「怨霊と呪術」その1

 

 夏お定番といえば「幽霊」だ。昭和の時代、夏のTV番組の風物詩といえば「幽霊モノ」だった。「番町皿屋敷」や「四谷怪談」などの「うらめしや〜」という女性の幽霊が登場する映画が放送され、子どもたちはビビったり真似たりしていた。稲川淳二の「怪談」が深夜に放送され、突然「ガタンッ!」という音がスタジオから流れると、「怨霊のしわざだ」という話しになった。

 

 中には青森県の「恐山」からの生中継番組があり、2時間も放送して幽霊が登場しないため、番組のエンディングで「なんだあれは?!」と誰かの大声がして、カメラが急にパンすると、そこにはなにやら白い物体がチラッっと映って番組終了!というものもあった。この大声の主は放送作家だった景山民夫氏である。なにせ民放は視聴率を稼がないといけない。よって無理やりオバケにキューを出すという前代未聞の番組となった(笑)、と後日談を語っていた。

 

 

 日本は「オカルト」が大好きである。なにせ世界に冠たるオカルト国家だからだ。よってTVも書籍も「オカルトもの」がずっと愛されてきた。半分は怖いもの見たさという興味本意で、この手の人が一番危険である。映像や画像が脳に与えるインパクトはとてつもなく大きく、影響力は巨大だが、それを発信するメディア側の人間というのは、いつも無責任だからだ。その代表が芸人たちがプレゼンするエンタメ系オカルトTV番組で、「信じるか信じないかはあなた次第」という無責任な態度が「オカルト=都市伝説」にしてしまっている。

 

 オカルトTV番組とは、そもそもどのような内容の番組を指すのか。昭和も平成も構造は同じで、簡単にいえば「月刊ムー」の特集のテーマがローテーションされているのと一緒で、「幽霊もの:心霊・怪奇・超常現象、霊能力(者)」「UFO:未確認飛行物体」「超能力」「ネッシーと雪男(UMA)」で、TV東京だけが「フリーメーソン」と「都市伝説」を加えた形で広がってきた。但し、70年代から90年代には、はここに「予言:ノストラダムスの大予言」があったが、1999年7月が過ぎたら「何も起こらなかった」として忘れ去っている。

 

 

 海外では今もノストラダムスの予言は研究が進んでいる。欧米のキリスト教国家では、ノストラダムスの大予言は「聖書」が元になっているということを理解しているからで、そこには「終末」が関わっていると理解しているからだ。が、日本では今やマニアックな人間以外は「都市伝説?」程度の扱いとなっている。TVという受像機を通して流れるオカルト情報は全て「都市伝説」で片付けられてしまい、実際は単なる都市伝説の話しをリアルだと勘違いしている人達が物凄く多い。こういう人達を海外から見ると「カルト」として映るのだ。

 

 これまで何度も書いてきたが、「オカルト」とは「隠された叡智」のことで、カルトではない。ここを履き違えている人が圧倒的に多く、そういう人に限って自分がカルトだということに気づいていない。カルト宗教や呪術については過去の連載でも触れてきたが、今回は「怨霊と呪術」というテーマで書いてみる。よって前回の連載のさらに奥にも踏み込むこととなる。

 

◆「霊」とは何か? 

 

 「幽霊」といえば、なんといっても「怨霊」だ。が、怨霊をなめるととんでもないこととなる。TVのヤラセのオカルト番組の話しではない。全ての幽霊が悪い存在ではない。この世に執着が強い人間の霊はあの世にいけない。だから人間に憑依したり、幽霊が集まりやすい静かな場所に集まっていたりする。もの静かな幽霊は、喧騒を嫌い、静かな場所に集まるが、そこにドカドカと照明つけてバカなTVクルーがやってくるから邪魔をしたりする。「俺の家に入るな!」と言わんがばかりに。

 

 つまり、過去は人間だった幽霊の意識は、幽霊になっても変わらないということだ。但し、この場合の幽霊というのは、この世にまだ残っている、漂っている存在のことで、「あの世」にいけない元・人間の霊体ということである。よって、人間だった時に他人に強い「怨み」や「憎悪」を持ったまま死んだ人間の意識は、死んでからも変わらない。よって憎むべき人間に憑依したり、その人間の意識を乗っ取ることもある。こうした憑依霊を取り除けるのは力のある霊能者か陰陽師しかいない。

