フジテレビの問題はじめ兵庫県知事選や東京都知事選など、最近のTVや新聞・雑誌などの報道や記事、またSNSなどを見ていると「軽率な一般化」「一事が万事」という言葉が私の頭の中をよぎっていきます。
「軽率な一般化」とは、自分の身の周りで起こった出来事、あるいは自分がたまたま見聞きした事象から結論を引き出し、その結論を一般化してしまうこと。
「一事が万事」とは一つの物事から、他のすべてのことを推し量ることができるという意味。
人に対して使う場合、どちらもひとつの行為だけを見て、その人を「あいつはこういうヤツだ」と決めつける思考停止のひとつだと私には思えてなりません。
そういった決めつけの主張が多いことがメディアやネット、SNSの特徴の一つかもしれませんが。
10年以上前にネット上のPTA絡みの掲示板に上がっていたある投稿が私にはとても印象に残っています。
それは「経歴にPTA会長とある政治家に投票しないで」という投稿でした。
投稿をした人の大きな理由は
「政治家になるための足掛かりとして誰もが嫌がるPTA会長を引き受けた」でしたが、
それだけにとどまらず
「違法行為(自動加入、入会届未整備、任意加入未周知)だから」
「地元有力者がPTA会長(や自治会長)になるのは利権絡みだから」などが続いていました。
その人が知っているPTA会長がそうだったのでしょう。
確かに市町村議員の中にはPTA会長経験者がそこそこいらっしゃいます。
政治家への足掛かり、第一歩と考える人もいらっしゃるでしょう。
でもPTA会長経験者の政治を志した理由が一事が万事、すべての人がそれとは限りません。
任意加入を広く周知したいというのが本旨で、大所高所から客観的な視点からの投稿が多かった人なのに、その投稿だけが私には『軽率な一般化』に映りました。
職が個人経営、サラリーマン、職種もマチマチ、JC出身者もまあまあ何人かいらっしゃって、どうして市議会議員に?って知り合いの議員さん数人にも聞いてみたことがあるんです、とても政治に興味があるとは思えなかったから。
田舎の市町村議員は地域代表(代弁者)みたいなところがあって
「多くの人から頼まれて・背中を押されて」という答えとともに「PTA会長を経験してみて、政治の重要性に気づいた」「現状を変えられるかもしれないと思った」という答えが返ってきました。
以前、「長」という職責は「やりたい人」ではなく「やってほしい人」に担ってもらうものだと言われたことがありましたが、一理あると思います。一方で「やりたい人がやればいい」と言うのも理解できます。
でも「やりたい人がやればいい」と主張しながら、実際に「やりたい人」や「やっている人」を非難するっていうのは明らかに矛盾しているとも思うんです。
ボランティアや地域活動などに熱心な人は、兎角ターゲットにされやすくて非難を浴びているんですよね。
目立ちたがりだ、お山の大将だ、自己満足だ、偽善だ、売名だ、利権絡み、労働力搾取、下請けなどなど
やる・やらないは本人の自由だし、その理由もそれぞれ何かしらあるでしょう
単純に誘われたから、何となくって人も多いと思いますよ、アンケート調査結果でもボランティアを始めたきっかけが「友人・知人に誘われた」が一番多いらしいですからね。
やっている人がやらない人を非難するのはどうかと思いますが、逆にやらない人がやっている人を非難するのも、どうでしょう?
もっと滑稽じゃないですか?
先日のマジョリティとマイノリティの立場の話ではありませんが、人は誰しもみな「自己矛盾」を抱えているんですよね。
自分がマイノリティの立場時には民主主義とは?と強く唱え、数の論理・単純多数決を批判して少数意見の尊重を強く訴える人が、逆にマジョリティ側に立つと少数意見を切り捨て、単純多数決・数の論理を正当化して称賛しているという矛盾をよく見かけませんか?
時々見かけるのが、
事業や行事の廃止の決議が賛成多数で可決
県Pや日Pの加入・脱退(退会)を賛成多数で可決
PTAの解散を賛成多数で可決
全会一致ではないのに称賛の声が多くあります。
少数意見は切り捨てればいいとまでいう人もいらっしゃいました。
いつも声高に主張している個人の尊重は?少数意見の尊重は?民主主義の原点はどこに行ったんでしょう?
どこかに置いてきてしまったのでしょうか
自分も無意識に同じことをしているのかもしれません。
指摘している自分こそが、実は、指摘されている側に立っている。
笑っている自分が、実は、笑われている側の人間である。
それに気づいている人は絶えず葛藤を抱えているし、気づいていない人の言動はどこか荒唐無稽に聞こえてきます。
軽率な一般化
自分も気をつけなくちゃいけませんね。