「日本」を封印した「聖徳太子」その32
「雨だれが穴を開けるべき地面の石に穴が開かない」という法隆寺の不思議の一つは、当初は何のことやらさっぱり検討がつかなかった。なにせ、出てくる漢字が全く怪しくなかったからだが、こうしたところに「落とし穴」があるものなのだ。なにせ相手は人類を創生した絶対神である。バカな人類であっても、ちゃんとヒントはくれるものなのだが、解読しようにもそのヒントすら思いつかなかった。
しかし、やはりヒントは漢字の中に隠されていた。まさかそれが「雨垂れ」などとは思ってもみなかったが。
⑤:雨だれが穴を開けるべき地面の石に穴が開かない
「雨だれ」は「雨垂れ」と書き、 感嘆符「!」を意味し、「怒り、危険、注意、重要、終止符」の意味が込められていた。そして「垂」の漢字は磔刑の十字架に掛けられたイエス・キリストと2人の罪人の姿を象徴していたのだ。さらに「雨」は「契約の箱アーク」をも意味することで、絶対神ヤハウェを象徴する字だということが判明した。よって「雨」+「垂れ」で、「地上に現人神として降臨したヤハウェ=イエス・キリストは磔刑で死んだ」の意味となる。
「雨」は「あめ・あま」と読み、「あま」は「天」のことである。雨は天から降ってくるからだが、ここにも暗号が隠されている。これまでの連載でも書いてきたが、「天」という字の正式な書き方は「工+人」で「大工」を意味し、「大工」はイエス・キリストの職業でもあり、大工の祖・聖徳太子のことでもある。もちろん地上に神の王国を作る「大工」の集まりであるフリーメーソンの象徴でもある。要は「雨」=「天」で「ヤハウェとイエス・キリストは同一神」という暗号なのである。
そこで、もう一度「雨だれが穴を開けるべき地面の石に穴が開かない」の意味を考えてみると、「雨だれが穴を開ける」とは、「雨垂れ」=イエス・キリストが磔刑で亡くなることが「穴を開ける」こととなる。「穴」の字は象形で、「横あな式の住居の入り口の形にかたどり、“あな”の意を表す」とある。つまり、イエスが葬られた横穴式の岩屋の入り口=「扉」を表すことで、「穴を開ける」とは「扉を開ける」=「イエスが扉を開けて復活する」ことを意味する。
そのイエスが復活するべき「地面の石に穴が開かない」ということは何を意味するか。「地面」はひらがなでは「じめん」と書くが、本来は「ぢめん」のはずである。だが、「常用漢字表」に「地」の音として「チ」「ジ」が載っているように、「チ」も「ジ」も元から「地」という漢字に存在する音で、この「ジ」は「はなぢ(鼻血)」などのように「チ」が他の語に続いたために濁ったものではない。したがって、「地面」は「じめん」、「布地」は「ぬのじ」でいいとなるのだが、これは「地」が「チ」でも「し」でも同じであることを言っている。つまり同音異義語でいえば、「血」でもあり「死」でもあるとなる。
「地」の字は「土+也」で、「土の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「蛇」の象形である(「うねうねしたさま」を表すこと)から、「うねうねと連なる土地」を意味する「地」という漢字が成り立った、とされているが、「柱状に固めた土」とはそのまま「柱」で「主の木」=「神」を表し、「蛇」は蛇神=天照大神=イエス・キリストとなる。つまり「地」という字自体がイエス・キリストを表しているのだ。なぜならこの地上を作ったのは創世神ヤハウェであり、すなわちイエス・キリストだからだ。
そのヤハウェ=イエス・キリストの「面」で「地面」となるが、「面」は「めん・つら・おもて」で「顔」のことである。「面」の意義は「顔、顔を向ける」「おもて」「ひろがり」「側」であり、その字源には「首を囲むもの。象形、仮面から目がのぞいている様を象る」とある。つまり絶対神の目が覗いている様子を表す字なのである。
「面」の古字=「目」が覗く様
さらに「面」の異体字は「麵」「麺」である。ラーメンや焼きそばの「麺」のことだが、「麵」の字源は「夂(=足)」+「來(来)」。「來」は麦の穂を象ったもので、それが西方からもたらされたことを意味。「來」と「麥」は元来意味が逆であり入れ替わったものという。「來(来)」の字は、これまた十字架の左右に「人」がいることで磔刑に2人とともに十字架に掛けられたイエス・キリストとなり、それが「西方から来た」と言っているのである。
そこに「夂(=足)」が付くことで、「イエス・キリストは現人神として日本に渡来した」という意味となり、「面」で「顔をさらした」ということになる。しかし、お能の場合は「面」を「おもて」と読むが、それは「面=能面」はあくまで「表:おもて」であって、その正体は「裏=面」の下に隠されていますよ、と告げているのである。「能は」イエスの磔刑死と復活までを伝える芸であり、能舞台の入り口の裏には「鏡の間」があり、そこで「面」をつけるのである。つまり能でいえば「面」をとった顔が本当の神の顔=面(おもて)であるという意味なのだ。
「能面」の「泥目」
つまりこうだ。「地面」という字は、「現人神として日本に渡来したイエス・キリストの顔は隠した」=「聖徳太子として隠した」と言っているのである。聖書文字「漢字」恐るべしである。
◆「地面の石に穴が開かない」とは「預言」である
残るは「地面の石に穴が開かない」の「石」だが、白川静氏の『常用字解』によれば、「石」は会意で「厂と口とを組み合わせた形。厂は山の崖の形。口はᄇで、祝詞を入れる器の形。大きな岩石の類は神霊の宿るところとして祭祀の対象とされることが多かったから、石とは祝詞を入れた器を供えて祭られる大きな“いし、いわ” をいう」となっている。
