起こした不祥事ですが、世間というのはそれを承知の上で組織(PTA)やその構成員(保護者)に対し厳しい目を向けることが身に沁みた一方で、人は組織やシステム、仕組みよりも人を見ている、理屈よりも感情、言葉よりも行動することで組織に対する印象も変わることをこの時に身をもって体験しました。

外部だけでなく会員さんも同じです。

そういう意味では、この黒歴史も簡単に断ち切ることができたわけです。

居住地域は田舎ゆえ「おらが学校」という意識、愛着は強く、学校に対してはとても協力的な人が多くいらっしゃいました。

だから保護者の言動には敏感のため、何よりもまずは行動、PTA会長・役員が地域の何かしらのあて職であって、疑義があってもやること(役割)をしっかりと務めれば信用してもらえる、信用されれば、世代・時代によって状況は全く違ってきていることなどの意見にも耳を傾けてくれます。

PTA役員になる前に町内会長を経験し、同じ地域でも町内によって事情も運営も全然違うことが分かり、地域関係者の人たちと一緒に汗を流して活動したこともプラスになったと思います。

リアルではほとんどありませんでしたが、ネット上ではPTAの話題の中では法律を独自解釈してよく語られています。法律って具体的なことがほとんど書かれていないので自分が読みたいように読んで独自解釈になってしまうことは往々にして起こり得ますが、多くの専門家は断言しないで可能性があるに留められているのに対し、すぐに「違法」と口にしてしまう人が多いのがPTA関連の話題だなって思います。

そんな時に、教育基本法第13条の解釈を見かけました。
(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
第13条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

<解釈>
学校、家庭、地域等の連携協力の重要性を確認したものである。

本条は、家庭や地域住民が学校に協力するように、の意味に取られやすい。
しかし、本条は、特に学校中心主義を定めたものではなく、他に色々な可能性が読み取れる。学校教育以外にも、第3条(生涯教育の理念)、第10条(家庭教育)、第11条(幼児期の教育)、第12条(社会教育)などから、教育におけるそれぞれの役割と責任が生じているので、広く関係者同士の連携協力を呼びかけたものと解すべきである。

本条により、学校、家庭、地域住民、社会教育施設、大学等は、相互に連携と協力を呼びかけやすくなっている。

「役割と責任を自覚する」は、関与を求めるだけでなく、介入の節度を求める理由にもなる。
とあります。

PTAや自治会、あるいはコミュニティスクールは、まさにこの連携、協力するための一つのツールでありプラットホームだと思うんですが、ネット上でPTAや自治会の話題になると
本来は行政(学校)がやるべきことを住民(保護者)にやらせている(行政主導)と捉えている人と本来は住民(保護者)がやるべきことを行政(学校)にやってもらっている(住民自治)と捉えている人の大きく2つの主張に分かれているように感じています。

そしてお互いなぜそう考えるのかを議論しないで、ただ相手を批判しあっているだけのように見えてしまうことが多いという印象です。また自由を標榜しているわりには、行政主導を求めている人が多いような印象も持っています。

学校、地域、保護者間の連携は必要と主張するもPTAや自治会、あるいはコミュニティスクールなどの存在は疑問もしくは不要と主張、でも誰(どこ)が中心になって、どうやって連携や協力を担保する仕組みを構築し運用していくのかの具体的な方策の発信はほとんど見かけません。元々机上のべき論だけで具体の案がないのか、それは学校や行政の役割だと丸投げして公に支配されたいのか、出来上がった仕組みが気に入らないと非難し続けたいのか、正直よくわかりません

 

 

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先日、立て続けに聞き慣れない言葉が目に入ってきました。

一つが「正解はひとつ症候群」で、何事にも複数の答えは存在しない、正解はひとつと思い込んでいること
そしてもう一つが「正解病」で、何事にも正解があると思い込むこと。

社会人によく見られる思考や行動の傾向で、仕事などに支障をきたしてしまうことがあると紹介されていました。

なるほど、意味はよく分かりましたが、そういう言い方というか言葉が今はあるんですね。

現実の社会生活の中では、さまざまな意見や解釈が存在していて、必ずしも正解があるわけではない、物事に正解がないのは頭では理解していても、正解があるを大前提に行動をしてしまう、あるいは本当に心から正解があると思い込んでいる人はとても多いと言われます。
そして、1+1=2のように正解はひとつしかないと思いこんでいる人もものすごく多いと思います。

どうしてそう思ってしまうんでしょう?

