僕はこの世のものを耽溺してはならないと考えています。この世の関心の中心は神であり、それを片時も忘れないためにです。だから、僕は仏教徒的な無の崇拝も理解できるような気がするのです。この世のものを執着することが苦しみの原因だとは思いませんが、この世のものを愛することは、神を忘れることに繋がります。まず始めに神を愛することから始めて、神が愛するものを愛するようになるべきです。なによりもまず神が優先されなければなりません。

 そもそも人生とは学校であり、楽しみ遊ぶことは怠慢であり、苦しむことは勉強です。ここで僕の思想で問題になるのが努力し切磋琢磨することは楽しいことの範疇に含まれてしまうということなのです。これは大変失礼であり言葉にしたくないのですが、大変な努力を重ね大きな名声を受けた成功者は、決して救いに到達することは出来ないということなのです。本当の技術の神髄を極めた人は大変尊敬されますが、人生の目的である救いからは、全く遠いところにいることになるのです。

 僕自身は救いに到達するまでは大変な努力家でした。勉強も楽しいですし、スポーツも同様です。また仕事も楽しく、遊びも勿論楽しいものでした。むしろ、遊びで真剣になれない人は何で真剣になれるのかと考えていたほどです。それほど、この世の提供してくれるものは複雑怪奇で奥が深く学べば学ぶほど楽しくなってくるのでした。

 何かで努力して成功を勝ち取ることはこの世の最大の快楽です。しかし、キリストは心の貧しい人こそ幸いであると言ったのです。一廉のものとなり誰からにも尊敬される成功者は哀れであると言いました。この思想は過激です。この世の価値観からは真向から反対します。しかもキリストは自分のことは役に立たない僕と言いなさいとすら言いました。偉くなりたいのなら仕える者になりなさいとも言いました。

 キリストの言うことは、この世の価値観から真向から対立します。僕のこの思想も、誰しもに受け入れられるものではなく、むしろ度し難いものだと思われて当然のものです。皆努力して一廉のものになりなさいと教えられるのに、そんな利己的な努力は全て捨てて苦しみを受けなさい、と言うのです。富、名誉、享楽は全て捨てて神のために苦しみなさい、と言われて、はい、そうします、と答える人が何人いるでしょう。切磋琢磨し、この世を存分に楽しんで生きましょうというスローガンの方が道理の点から見ても正しいように思えます。僕のこの意見に対して、キリストは、そのような意味で言ったのではないと言う人もいるでしょう。しかし、神は技術の向上よりも、苦しみを味わい同胞を同情する愛の心を重視していたことは間違いありません。

 

 前回の記事同様に、この意見も皆さんに受け入れてもらえるかどうか自信がありません。僕自身も努力を愛するものでしたから。夢に向かって一心不乱に努力する青年に、この真理を突き付けることは残酷そのものでしょう。出来れば僕はしたくありません。それでも、僕の意見に賛同してくれるというのなら、その寛大な心に感謝します。参考程度に留めておく、というのでも全然構いません。しかし、本当の幸福はどこにあるのかということに気に留めておいてほしいのです。最後まで読んでくれて感謝です。それでは、またお会いしましょう。