 

 

 日本人は古代よりずっと「怨霊」を恐れてきた。だが、怖いのは人間も同じで、怨霊となるのはあくまでも人間であり、怨霊を作り出すのもまた人間である。誰かを自分の利益のために殺したりすることで、殺された人間が「怨霊」になるからだ。そして自分勝手に怨霊を恐れるというのが、これまた人間が始末に負えない点である。だが、怨霊が跋扈すると、人間に死をもたらすため、人間は呪術の力で怨霊を封じ込めたり、消してきた。

 

 昔のTVに出てきた霊能力者は、霊と「対話」した。その霊の可哀想な話しに耳を傾けて、「どうかあの世に旅立って下さい」と懇願して消えてもらうというのが「除霊」のスタイルだが、陰陽師は違う。陰陽師は有無を言わさずに「消して」しまうからだ。なぜかというと、いちいち霊の話しなどを聞いているのは「非効率だから」だという。案件が次々に舞い込んでくるから、霊の昔話なんかに付き合っていられないそうだ。

 

 

 さらに霊が人間の場合なら、まだ対話もできるが、動物霊とは対話はできない。なにせ人間じゃなかったからで、共通言語をもたないからだ。よって、すぐに除霊してしまうという。TVに登場してきた霊能者が、動物霊と対話をするシーンなどが昔は放送されたが、それは波動を感じるだけで、対話をしているのではない。動物霊は元・動物であって、人間ではない。もともと喋っていたのではないのだから、会話が成立するはずがない。だが、TV的には「話しができる」という設定じゃないといけないため、「可哀想な動物霊」というストーリーが必要なのである。

 

 よって、動物霊と話しができるなどという霊能者の言説を信じてはいけない。霊能者もダマサれるからだ。中露半端な霊能者は、いかにも「動物霊」と思わせる存在や、自称「幽霊」という存在にダマサれることがある。よって鵜呑みにしてはいけない。実はここに「オカルト」が関係してくる。

 

 「オカルト」とは魔術である。魔術は他力本願である。肉眼では見えない存在の力を借りて現象を引き起こす。特に寝ている人間が浮いたり、モノが飛んだり、ガチャガチャ音をたてたり、さらに人間を狂わせたり呪い殺したりといった物理的な超常現象を引き起こすときには、儀式が必要になる。それは霊的な存在との契約である。現象を起こすのは、あくまでも霊なのだ。従って「霊とは何か」ということを明らかにしなければ、オカルトの本質は理解できないのである。

 

 

 霊が引き起こす物理的な超常現象のことを「ポルターガイスト」と呼ぶ。ドイツ語で「騒々しい幽霊」という意味である。幽霊とは、一般に死んだ人の霊、つまり死霊、もしくは亡霊のことだと考えられている。筆者がまだ小学生だった70年代には、海外の恐ろしい映画が色々と作られていた。特に『エクソシスト』『ヘルハウス』『オードリーローズ』『サスペリア』『キャリー』といった映画は、小学生が見るにはインパクトが強すぎた(笑)。そして、そこには必ず「ポルターガイスト現象」が描かれていた。

 

 なかでも、1974年の7月に公開された『エクソシスト』、9月に公開された『ヘルハウス』は強烈だった。『エクソシスト』は有楽町で観て、『ヘルハウス』は渋谷の映画館だったと思う。『ヘルハウス』(原題:The Legend of Hell House)は、1973年制作のイギリス・アメリカのホラー映画で、リチャード・マシスン原作のホラー小説「地獄の家」(Hell House)を映画化したものだ。この映画の舞台となった屋敷は、本当に幽霊が出る大邸宅で、映画撮影終了後に監督だか関係者が死んでいた。

 

 

 『ヘルハウス』はかなりリアルな描写で心霊現象を描き通したオカルト映画の秀作だ。この「オカルト映画」という呼ばれ方が発生したのは『エクソシスト』以降である。少女リーガんに取り憑いた悪霊パズズとカソリックの神父の対決を描いて、世界的な大ヒットとなったこの作品は、“オカルト映画ブーム”のまさに立役者となった。

 

