この世を楽しんで生きることは可能です。哲学者アランの幸福論を読めば、人間の仕組みがわかります。創意工夫と試行錯誤こそ人間が面白さを感じる共通の特徴です。アランはアリストテレスを引用してこう語ります「人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある。」(1)また、こうも言います。「楽しみは能力のしるしである」(2)。能力やノウハウを持つ分野で能力を活かすことが出来れば、その人は幸せである。趣味でも構わない。理想は仕事であるが、昔は職人芸が主流であった時代に比べて、今の時代は仕事を楽しみにすることは難しいものになりました。手っ取り早いのは学問である。勉強すればするほどノウハウが溜まり楽しくなってくる。強制でやるのではなく、自分から初め学習計画までも自分で立てるのがよいでしょう。

 僕自身は英語と数学が好きでした。今は哲学と宗教です。しかし、宗教を学ぶと、自分の人生に神の意志が入ってきて人生は悲惨になります。神の意志と自分の意志に相違があるからです。神がよかれと思ってしていることでも、自分にとっては都合の悪いことになってしまうというのは、よくあることです。なるほど、確かに神は我々の幸せを願ってくれている。しかし、それは複雑な工程を歩むことが必要になります。

 それは不幸と呼ばれるものであったり、十字架と呼ばれるものであったり、試練と呼ばれるものであったり、試みを呼ばれるものであったりします。楽しんで仕事に取り組み、人生を謳歌している時に神はやってきて、その仕事を奪うこともよくあることです。その仕事が、その人に相応しいものでなかったり、この世を楽しむことで神を忘れることがないためです。

 僕はこの執筆活動に幸福を見出していますが、このような文章を書くためには、ただ単に幸せに生きるだけでは不可能だったでしょう。不幸の度に練り清められ、純粋な精神活動に楽しみを覚えることになります。低俗な物事に対する興味関心を失い、ただ神のみが興味の関心の対象になります。神はまことに妬む神であり、その愛し児が神よりも大事なものを作ることがないためです。

 神に愛された人は、この世が苦痛になります。物事を楽しむことが出来なくなるためです。以前は面白いと思っていたことでも、くだらないもののように思えて、つまらなくなるからです。本当によいものなら楽しむことが出来ますが、その例として、読書に関心を持つようになります。しかし、本当によい本というものは稀です。僕は哲学や文学を合計100冊は読みましたが、読むに値する本は珍しいです。本自体は1000冊は読んでいるのですが、本当によいものは、この100冊ほどしかありませんでした。だから、自分で書くことにしたのです。

 少し哲学の話をしましょう。盗みは悪いことです。しかし、盗まれたものが食料だったのなら、、盗みは悪いことだ。罪を認めて謝りなさい、ということを言う前に、その人はお腹が空いていて仕方なかったのだ、と考えるのです。悪をする人のも事情があり、それに同情することが大切なのです。他人を責めることを正当化することは出来ないのです。自分が正しいと思ってしまうと争いが生まれます。他者を責めるための理由になるからです。それで戦争は起きました。自分が正しいと思わなければ、戦争のような大量殺人または強奪行為は行えないのです。大事なのは正しいことではなく、争いを生まないことなのです。正義感が強い人が、最も多くの問題を作りだします。人はどうあっても良いのです。しかし、あれは駄目だ、これは駄目だと否定する人になってはいけません。誰にでも欠点はあるのであり、聖書に書かれてある通り、自分の罪は神に許されているのだから、他人の欠点も許してあげなければいけません。その他人の欠点よりも多くの欠点を、自分は神に許されているからです。

 話が長くなってきました。続きはまた今度書くことにします。いいねをくれた人に、この場を借りてお礼を言います。ありがとうございます。では、またお会いしましょう。最後に、僕自身は自分の意見をあまり正しいとは思ってはいません。僕の意見に疑問を覚える人もいるでしょう。しかし、僕は正しさよりも平和を求めているのです。何が最も正しいのか、ではなくて、何が最も愛のある行為なのかを考えています。

 

(1)アラン 神谷幹夫訳 幸福論

(2)アラン 神谷幹夫訳 幸福論