「怨霊と呪術」その35
安倍晴明には「天皇の御子(皇子)」という暗号が隠されていた。安倍晴明を陰陽師として育てたのは、表向きは陰陽家の「賀茂氏」だが、実態は裏陰陽師である「鴨族」であった。空海がそうであったように、鴨族は晴明に預言者の眼鏡「ウリムとトンミム」を授けたという可能性が高い。が、その物的な証拠はどこにもない。ただ、「葛葉物語」に「金の箱」「竜宮の護符」「水晶のような白い玉」と出てくるのみで、あくまでも伝説である。だが、「安倍晴明物語」では、竜宮の竜王が同じ宝を晴明に授けている。
竜王は金の箱を取り出し、「これは竜王の秘符である。天地日月人間世界のすべての事がわかるようになる。名を揚げ、人々を助けよ」と告げて童子に渡した。さらに七宝の箱から一青丸を取り出し、童子の目と耳に入れた。 乙姫に伴われ童子が竜宮を辞去すると、1町も行かないうちに安倍野に出た。家に帰りついて、人の顔かたちを見ると、その人の過去・未来が心に浮かんでくる。さらに鳥や獣の鳴き声を聞くと、その意味が手に取るようにわかる。最初は訝しんだが、その原因が竜宮の薬にあることに思い当たった。 童子は家に籠もって、父の安名が吉備公から譲られた『簠簋内伝』を取り出し3年の間学んだ。さらに竜宮の秘符の修得に励み、ついには悟りを開き、世の中のあらゆる事象で知らぬことはなくなった。 安倍の童子鳥語を聞ける付晴明という名をたまわりし事。
こちらではさらに「七宝の箱から一青丸を取り出し、童子の目と耳に入れた」とあり、晴明は「人の過去・未来が心に浮かび、鳥や獣の鳴き声を聞くと、その意味が手に取るように理解できた」となっている。「白い玉」ではなく「青い玉」である。そして、「鳥語を聞ける」ようになったことで、「晴明」という名を賜ったというのだ。つまり、晴明という名を与えたのは「八咫烏」なのである。それも八咫烏の首領「金鵄=金烏」である。すると、やはり晴明には一時的にせよ「ウリムとトンミム」を与えられた可能性が高くなる。
それにしても、晴明の母・葛の葉はなぜ「白狐」として描かれたのだろうか。そして、晴明の本当の父親とはいったい誰なのか。特別な能力を手に入れたことで与えられた「晴明」という名は、やはり「生命」という暗号だったのだろうか。
◆晴明の出自
晴明の出身地については諸説ある。大きく分けて3つの説がある。
1. 大阪説
2. 讃岐説
3. 茨城説
この中で最も有力なものとされているのは、「大阪説」である。
大阪阿倍野の「安倍晴明神社」の境内の一角には、晴明の誕生伝承地と、晴明の産湯の跡が残されている。晴明は延喜21年(921)に誕生、寛弘2年(1005)9月に85歳で没したとされる。安倍晴明神社は寛弘4年(1007)に創建されたと伝えられ、寛政8年(1796)の『摂津名所図会』には、ここは昔からの名所で、晴明誕生地と記した石碑や、産湯をつかった井戸、母の葛の葉狐を祀る稲荷社などがあり、安産を願う人々が大勢参拝に訪れていたと描かれている。また、大阪府和泉市に「葛の葉町」もあるため、大阪が生誕地の候補の一つとして知られている。
「安倍晴明神社」の晴明象ときつね
「安倍晴明神社」では、神社の縁起として、「『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされています」とし、以下の晴明伝説を伝えている。
「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。」
狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになるのです。晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っています。安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。
「金」の玉を加えた安倍晴明神社の白狐
「安倍晴明神社」は小さな社である。お世辞にも立派な神社とはいい難い。この「安倍晴明神社」を管轄する神社がすぐ近くの同じ阿倍野にある「阿倍王子神社」である。もう名称自体に「王子(皇子)」が入っている。ここは、「摂州東成郡阿倍権現縁記」(せっしゅうひがしなりぐんあべごんげんえんぎ)によると、仁徳天皇によって創建されたという。もう、この時点で神話である。なんで仁徳天皇が神社を創建するのか。が、そこには何か隠された意味があるはずだ。阿倍王子神社では、以下のように説明している。
「王子」とは和歌山県の熊野大社の末社という意味で、京都から摂津、和泉を経て熊野に至る街道の途中に、休憩と遥拝のために設けられたお宮です。それぞれ土地の名前をつけて「○○王子」と呼ばれました。厄除け、無病息災、病気平癒、家内安全、事業繁栄などが、主な信仰です。また、境内の御烏社に祀られた願掛け御烏のあらゆる願いごとは、熊野の本社に取り次がれています。
なんと王子で「烏:カラス」を祀っているのだ。そして、烏に願掛けすれば熊野大社に取り次がれるというのだ。すると、王子の「王」とはスサノオ命とということになる。また八王子の話に戻ったような気分だが、実はここ「阿倍王子神社」は、可愛い「八咫烏」のおみくじが人気の神社である。安倍晴明と八咫烏は一心同体なのである!! 安倍晴明は熊野と京都を「王子」という道で繋げている象徴であり、天皇を守護する存在だったのである。だからこそ、熊野で天皇を護った逸話が残されているのである。
