こんにちは。
今回は私が主イエスへの信仰生活をしている上でその都度その都度気をつけていることについて書きます。
まずは気をつけると言うからには気をつけるべき規則があります。冒頭に「主イエスへの信仰生活」と書いてますとおり、私が従っている規則というのは主イエスを証ししている書物、聖書です。以下の聖句のとおりです。
ヨハネによる福音書 五章三十九節 (ミカエル氏訳)
聖書は我(主イエス)について証言しとる。
引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」
※括弧書きは私によるものです。
この聖書という書物に、我々全ての人間が本来従うべき規則が書かれているのです。その規則とは神(主イエス)の律法、掟、戒めです。ここで「その規則や、それが書かれてる聖書が信用に値する正しい書物かなんて分からんのに信じれるわけないやろ」なんて声が聞こえてきそうなんで、そういった方は、「真の聖書福音と預言」という聖書にのみ依拠したブログを約九年も前から、全ての人に無償で公開されているミカエル氏が作成された過去動画、「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」をご覧になってください。これは私だけかもしれませんが、動画の画面に字幕も付けてくださってますので、字を目で追いながら耳でも聞くとより一層頭に、心に内容が深く刻まれると実感しています。もちろん何か作業をしながら音声を聞くのも良いと思います。何度も何度も繰り返し聞くことで深く刻まれていきます。そして更に、まだ信じることが出来ないという方は、時間は掛かりますがミカエル氏が述べておられることと、聖書の内容とにズレがないか(聖書にのみ依拠しているか)をご自身で熟読して確認してみてください。これでもまだ信用出来ないのであれば、私にはこれ以上あなたに何も伝えられることはありません。皮肉な言い方にはなりますが、たった一度きりの残りの死ぬまでの人生をこの世の支配者、権力者、政治家、大富豪らに騙され続けて生きていってください。私は性格上、尊敬出来ない者に従ったり、嘘に騙されているのが物凄く嫌なので自分で調べて、自分で気付いて、自分で確信した上で聖書を読み、主イエスを信仰し、ミカエル氏のブログから学び、信仰生活を送るという行いをしています(神が聖書を読むことに招いてくださったからこそであり、選ばれるかどうかは今後の私次第です)。
では、普段の信仰生活でどのようなことに気をつけているかと言いますと、我々人間が生きているこの世俗で当たり前になっている習慣の中で聖書にある神(主イエス)の律法、掟、戒めに反していたり、主イエスを模範として生きるキリスト者として相応しくない言動(言葉と行い)です。この言動の中でも毎日のように犯してしまっているのがカタカナ英語を用いるということです。このブログやツイッターといったSNSでの文字を打つ投稿ではカタカナ英語を意識して避けることがまだ出来やすいですが、普段の日常の会話で今の私の段階ではついついカタカナ英語を話してしまっています。その多くは言い出した時に気付いて言い直したり、口に出す直前に気付いて頭の中で日本語に変換してから口に出すようにしています。しかし、会話の中で無意識にカタカナ英語を言ってしまっている時もまだまだあるのやろうと思っています。特に日常生活で思いつく言ってしまいがちなものとしてレベル(水準、段階、程度)、オッケー(分かった、大丈夫)、トイレ(厠、便所、手洗い)、スイッチ(電源)、スーパー(商店)、ライト(電気、明かり)、エアコン(空調)、シートベルト(安全帯)、パワー(力、威力)、チケット(券、切符)等があります(()内は日本語で対応する言い方を書いています)。これらは特に日本語とカタカナ英語とを比べても文字数と発語数共に大きな差異は無く、日本語で言い換えても長くはなりませんし日本語で意味も伝わります。難しいのがエレベーター、エスカレーター、エンジン等でしょうか。エレベーターは昇降機、エスカレーターは自動階段、エンジンは発動機と日本語で訳すとこうなりますが、話していて相手に伝わりにくいです。このようなカタカナ英語のみで認識されている伝わりにくい単語については、「あっちの昇降機‥エレベーター乗って行こか」や「車の発動機‥エンジンかけといて」といった具合に言うようにすると相手にも伝わり、かつ相手にも「こいつ何で日本語で言うんやろ」と疑問に思ってもらうことが出来、無意識から有意識へと相手を変えることが出来るかもしれません。この相手に気付かせることには大きな意味があると思っています。なぜなら、新たに聖書を読んでみようと興味を持ち始めている方や真のキリスト者を目指している方々ならご存じの通り、この世は嘘で覆い尽くされ、日本人が洋服を着てカタカナ英語を話すのが当たり前にされているからです。この当たり前が実はこの世の支配者たちによって作り出されたもの(支配構造)で、それに従わされているということに気付いてもらうことに繋がる可能性があります。なので「何で最初、日本語で言ったんや」と聞かれた場合には、「異邦人の道に行ったらあかん」(マタイによる福音書 十章五節 ミカエル氏訳)と聖書にあるからと説明すると良い伝道の機会にもなると思います。大概は「ああ、そうなんや」だけで終わるかと思いますが、「それってどういうことなん」と相手が興味を持ってくれた場合には、日本人の一部(約四割)が実は古代イスラエル民族の末裔で聖書に登場する神の民である旨を伝えると良いと思います。その際、ミカエル氏の過去動画「動画八回目投稿 日本はイスラエルである」が大変参考になります。興味をこちらに傾けてくれている時は諺で言うならば、「鉄は熱いうちに打て」の「熱い鉄」の状態です。こんな時にこそミカエル氏の記事を見てもらうことがとても有効なので迅速に紹介することが重要やと考えます。この現象がネットを介しても起きて欲しいと思っているので、ツイッターへの投稿時に私はカタカナ英語を避けて書いたと分かる様に、例えば「倫理観(モラル)」といった風に書き、興味を持って投稿を寄せられた方にはミカエル氏の記事を紹介するようにしています。
