自動車を運転する人はご存じでしょうが、自動車にはハンドルやブレーキに「あそび」が設けてあります。急なハンドル操作やブレーキ操作をしても、いきなり車が方向を変えたり急停止したりしないためで、「ゆとり」「余裕」と置き換えたほうが分かりやすいかもしれません。
このほんの少しの「あそび」が、自動車と運転する人間とのインターフェース的な役割を果たして安全性を高めていると説明されています。
確かに、もし「あそび」がなかったら、触れたら止まる・曲がる、常に急ブレーキ・急ハンドル状態になります。F1などのレーシング用を除けば、そんな車は危険極まりなく、怖くて運転でなくなってしまいますね。
これは機械だけでなく人間社会も同じで、効率性を最優先して「ゆとり」「あそび」のまったくない社会だったとしたら、1mmの誤差も許さない四角四面の人だったら、人と人との関係性はギスギスして超ストレス社会になってしまうように思います。
そして今、社会全体が、社会を構成する人々が、少しずつですが「あそびのない」方向に進んでいっているようにも感じます。
企業も経済効率性の観点から社員に対して直接的な成果を強く求めるので、同僚や後輩の相談話や雑談、愚痴や部下への丁寧な指導といった一見非効率とも思える社員間の「ゆとり」「あそび」「余白」の部分がどんどん減少しているように思います。
それがかえって社員のモラルやモチベーション低下を引き起こし、結果として会社全体のパフォーマンス低下、業績停滞に繋がっている面があると思ったりします。
そんな社会になることを何十年も前に危惧したのか、「あそび」「ゆとり」と同じような意味合いで発されたのが、以前記事にも書いた松下幸之助さんの言葉「心に縁側を持て」ではないかと思えてきます。
白か黒か、善か悪か、右か左か。い「二項対立」の視点で物事を捉えようとする人が目立つ現代社会。実際には正しいのはAかBと、すべてを二項対立で捉えられるほど世の中は単純ではなく、ほとんどのことがAとBが混ざり合った間の場所に答えがあるのが実態だ。
それを昭和の頃まで日本家屋にあった家の「内側」でもあり「外側」ともいえるような場所「縁側」に例えて、AかBか白黒をつけずに、さまざまな意見が集まってくる場所がある、そこで最適な答えを考えていく、そんな曖昧な部分、余白(あそび)を持つことが、多様化して捉えづらくなった世の中を、寛容に受け止めるスペースになり、心の余裕に繋がるのではないかと訴えたのだろうと思います。
今から何十年も前に、すでに憂いておられたんですね。
そういうところが「経営の神様」とまで言われる由縁なのかもしれませんね。
社会人として必須のスキルであるロジカルシンキング(論理的思考)が身についている人は、物事を二項対立で捉えて、論理的に自分の考えを主張できます。素晴らしいし、ビジネスには必要な能力です。
もう一つ社会人には必須のスキルと言われるのがクリティカルシンキング(批判的思考)です。
ロジカルシンキングができている人の多くは、他者の意見を批判的に捉えることもできています。でも自分の主張について批判的に捉えた考察、本当の意味でのクリティカルシンキングが身についていないので、どうしても自分の考えに固執、自分は絶対正しいから抜けられず、色々な立場からの視点、多様な視点からの考えを想像するところまで行きつかない、そんな人が、特にネット上にはとても多いと感じます。
法律や制度・しくみも然りで、社会の秩序を維持するために、人々の権利と自由を守るために、とても重要な役割を担っている必要なものです。
でも正直、法律も制度や仕組みだって、完ぺきなものは存在しないと思うんです。
過去の経験(歴史)に基づいて、こうありたい、こうあるべきという理念や理想を実現するために法律や制度・仕組みを作るわけで、そうした理想がないと、殺伐とした社会になってしまいますが、一方でそれらは社会全体の利益を考慮して作られていくので、個人の倫理観と衝突する場合が多々あるし、現実の社会には法や制度・仕組みには当て嵌まらない、外れてしまうものや、あるいは明確に分けられない、いわゆるグレーゾーンや隙間・狭間が必ず存在するのもまた事実なんですよね。
必要(必須)なことはボランティアなどに頼らず行政でやるべきとよく言われます。
理屈の上ではそうだと思います。
でも、自分が管理職になって、第一線の現場から離れてみて気づきました。
自分も含め、そういう理想やべき論を語る時って、制度や法律を組み立てている官僚と同じで本当の現場を知らないんだと。ネット上で見かける「ああすればいい」「こうすればできる」という発言も私には直接現場に関わっていない人が多いように映ります。
現場で要・不要を含め明確な線引きができるかといったら、なかなか明確にはできないことが多いのでとても悩ましいのが現実です。だからと言って線引きできないまま放っておいても問題が解消するわけでもありません。
法律や制度を定めれば杓子定規に当てはまて線引きをすることになり、外れてしまうコトやモノや人が必ず生まれます。それらは全て必要のないオプションということになってしまいます。
それらを行政サービス意外の市場サービスだけで解決できるとは思えません。
だから喧々諤々意見が違う者同士が話し合ったり歩み寄ったりして対応策や打開策を考えることが必要だと私は思いますが、それを避けるだけでなく、行政のせいだ、自治会のせいだ、会社のせいだ、政治のせいだと訴えているだけだから、二分化してしまうことが多いんだと思います。
行政も民間も手が出せないけど「やったほうがいいよね」と隙間を埋めてきたのが、市民活動や地域活動、PTAやボランティア活動でもあるわけです。
一例で言えば通学関係です。
オプションだからやりたい人がやればいい
地域の道路・交通環境によって様々なので全国一律ではありませんが、例えば校外の子どもの安全確保は保護者の責任、子どもたちの登下校に関わる旗振りや見守り系の活動、登校班もオプションで「あったほうがいい」と思う人がいたから継続されてきたわけですが、そうした活動はもちろん任意なので、今後いつまで継続する(できる)かは不透明です。
保護者だけで活動しているところもあれば、地域の皆さんがやっているところも、老人クラブが自分たちの活動としているところもあります。まったくやらない地域もあるでしょう。
私人が自ら土地を買い、道路や歩道を整備して市に帰属(寄附)される篤志家の人もまれにいらっしゃいますが、ハード整備は確かに行政の役割です、交通規制は警察の役割です。
見守りはオプションなので原則は自己責任、自分の身は自分で守る、やりたい人がいなければ、子どもだけでの登下校か、海外のように保護者が付き添うかになっていくこともやむを得ないということなんでしょうね。
とても困るご家庭やお子さんがいらっしゃっても自己責任
どうしても必要なら法制化するべき、制度化するべきという主張になるんでしょうか
それって明日できます?
今困っている人はどうしましょう?
これからの日本はそんな共助のない自助と公助だけの社会に向かって進んでいくのでしょうか。