さらに「阿倍王子神社」では、神社の縁起として、以下の話を伝えている。
平安時代の初期、天長3年(826)、弘法大師空海が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈祷を修して功なり、疫病を治癒する寺という意味の「痾免寺」(あめんでら)(通阿倍:つうあべ)の勅額を朝廷より賜わったとされています。
なんと「阿倍王子神社」は、安倍晴明が誕生する遥か前に空海とつながっていたのである!! 「勅額」(ちょくがく)とは、皇帝・天皇などの為政者が国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のことだが、空海はここを「痾免寺:あめんでら」と名付けているのである。「痾」の読みは、音が「ア」で訓が「やまい」である。「疒」+「阿」で、意味は「やまい。ながわずらい。こじれて長びいている病気」のことある。「そして、疫病「痾」を「免ずる=取り除く」ことを「あめん」と呼んでいる。
「アメン」とは「アーメン」のことである!!「アーメン」は、英語では「 amen(エイメン)」だが、ヘブライ語では「 אָמֵן(ティベリア式発音: āmēn アーメーン、現代音: amen アメン)」である。キリスト教で、祈り・賛美歌などの最後に唱える言葉で、ヘブライ語の意味は「本当に」「まことにそうです」「然り」「そうありますように」である。が、梵語(サンスクリット語)では、「あうん(阿吽・阿呍)」のこと。つまり、「万物の初めと終わり」「出す息と吸う息、息の出入り」のことである。
あ‐うんの「阿」は口を開いて出す音声、「吽」は口を閉じて出す音声で、 梵字の12字母の、初めにある「阿」と終わりにある「吽」で、密教では「阿吽」の2字を万物の初めと終わりを象徴するものとし、菩提心と涅槃 (ねはん) などに当てる。そして、「始まりであり終わりである」といったのはヤハウェでありイエス・キリストだ。さらに「阿」の中の「可」の字は「許す」の意味をもち、人類の罪を許した神は「アルファにしてオメガ」と言っていたイエス・キリストであり、空海が説いた「大日如来」とはもちろんイエス・キリストのことである。
貞観5年(863)の春に咳逆病が流行り、百姓が多くたおれ、朝廷は神泉苑で初めて国家的な御霊会を行ったのが「祇園御霊会(祇園祭)」の始まりだが、空海はそれより先に淳和天皇の勅命で阿倍王子神社に参り、疫難退散の祈祷を成功させているのである。つまり、平安京で最初の「疫病封じ」を行ったのは空海なのである。なにせ天長二年(826)、つまり最初の「御霊会」の約40年前に行っていたのである!!
全国的に疫病か流行した際、空海が一千部の薬師経を読経し、一石に一字を書写して祈ったところ疫病がやみ「痾免寺」の勅号と勅額を受けたとある。この痾免寺は「阿倍王子神社」の神宮寺として、今も「印山寺」(いんざんじ)と改称しその法灯が継がれているが、問題はなんで「痾免寺(あめんてら)」が「通阿倍:つうあべ」なのか、ということだ。「通阿倍」とは「阿倍に通ずる」ということである。だとすると、「痾免=阿倍」という意味となり、「阿倍=あめん=アーメン」であり、且つ「阿部=疫病痾を取り除く」ということを示していることとなる。
すると、阿部が後に「安倍」となり、その安倍を姓にもつ安倍晴明とは、空海の跡を継いで平安京の疫病を封じるために育てられた陰陽師であり、「阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子と名付けました」という伝説が告げているのは、平安京を疫病から護る「守り神」という意味で名付けられた、ということを伝えているのだ!! 「祇園御霊会(祇園祭)」が始められた神泉苑では、「御霊会」は、「平安時代、疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。 この災いは、無実の罪を着せられ亡くなった御霊によるものと考えられていました。 民衆は御霊を鎮め災厄を祓うために、仏事を行ったり、 歌舞や騎射、相撲、走馬などを行い、この御霊会のしきたりは畿内から諸国に広がっていきました」と伝えている。
「無実の罪」で亡くなり、「御霊」となったのは、イエス・キリストである!!
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
(「ルカによる福音書」23章39-41節)
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
(「ルカによる福音書」23章44-46節)
「平安京=極東エルサレム」の支配者たちが恐れたのは、イエス・キリストの怨霊なのである。自分たちが十字架にかけて殺してしまった神の怨霊が、平安京に疫病を流行らせ、富士山の噴火や貞観大地震など全国的な災害が起きるのもまた、自分たちの神の怒りによって起こされるものだと考えたのである。だからこそ正月に個々の家々に訪問する「歳神」に「お屠蘇」(屠られて蘇った神)を振る舞うのである。自分たちの家に禍いをもたらさないで欲しいと願って。
<つづく>