神を信じるということは容易ではありません。神は決して自分にとって都合の良い存在ではないからです。神を信じると幸福を与えられるというよりは、自分を鍛えるための試練が与えられます。それは不幸と呼ばれるものですが、その不幸の中には、たくさんの幸福の種子が含まれています。神は不幸によって、練り清められた透徹とした人格を作ろうとしているのです。だから、神を信じる善良な人間は幸福になるというよりは不幸になります。そして、その不幸を通して幸福になるのです。

 神は我々のために、幸福になることだけを考えている、とは、確かに、その通りなのですが、神の求めているものは道徳的な完成にあるのです。中世の神秘家であるアビラの聖テレジアや十字架の聖ヨハネは、これを完徳と呼んでいました。この完徳に至るまで試練は止みません。だから、人生とは試練の連続であり、愛を知るための学校なのです。曇りなき幸福を味わっていると、神を忘れ、道徳的な成長の妨害になります。

 神を信じることで幸福になれます。しかし、その幸福には苦しみも伴っているのです。神は不幸と苦しみで人間を自分の元へと引き寄せます。不幸と苦しみの中でも、幸福を感じるということが人間には可能です。いや、しなければならないのです。苦難は受け続けなければならないものであり、その中でも神から慰められることで幸福を感じるのです。

 幸福には不幸が付き物なのです。俗な言葉ではありますが、最も苦しんだ者が最も幸せになれるのです。神を信じるということは、自分にとって不都合な事が起こったり、不幸にされたりする中で神に対する不信の念を絶えず克服することにあるのです。人間は幸福であるより、不幸によって鍛えられることが良いのです。ありきたりの幸福では、どこまでいっても平凡な人間しか作りだせません。

 僕自身の考えですが、神は苦しみの支配者です。苦しみは担わなければならないもので、人間から取り除いてはいけないものです。だから、神に幸福だけを望むのは筋違いでしょう。もし、この世に不幸がなく、まったくの悲惨なことがまったくなくなってしまうようなユートピアが実現してしまったら、人間は果てしなく浅い生き物になってしまうでしょう。苦しみの時に神に訴えることは差し支えありません。神はそのような不平不満を全て聞いてくれます。だから、人間相手に不平を言うことは控えるべきでしょう。

 苦しみを受けるか、あくまで平凡なままで、まったく成長のない人生を選ぶかは自分で選択することです。しかし、この場合においても、我々が神を選んだのではなく、神が我々を選んだのです。僕自身は神の道を選びたくはありませんでした。その事を何度も神に訴えましたが聞き届けられませんでした。しかし、神の道を選らばなかったのならば、僕は自分の人生の中でほとんど絶望的なまでの虚しさを感じていたでしょう。神を信じることで、魂の飢えを満たされたのです。そうでなければ一切は「空の空」(1)だったでしょう。それはどんな成功を収めた人生であっても満たされない何かが残るのです。

 僕自身は神の存在を信じていますが、同時に恨んでもいます。また、感謝もしています。今は神がいなければ不安で仕方ありません。神を恨む気持ちと頼る気持ちが共存しているのです。僕自身は神は恨まれている方が良いとすら思います。ですが、神は常に我々のことだけを思いやってくださり、自分のためには何も求めていません。完全なる愛です。神を恨む気持ちがあるのは僕が未熟なためでしょう。神を賛美することも、理解できます。しかし、神は人間には計り知れない存在であり、我々が思う以上に偉大なお方でありましょう。

 最後に、この未熟な僕の拙文にいいねをくださった皆様に、この場を借りて感謝したいと思います。ありがとうございます。僕も神を信じる者としての道の途上にあるものです。神に完全なる感謝を念を持ち、その道を歩む先達がいることも理解しています。では、また、お会いしましょう。

 

(1)聖書 新改訳