 『ヘルハウス』は結構地味な映画だったが逆に怖かった。『エクソシスト』は観た後にずっと脳裏に刻まれた。特に主人公のリーガんの首が360°回るシーンは強烈で、最もインパクトのあるホラー映画だ。アメリカのワシントンを舞台にした映画で、実際に起きた話しである。そしてそのタイトルにもあるように、この映画は「悪魔祓い」の映画である。ここは海外のホラー映画と日本のホラー映画の大きな違いである。簡単にいえば、それは「キリスト教」と「神道・仏教」の違いである。

 

 

 日本の怪奇映画(昔はこう呼んだ)は「幽霊」が基本である。怨みを持った幽霊が人間に復習するというものが多いが、海外の場合は「神と悪魔」という概念がベースにあるため、結局、人間に害を及ぼすのは「悪魔」という結論になる映画が多いのはこのためだ。幽霊とは、一般に死んだ人の霊、死霊、もしくは亡霊のことだと考えられているが、はたして、それは正しいのだろうか。死んだ人の霊になりすましている存在がいるとしたら、どうだろう。

 

 イギリスの小説家コリン・ウィルソンは、その博覧強記な才能によって、殺人、オカルト、心理学などを独自の思想から論じ、自身ではこれを「新実存主義」と呼んでいた。SF小説や警察小説なども執筆しているが、『現代殺人の解剖』では、ニーチェやドストエフスキーの『悪霊』などを論じて意志の麻痺を語り、無動機殺人の背景に何らかの動機を見て取るという、迫力ある論考を展開している。さらに1971年、コリン・ウィルソンは出版社の依頼で『オカルト』を発表している。

 

 

 「オカルト」ブームの発端の一人がこのコリン・ウィルソンである。この時期のウィルソンは宗教や心理学には強い関心を抱いていたが、オカルティズムに対しては懐疑的だったという。しかし、数々の霊現象を調査する過程で、死者になりすました「魔物」の存在を確認したという。ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教の世界観において、「魔物」とは悪魔であり、堕天使のことである。創造神に反抗し、地獄へ落とされた天使である。

 

 悪魔は肉体をもたない。肉体を持っている人間に嫉妬している。人間は死ぬが、霊は残る。やがて、この世の終わり、死んだ人間の魂は再び肉体を得る。「復活」である。不死不滅の復活体となって甦る。これを身をもって示したのがイエス・キリストである。悪魔は永遠に肉体はおろか、復活体になることもできない。

 

 

 強烈な嫉妬と妬みをもった悪魔は人間を不幸にしようと画策する。自分たちと同じ境遇にするために、人間を騙し、闇に落とす。そのために、あらゆる手段を使う。超常現象はと、まさに悪魔の常套手段なのである。肉体はないが、物体を動かしたり、消滅させ、テレポートさせることができる。どんな姿にもなれる。肉体はないが、霊体が物質化するのである。その際、元の霊体とは別の姿になることができるのだ。

 

 問題は、ここである。交通事故が起こり、そこで人が亡くなったとしよう。事故現場には夜な夜な幽霊が現れるという噂が立つ。多くの人は、そこで現れる幽霊は交通事故で亡くなった方の亡霊だと思うにちがいない。霊能者も、そう見立てるだろう。実際、亡くなった人とそっくり同じ姿で幽霊は現れるのだ。誰しもが、死んだ人の幽霊だと納得してしまう。

 

 しかし、本当にそうなのだろうか。あなたが同じ境遇で亡くなったとして、いつまでも事故現場にいるだろうか。幽霊となった人を怖がらせ、また同じ境遇に遭わせようとするだろうか。どこか変なのだ。

 

 

 幽霊が現れることで、多くの場合、人は不幸になる。幽霊を怖がるのは、本能的にそれを知っているからだ。もちろん、幸せになる人もいるが、そうならないのは、幽霊の正体が魔物だからだ。魔物が生きた人間を闇に引きずりおろそうとしているからなのだ。オカルトは危険である。その理由は、魔物の存在にある。

 

 オカルトは魔物を引き寄せ、人間を不幸にする危険性を持っているのだ。よって、興味本位で近づいたり、不用意に魔術を行ってはいけないと警告されるのは、そのためなのである。霊能者といえど騙される。霊能者が見えているもの、感じているものが、必ずしも死者や精霊、天使、神様であるとは限らない。そのほんどは悪魔だ。悪魔がなりすましているのである!!

 

<つづく>