苦しんで得た 真の知識
神への感謝 生きる喜び
我ら 貧しく生きるとも
神の祝福 永遠に離れじ
この世は生きているだけで仕合せです。それに気付かないだけです。アシジの聖フランシスコが持っていたと言われる「軽やかな心」は、絶えず神に生きていることへの感謝から生まれたものでした。しかし、彼はキリストの騎士となるために十字架を願いました。「わたしどもは悩みや苦しみを誇ることは出来ます。なぜなら、これこそわれわれのものだからです」(1)。大きな苦しみの経験が、何気ない日常に感謝する気持ちを生むのです。全ては神への感謝へと変わるのです。与えられたもので満足し運命と和解し、感謝しながら生きるということは、言うのは簡単ですが行うのは難しいものです。しかし、それは可能なのです。ヒルティは言います。苦しみは一種の資産であり「もしもわたしがわたしの生涯における苦難を抹殺しようものなら、ほんとうに有益なものはなにも記憶に残らないでしょう。すべては苦難の時に成ったものであり、わたしはそれをどれひとつとしてわたしの経験の総和の内から失いたくはないのです」(2)。苦しみとは財産なのです。
神は愛する者に対しては厳格な父親であり、わずかなものしか与えてはくれません。しかし、我々はそれに満足出来るのです。富、名誉、享楽によって得る一時的な幸福ではなく、生きていること、そのものが喜びなのだと教えてくれるのです。それを教えるために、神は少なからぬ苦しみを、その愛する者に与えるのです。
神は苦しむ者の傍に常に寄り添ってくれます。神が共にいることの実感が生きることそのものへの喜びへと変わります。人間は生きているだけで良いのです。生きることは神から課せられた仕事であり、苦しみながら生きることは、本当の勤労者なのです。だから、神を愛するものにとっては苦しみの中にいてさえ喜びの心を持つことが出来るのです。
内村鑑三は言います。「最も難きことは起て働くことに非ず、最も難きことは静かに主の時と命とを待つことなり」(3)。この待つということが最も難しいのであり、煉獄の炎で燃やされながら神の助けを信じ「普通ならよろこんで死んでしまいたい場合に、なおこの世で神の栄光をあらわし、神のために生きるということは、あらゆる人生の中で最高のもの」(4)であり、これこそ神に仕えるということなのです。
我々は常に喜び、感謝するということが出来ます。人生は与えられるものは少なく、奪われるものの方が多いに違いありません。しかし、それでもなお満足し、運命と和解することは決して、小さなことではないのです。生きることは喜びであり、それは神への感謝と強く結びついた力強い感情なのです。
幸福はどこにあるのか、人は問います。ほとんどの人はその答えを得ません。生きることそのものが幸福であり、生かされていることに感謝することに幸福はあるのです。ですが、そのことがあまりにも当たり前であり、誰もそのことに気付かないだけなのです。ありとあらゆる苦しみを味わった人が、当たり前の日常を手に入れた時、心に溢れんばかりの感謝の念が起こり、この世に幸福を見出します。その心には神への愛が芽生え、これが高じていくことのみを、人は成長と呼びます。
皆さん、この世に幸福はあります。それに気付かないだけなのです。我々は常に喜び、感謝することが出来ます。神と共にあるという感情は、とても強いものであり、常に感謝の対象となります。我々の人生の目的は、神への感謝である、ということを、このエッセイの結論として終わりにしたいと思います。
僕の文章は決して読みやすいものでもなく、誰しもにも受け入れられる意見というわけでもないでしょう。それでも、根気強く付き合ってくださり、いいねをくれる人に感謝したいと思います。ありがとうございます。皆さんに神の祝福と幸福が与えられることを切に願います。それでは、また会いましょう。
(1)石井健吾訳 アシジの聖フランシスコの小さき花
(2)ヒルティ著作集 第七巻 同情と信仰
(3)内村鑑三全集 14
(4)ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 幸福論 第二部