それはこれまでの学校教育に起因しているのではとの指摘があります。
学校のテストで求められる正解はひとつだけ、答えは必ず存在していてしかも複数は存在しないという教育を受けてきているため、その考え方が染みついているから。

さっくり言えば、これまでの学校での学びの基本は論理的思考だったからだと説明がされていました。

確かに仕事をしていく上でも、いくつかの条件を考慮しつつひとつの案に絞ることを求められます。それもベストの答えを迅速に判断しなければいけません。

そういえば、昨今の報道番組もわかりやすさを重視して、AかBかというように情報を単純化して伝えるようになっている気がします。

論理的思考が悪いというわけではなく、例えば複数の正解を認めたり、突拍子もない発想ばかりを採用していたら、物事は停滞して、間違いなく混乱してしまうでしょう。

教育が「正解を当てる」に偏っているため、学生時代はただひとつの正解を求めがちですが、社会にでると多様な価値基準があり、正解がないという現実を経験しますので、正解病や正解はひとつ症候群はその人の中で少しずつ緩くなっていくはずですが、社会に出ても規則やルールを遵守する性質が強すぎるとなかなか抜けきれないとの指摘もされています。

ルールのない組織は、信号のない道路と同じなので、あちこちで衝突が起きやすくなりますので一定のルールは必須ですが、ルールを細かく決めすぎると社員はルールという正解を気にして仕事をするようになり、自分の頭で考えることを止めてしまうという危険性を孕んでいます。

役割分担も同じで、役割を決めることは仕事を進めるうえで重要ですが、細かく決めすぎると、役割で決まってないことは自分の仕事ではないという判断が広がってしまいます。
どの業態もルールや役割で定義できる仕事ばかりではないので、ルールや規則に拘り過ぎる社員ばかりだと逆に機能不全に陥ってしまう危険性があります。

さらに論理的思考が強いと、自説が正しい、正解だと信じて、他の考えをすべて否定するようになってしまうこともあって、本当なら違う考えも共存できるはずなのに、ひとつの考え方以外を認められなくなってしまうことも懸念されています。

「正しい答えはひとつだけ。あとはすべて不正解」

これって、すごく窮屈で排他的で貧弱な発想だと思いませんか?

 

 

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自宅の倉庫を整理していたら、小さくて古い、赤色の辞典が出てきました。

自治体から小学校の卒業記念でもらった、その名も「アポロ英和辞典」でした。

懐かしくて久しぶりに手に取り、恥ずかしながらもらってから50年が過ぎて初めて「まえがき」に目を通してみました。

『この辞典は中学生のみなさんの英語の学習に役立つように作られています.初歩の学習者の利用する辞典としては,高級な大辞典や虎の巻式の片片たる書物は論外としても,いわゆるポケット判辞典でも,内容を極度に圧縮して何万という語数を盛ったものは,たとえ携帯に便利であっても,あまり学習効果のあがるものではありません.
 初歩の学習にはそれぞれの段階に適した辞典------中学時代には中学用として作られた辞典------によって勉強することがもっとも望ましいのです.この辞典には,中学生のみなさんが,教科書によって英語の基本を学ぶのにぜひとも必要なことがらが,親切に説明してあります・・・』

なるほど、しっかりとした意図をもって編纂された中学生向けの辞典だったんですね。

確かに授業や高校受験のための勉強ならこの辞典だけで全く問題はなく、大変重宝したことを覚えています。個人的には小学校の卒業記念にはぴったりだと思いました。

ただ私にはこのアポロ英和辞典にもう一つ苦い思い出があります。
高校に入学すると英和辞典はじめ和英辞典、漢和辞典、古語辞典など、すべて学校が推奨(指定?)する分厚い辞書に一変します。

多くの生徒が同じ辞書を利用する中、私は4歳違いの姉のお下がりの辞典をそれぞれ利用していました。

新設校かつ管理教育全盛期だったため、置き辞書禁止で毎日持ち帰らなくてはいけなくて、それが面倒くさくて、コンパクトな古語辞典とアポロ英和辞典を学校用にしていたら、ある時先生の目につき、「こんなものは辞書じゃない」「これくらいなら内容は全部覚えたな」と窓から外へ辞書を投げられた、そんな高校生らしい思い出の一冊です。
確かに、授業で調べようとしてもほとんどがアポロには載っていなかったので役に立たなかったのは事実です。でも外へ投げる行為は・・・今なら大問題でしょうね。

卒業記念品は小学校の英和辞典、中学校は多分「印鑑」、高校はあったかな?

