僕は仏教はあまり詳しくはないのですが、仏陀や仏教関連の書籍には目を通したことがあります。そこで僕が注目するのは解脱という概念です。あらゆる欲望や執着が苦しみの元であり、これを根本から絶ってしまえば、苦しみも全てなくなるというのです。このような禁欲的な思想はキリスト教ではスペインの十字架の聖ヨハネの「カルメル山登攀」の中に見出すことが出来ます。また、聖トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」にも共通する項目があります。
極度の苦しみを味わうとあらゆるものごとへの興味関心が薄れていきます。仏教では最終的には無の崇拝ということになるのですが、僕にはこれが少しだけ分かるような気がします。人間は相互に繋がっており、人から良く思われていると気持ちも良くなります。これは低俗な概念ですがスポーツではホームとアウェイと呼び、ホームでは力を得られアウェイでは苦境を強いられます。僕が思うに高徳な僧侶は、周りからの尊敬の念で、常に快い状態におかれ、常に瞑想を好んでいたのではないでしょうか。
キリスト教では信仰が進むと排斥されてしまうので、このような瞑想を好むことは出来ず、常に人からの侮蔑という重い十字架を背負わなくてはなりません。あのイエスでさえ、完璧であられ完全な振る舞いをしていたのにも関わらず、人からの妬みや侮蔑の対象になっておりました。「人の中で尊ばれるものは、神の前では嫌われものである」(1)というのは激しい御言葉です。
僕は仏陀や日蓮などの高僧な人達もキリストの聖人達と同じく尊敬しております。しかし、彼らはこの人から尊敬されるということから逃れることは出来なかったのではないでしょうか。人から良く思われていると心地よく、振る舞いも立派になり、有徳な人物となります。誇りと自信に裏打ちされた余裕ある態度をとることが出来ます。完全に瞑想に励む高僧はそうやって作られるのでしょう。
キリスト教では反対に心の貧しい人が厳しい苦難の中で神にすがる弱い人達の集まりです。キリストはこのような人達を「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(2)と励まします。自分を低くする者を神は高めてくれるのです。
普通に、この世を生きるのであれば仏教徒のように生きた方が生きやすいでしょう。しかし、それでは真の幸福の秘訣である謙遜には辿りつけません。この世のものからの解脱するという目的は、僕の考えによれば仏教もキリスト教も、そうたいした大きな差はないでしょう。十字架の聖ヨハネも聖トマス・ア・ケンピスも修道僧でしたから、その傾向は強かったのでしょう。
しかし、仏教には神がおりません。あらゆることから興味関心が薄れて、仏教では無を崇拝するという結論に至ってしまいましたが、キリスト教では神に囚われ、神が思想の中心になります。僕自身は確固たる信仰を持つまではショーペンハウアーのような仏教徒的な幸福論も面白いなと思っていました。現在でも、戻れるなら彼らの思想に戻りたいくらいです。仏教の宗教というよりは哲学的思弁のような思想には深淵さを感じます。僕自身はつまらない、ごく一般的な平信徒に過ぎないキリスト教徒にとっては、彼らのような人間の高みには羨望を覚えます。そのような生き方も面白いなと思います。
最後に、このような浅い仏教理解で語ってしまったことをお詫びし、この拙文に最後まで付き合ってくれた人達に感謝します。ありがとうございます。僕のキリスト教理解に対しても、いや、そうではない、と思う人がいるでしょう。それでも辛抱してくださって、いいねをくれる人にも感謝です。己の未熟さを噛み締めながら、この文章を書きました。どうか寛大な気持ちで受け取ってくれることを願います。
(1)塚本虎二訳 新約聖書 福音書
(2)聖書 新改訳