この世では誰しも苦しみを持っています。全く苦しみから逃れている人は、恐らくいないでしょう。だから、苦しみを取り除くのではなくて、苦しみとは克服するものなのだと思います。苦しみを取り除くといっても、それは出来ないことであり神の御心でもないでしょう。苦しみに対しては、これを全く避けるのではなくて、神から課せられた仕事だと思って引き受けるのが正しい対処の仕方だと思います。
苦しみに対して不平を言っている間は、その人の中に焼き尽くさねばらならない不純物があるのでしょう。苦しみが高じてきて、自殺の衝動にかられ、まったくもって厭世的になる時があります。しかし、苦しみが頂点を迎え、その人を焼き尽くし、心が砕かれると、苦しみを歓迎するようになります。その苦しみは何年もの間続くこともあります。その人は希望を全て失い、ヨブのように生まれた日を呪うようになります。しかも、神はその愛する者に享楽や気晴らしといった、この世の楽しみを全て奪います。どこを向いても十字架しか見つからないという状態が何年間も続くことがあります。しかし、その長い苦しみの後で、苦しみの中に喜悦が生まれることがあります。他ならぬ神のための苦しみです。自分の苦しみを神が、この世で自分を用いるために練っている苦しみだと気づくからです。
苦しみの中で喜びの気持ちが生まれると、単なる享楽で楽しむよりも苦しみの中で錬られることに楽しみを見出します。苦しみは誰にも存在します。その苦しみの解決方法は、その苦しみを歓迎し、神から与えられた仕事だと思い、感謝して受けとるしか方法はありません。長く続く苦しみは、この世のものに対する執着を失わせます。この世のあらゆる物事が苦痛になるのです。この世の快楽が全て苦いものに変わるのです。
苦しみを歓迎し始めると苦しみによる果実が、どんなものなのかが良く分かるようになります。神がどうして、この重荷を背負わすのかという意味もよくわかるようになります。苦しみによって練られた人は、その苦しみによって神の掟を学ぶのです。そうでなければ、キリストが要求する道徳があまりにも高すぎるために実行不可能なものに思えるのです。
この苦しみは純粋な恩恵であり、誰しもに与えられるものではないのかもしれません。しかし、この苦しみの道は誰にとっても開かれた道なのです。苦難を願い求めるようなことは必要ありません。神から与えられる試練を忍耐を持って耐え忍ぶだけで十分です。神が純粋な親切で、その愛する者に苦しみを委ねることが良く分かるようになります。それまでは、自殺の衝動や神への不信による心の動揺が起こります。しかし、一度、この苦しみを歓迎し始めると状況が一変します。苦しみに対する感謝を学んだ人は、人生において大きく前進することでしょう。
カール・ヒルティや聖トマス・ア・ケンピスや十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレジアは、この苦しみの道をよく理解した人達です。このような偉大な聖人達は苦しみがなくなることを全く願わなくなり、神のために苦しみたい、とすら思うようになったのです。これこそ十字架の王道なのです。我々はこの十字架のみ誇ることが出来ます。
この苦しみに対する思想は誰にでも受け入れられるものだとは思いません。僕自身も激しい苦しみの中で死を希うことが何度もありました。苦しみから逃れよう逃れようと苦心して、何度も神を呪いました。それは現在も変わらないのかもしれません。僕には何も残りませんでした。しかし、神は他ならぬ愛の心でここまで導いてくれたのだと信じます。僕はこの苦しみの哲学が間違っているとは思いません。これには十字架という栄えある名称すらついたものだと思います。しかし、皆さんに歓迎してもらえるかどうか自信がありません。それに僕はこの十字架の道の結末をまだ見ていません。
それでも、ここまで読んでくださり、いいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。しかし、今回ばかりは自信がありません。この十字架の道については、また経験を重ねた後にまた書きたいと思います。その時には、この十字架の道のみが人が救われ、真の幸福を見つけるための王道なのだということを分かってもらうようにしたいと思います。今回はまだまだ未熟な、一信徒の意見に過ぎないと寛大な気持ちで受け取ってくれるようにお願いします。それでは、また、お会いしましょう。この世には幸福が絶対に存在します。僕は皆さんと共にそれを見つけたいと思います。どうか、お元気で。仕合せになりましょう!辛い日々は決して無駄ではなかったと人に誇れるように、そう願います。