大人になって、イベントや大会、行事などで配布される参加賞、それほど貴重なものでも高価なものでもないので、正直もらって嬉しいのかな?って思う時がしばしばあるんですが、小学生くらいまでは、それが何であっても素直に喜んでくれる子は多いんですよね、大人が思うよりもずっと。

朝の情報番組のインタビューで「夏休みで楽しかった思い出として○○お祭り」と答えたお子さんに「どこが・何が楽しかった」と再度質問され、しばし沈黙した後「冷やしキュウリ」と答えていました。酷な質問だと思うと同時に質問された子はとても困ったでしょうね、本当は「何となく」なんでしょうが、これはあまりポジティブではないし、子どもにとって「何が」「どこが」ではなくお祭りの場の雰囲気に自分がいることだけで胸が躍り、「楽しい」って感じられると思うんですが、それを言葉で表現するのはお子さんには難しい。

自戒を込めて大人はダメだなって思ってしまいました。

卒業記念品と言えば、PTAからの実費請求問題として卒業式のコサージュや証書入れがよく取り上げられます。
自分の考えを言った、自分の子も言っていたは目にしますが、是非はともかく、ネット上で発信する前に、実際のリアル現場できちんと話し合っていらっしゃるのかな?子どもたちの声を聞いたのかな?って、そちらが気になります。

以前記事に書いたように、自分の子どもたちの頃のPTAからの卒業記念品は、授業の一貫として自分で絵付けをしたマグカップの素地代と焼成費、コサージュは図工の授業の一貫として在校生による手作りでした。卒業生自身が手作りしている学校もあると聞きました。

実費請求も分からないでもないですが、それを言い出すと6年生の保護者だけが会員じゃないし、途中で転校する子もいる、自分のところで考えても、材料費も焼成費も1個当たりの正確な単価は出ないし、証書入れだってある程度のロットで購入したほうが安価になりますからぴったり卒業生と同じ数を買うわけでもないので突き詰めていくと矛盾が生じるわけです。

色々なやり方があると思うので、関係者の皆さんでよく話し合って、一番ベターな選択をすることがPTAの趣旨に合致していると思います。モノの配布はそのきっかけに過ぎないはずが、本来の目的である話し合いをしないで、いきなりべき論や法律論、正論をぶつけてみえることの方が多いのでしょうか?
そうだとすると、双方譲らずだったり、聞く耳持たず、かえって以前よりこじれることも十分考えられますね。

会員のご意見を一切受け付けないという姿勢をとる運営側があることはネット上で見聞きしますが、多数決という手法も法律論も、話し合ってもにっちもさっちもいかなくなったときの最後の砦・・・だと思うんですけどね。少数意見の尊重ってそういうことでしょう。

自分と違える主張をする人は必ずいる、ない方がおかしいので、どうしてそう考えているかを聞く耳は持ったほうがいいと思うし、ちゃんと正面から話したほうがいいと思うんです。

PTAに関しては、要・不要から始まり様々な対立軸で語られますが、自分の経験上も、先人たちや現役の人たちから話を聞いても、両極にいる人って極めて少なく、でも無関心っていう人も少なく、ないよりあったほうがいいから自分の子どもに直接かかわる活動にはできるだけ参加するけど、役員や委員は正直避けたいっていう人が圧倒的に多いと思います。

先のお子さんじゃないですけど具体的に何がではなく、「何となく」受け入れている人はものすごく多いんじゃないかと推察します。

市内で言えば、法施行後、学校からPTAに保護者の個人情報提供はされていないので、知恵を絞って自分たちで何とか収集していると思うけど、クラス名簿の配布を望んでいる保護者は多かったので、それクラス名簿を活用しているケースは多いかもです。でも目的外使用とか入会届の整備とかに至るほど過敏ではない人が多いのも事実かな?と思います。

正直、クラスの人数と会員(保護者)と児童が結び付けば、名簿がなくても非会員世帯の児童が自ずと分かってしまいます。

それでも今のご時世、口頭でもいいので同意だけはいただいたほうがいいと思いますし、その証左を文書で残したほうがよりトラブルにはなりにくいと思います。

片や、今後推進されていくだろうコミュニティスクール、地域学校協働活動のように保護者以外の人たちと一緒に何か活動するということに積極的な人は多くないという印象です。
あくまで私の暮す地域や私が話を聞くことができた範囲内での印象ですが、現段階ではそちらは前途多難かもですね。

また、つい最近、20年ほど前まだ現役バリバリで自治会や町内会に加入しないばかりか、存在自体を否定し悪態をついていた人が、齢を重ねて(自分たち弱者のために)あーしろ、こーすべきと言ってきて役員さんたちが辟易とされているという話を聞きました。

私はPTAや町内会を「やらされている」「加入させられている」という人には加入してもらわなくても全然いい、いや加入してもらわないほうがいいとさえ思います。加入してもらってもお互いに嫌な思いをするだけだからです。

「お互いさま」って思える心が大事なって感じる今日この頃

 

 

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