神の意志は自分にとって都合の良いものではありません。むしろ、都合の悪いことであり、我々は、この世を貧しく生きるでしょう。キリスト教の信仰は、自分にとって利益があるから信じるという応報思想ではありません。ただ、例え、自分が不幸であっても、神の意志がこの世に表れることを願う宗教です。自分のためにではなく、神のために生きるのです。錆び付くことのない天の宝を積むと、神は、その人を成長させるために不幸を送ってきます。我々はこの世には歓迎されないでしょう。聖書では「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」(1)と言います。また、こうも続けます。「もしあなたがたがこの世のものであったなら世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(2)。

 不思議な聖句ですね。悪口を言われたら幸いであるとか、この世からは憎まれるとか、普通ならば遠慮したいことが書かれています。しかし、キリスト者は皆、キリストが味わった受難を受けなければならないのです。そうでなければキリストの弟子とは言えません。この世は煉獄の世界です。不幸を味わいながら浄化されていくのです。我々は神に背負わされた重荷を背負っていかなければいけません。しかし、それでも、幸福に生きれないわけではありません。人格が研磨され、鍛えられ、すべてのことに感謝出来るようになります。

 重要なことは感謝です。こんな自分に付き合ってくれて、ありがとう、と言えるようになります。周りの人々に対する感謝が生まれます。自分は誰よりも弱く、哀れで愚かであるという自覚が、感謝の気持ちに繋がります。トマス・ア・ケンピスは言います。「たとえ一人の上にでもおくとしたら、この上なくひどい害を受けよう」(3)。自分は下であり、周りの人間は自分よりも優れているという自覚が、あらゆる争いの種を刈り取る理性の鍬になるのです。自分は優れており、他人を見下して当たり前だ、という考えがあらゆる問題を作り出すのです。キリストは言いました。「心の貧しい人は幸いです」(4)。これも不思議な聖句ですね。豊かであった方が幸せなのではないかと思うのですが、キリストは、自分は欠けたものであり、何も持っていない、という人を幸せだと言うのです。

 運命は過酷です。しかし、我々は運命と受け入れて生きなければいけません。過酷であればあるほど良い人生です。セネカは言います。「神は善き者を甘やかしはしない。試練にかけ、強固にする。自身のために彼を調えているのだ」(5)。困難な運命は、神に見込みがあると認められた証なのです。キリスト者の運命は過酷です。しかし、人には恵まれます。人間関係は充実するのです。あらゆる仕事でも、初心を忘れなければ、うまくいきます。その仕事に慣れだし、人に対して敬意を忘れることで問題が発生するのです。いつでも、自分を下だと考え、従い、奉仕するのなら、人間関係で悩むことはなくなるでしょう。

 人間関係の充実ほど、人の幸福に貢献するものはありません。不幸や苦しみの中で人格が鍛えられていく中で、自我が小さくなり、空っぽの器になります。神は、この空いた容器に祝福を注ぎたもうのです。それまでは、色んな不純物が器の中に潜んでいるので、神が祝福を与えたくても与えられないのです。

 品性は、その人の容姿にも影響を与えます。神から愛された人は容姿も端麗でありましょう。しかし、そうでない場合もあります。ヒルティは言います。「人の外貌には、大体あまり重きをおいてはならない」(6)。しかし、こうも続けます。「人相も、性格によって良くも悪くもつくりあげられるものだ」(7)

 信仰者の生活はうまくいかないことばかりでありましょう。憎まれ、排斥され、心も貧しいでしょう。それでも、人との関係の中で愛を見つけることが出来ます。すべてに感謝して人に尽くすことが出来るようになります。また、人の痛みも分かり、その苦しみを分かち合うこともできるでしょう。そうして、最終的には神への感謝に変わるでしょう。苦しんだ全てに感謝して、神の愛を学ぶのです。そうでなければ、この世はあまりに愛が少なくなってしまうことでしょう。神の愛を通して、神が愛するものを愛することが出来るようになります。

 話が長くなってきました。また、次の機会に話そうと思います。このような拙文に、いいねをくれる人にこの場を借りてお礼をしたいと思います。ありがとうございます。僕はまだまだ未熟であり、物を書くには少し性急なのではないかと思っています。しかし、欠けたものがあるものとして、成長過程の中にある内に書き残しておこうと思ったのです。僕の最終結論は神への感謝ですが、僕はまだほど遠いところにいます。いつの日か、神よ、全てに感謝します、と言える日がくるまで待とうと思います。では、またお会いしましょう。

 

(1)聖書 新改訳

(2)聖書 新改訳

(3)トマス・ア・ケンピス 呉 茂一 永野藤夫訳 イミタチオ・クリスティ キリストにならいて

(4)聖書 新改訳

(5)セネカ 怒りについて 他二編

(6)ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 幸福論 第二部

(7)ヒルティ 草間平作・大和邦太郎訳 幸福論 第二部