この解説に従えば、「石」はシナイ山の崖の元で、モーセがヤハウェに祝詞を捧げた器、と解釈できるが、シナイ山でそのような器を使った形跡は旧約聖書からは読み取れない。だが、これがヤハウェがモーセに与えた「祝詞の石」としたのならば、それは「十戒の石板」を示すことになる。フリーメーソンが「石工」と呼ばれる意味は、古代の石造建築に携わったからであるが、古代の建造物であってももちろん石だけで作られたわけではなく、木やその他の装飾物も含まれており、よってイエスの出現以降は「大工」となり、「現人神の大工」に表現を変えている。
「十戒の石板」(イメージ)
さて、その「石」に「穴が開かない」のである。「穴が開かない」とは「イエス復活の扉が開かない」と言っているのだ。つまり、「雨だれが穴を開けるべき地面の石に穴が開かない」の意味をまとめると以下のようになる。
「日本という国に聖徳太子として封印された現人神イエス・キリストの正体(面)と、イエスが日本に再臨する(復活=岩屋の扉が開く)という秘密は、絶対神ヤハウェ(イエスの怒る霊=荒御魂)が岩屋の中から目が覗かせる(荒ぶる神として顕現=表に現れて)日本に終止符を打つ時まで、十戒の石板(が日本にあるという)の秘密も開かされない」
「雨だれ」とは「!」で「終止符」の意味を持つ。つまり、雨=ヤハウェ=荒ぶる神が日本に終止符を打つという暗号なのである。そして「十戒の石板」は2枚からなる「合わせ鏡」である。表(=面=1枚)を開けないと中身は分からないのである。「穴」は岩屋の扉の象徴でもあるが、「天」の象徴でもある。なぜなら、「穴」(あなかんむり」の下に「工」=イエスがつけば「空」となり、「穴」の下に「ム+心」がつけば「窓」となり、「ム=私は有る」のヤハウェとなる。そして「雨」が降ってくるのは「天」からであり、「雨」はヤハウェを表すことから、イエスが天から降りて来る=再臨することとなる。だが、それは和御魂のイエスではなく、終わらせにやって来る荒御魂としてである。
さらに言ってしまえば、「十戒の石板」は「契約の箱アーク」と磔刑の「聖十字架」とともに、伊勢内宮の地下殿に祀られている。その地下の宮に入れるのはレビ族の天皇と伊勢神宮の神官しか入れず、18弁の菊の紋が刻まれた扉の向こうに秘されているという。もちろん、それは日本国最大の秘密であり、世界最大の秘密でもある。
「伊勢内宮」の正式名称は地名を冠しない「神宮」であり、別の呼び名は「五十鈴宮」(いすずのみや)である。その意味は「イエズスの宮」のことで、十字架、アーク、十戒の石板、星釘といった聖遺物とともにイエス・キリストが祀られている。そして「外宮」に祀られているのがヤハウェと「マナの壺」、そして青銅の蛇が巻き付いたモーセの十字架である。よって伊勢神宮の正式参拝は外宮から内宮へと参拝するのが基本である。だが、隠された伊勢本宮は志摩市磯部町にある「伊雑宮」(いざわのみや)で、その正式名は「伊雜宮」と書く。
「雜」という字は「亠」(なべぶた・けいさんかんむり)に「人+人」に「木」である。2人ということはイエスと一緒に磔刑にされた「罪人」たちが木=十字架にかけられたことを示す。「亠」は「ヤハウェ」を表す「ヨッド」に「一」で、部首である「隹」(ふるとり)は古い鳥=ヤハウェで、イエスが登場しないのである。なぜなのか。それは「伊雜宮」に祀られているのは「天照大御神の御魂」であり、天照大御神=イエス・キリストではないのだ。「御魂」とは「御霊」のことで、霊の姿だったヤハウェのことなのである。
さらに「伊雜宮」に祀られている御神体は「天照大御神の首」である。首とは「顔」のことで、「面」ということである。人間の存在を認識するのは「顔」であり「名前」である。「伊雜宮」の御神体とは「神の名」であり、イエス・キリストが磔刑にされた時に、十字架の上に掲げられた「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれた「罪状板」(聖罪状板、十字架の銘板)のことである。この板にイエスの顔(面)たる「神の名」が記されているのである。
『十字架の銘板』(ジェームズ・ティソ画)
『ヨハネによる福音書』(19章19–20節)では、イエスの罪状書きがその十字架に掲げられた経緯を次のように説明している。
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
内宮には「聖十字架」が立てられ、外宮には「モーセの十字架」が立てられている。よって、伊雑宮にも「十字架」に相当する「木=柱」が立てられなければならない。それは熱田神宮に祀られている「草薙の剣」であり、「草薙の剣」が伊雑宮に立てられたとき、伊雑宮は「伊勢本宮」として復活、罪状板は内宮の「聖十字架」に掲げられる。その時こそ、イエスが復活、日本に再臨することになるのである!
だからこそ「伊雑宮」の正式名は「伊雜宮」となっており、草薙の剣=柱がないからなのだ。「雜」の新字体「雑」は「九+木」で「九の鳥」とは「鳩」でイエス・キリストを象徴しており、さらに「雜」の異構字「襍」は「示+集」で「神が集まる」と書くことで、「霊神ヤハウェ」と「現人神イエス」が一つとなる暗示である。「集」は「隹+木」でヤハウェの木、それに「示=神」がつくことで、荒御魂と和御魂が一つになることを示すのである。
まさか法隆寺の謎解きから伊勢本宮へと飛ぶとは予想もしていなかった。だが、聖徳太子はイエス・キリストで天照大御神なのだ。全ての封印の仕掛けは、鍵があればすべて開くということである。
<つづく>