また、カタカナ英語と同様に異邦人の道となる習慣で気をつけていることは食事です。上述のとおり古代イスラエルの民が移り住んで来たここ日本での伝統的な食事は和食です。しかし現在では洋食や中華料理も日常的に食べられるようになり、食事面でも異邦人の道に進んでいると言えます。洋食も洋服と同時期、文明開化と言われている明治の頃より広まった悪い習慣の一つです。文明開化と言えば良い響きに聞こえますが、その実は日本文化喪失の始まりであり、日本人が自ら日本人らしさを手放し始めた時期です。
外国人から自国の文化や言語や服装を変えられるのは侵略行為と知り、抵抗せなあかん。しかし、愚かな現代日本人はそれに気付かず、抵抗もせずに受け入れ、今や滅亡寸前の状態になってる。戦後、それまで多くあった和服店は洋服店に客を奪われて廃業が増えて激減し、今では時代劇、落語、能、歌舞伎等とごく限られた場面でしか着られへんようになってしもた。誰が和服を廃れさせたのか。他でもない日本人自身や。戦後、多くの日本人がアホみたいに西洋かぶれして洋服を買い求めて着て、和服を買わず、和服を着なくなったせいや。もし戦後も日本人が自国の文化を大事にしていれば、現代日本のような西洋かぶれだらけの惨状にはならんかった。拙者は、買い物は投票と同じと言うた。何処に金を落とすかが重要なのであり、金が落ちる所は残り、金が落ちひん所は潰れてしまうのは当然の原理やろ。個人事業主にしろ会社にしろ、売上が立たへんとか事業主が利益を得ないことには事業として継続でけへんのが当然やからや。
引用:真の聖書福音と預言 「神の王国に相応しいように準備せよ」(赤字は私によるものです)
こちらの引用記事に記載のとおり、日本人自身が日本の文化を衰退させていった張本人なんです。いくら敗戦国となって西洋諸国の文化が流入してきたとしても日本人としての矜持を持ち、西洋文化に靡かず和服を着て、和食を食べ、日本語を大事に守っていたならば今のような見渡す限り西洋かぶれという惨状には至っていなかったことでしょう。旧約聖書に出てくる栄華を誇ったソロモンも晩年、異邦人の妻たちに唆されて異邦人の道(異教の偶像崇拝)へと自ら足を踏み入れ、この主なる神への背信がきっかけでイスラエル王国は南北に分裂し、古代イスラエルの民はその後アッシリアとバビロンに捕囚とされ国を追われることになりました。服装や言葉、食事は些細なことと思われるかもしれませんが、長きに渡って受け継いできた文化を手放すということはその国らしさを失うということに繋がり、日本に於いては古代イスラエル文化を忘れ去り、正しい歴史をも知ること無く一生を終える者が多いのも事実です。我々、古代イスラエル文化を色濃く受け継ぐ日本人が異邦人の道に行くということは正しい道から逸れるということを意味し、神(主イエス)から遠ざかっていくばかりです。
話を食事に戻しまして、西洋かぶれが当たり前になってしまっている現代では和食のみ食べるという人はおそらく皆無と言っていいほどではないかと思っています。これは常日頃から和服を着ている人と同じ比率やと思います。私自身も一人での食事は和食を作って食べるようにしていますが、数か月前から妻が私に相談無く借家(アパート)を借りて別居してからは、子供が食べる分の副食もよく作るようになり、その品は洋食や中華料理を作って出してしまっている時もあります。衣服が最たるものとなりますが、食事に関しても洋食や中華料理といった異邦人の食事が店の商品の半数近くを占めていることに気付きます。そして明治以降和服店が数を減らして洋服店が増え、洋服の方が値段が安くなっていったのと同様に、作り置き商品は特に和食よりも洋食の方が安いことが多いです(作り置きはどうしても値が張るので極力買わないようにはしていますが)。何も意識せずにいると自然と和食以外のものが買い物かごに入ってしまうほどに異邦人文化に浸食されています。
そして昨今、上述した捕囚とされ国を追われることが再度起こりかけています。先日、成人の日がありましたがこちら(スウィッチ・ニュース)には今年(太陽暦)の東京新宿区と豊島区での新成人の約半数が外国人であったと記載されています。しかもこの増え具合は年々右肩上がりで、数年先には日本人より外国人の方が新成人が多いといったことが現実に起ります。多文化共生を目指す日本政府とがっちり癒着したテレビのニュースでは、移民による問題を大きく報じてはいないようですが、SNSでは移民が多く住む地域の人からの投稿もあり、ゴミ、騒音、交通、性加害、あらゆる非常識的な問題行動が浮き彫りとなっています。こんな最中でも日本全国に散らばる各知事や市長、議員等には政府の息のかかった者が多く、体中に広まったガン細胞のように各地から売国行為を働いています。このままいけばこの移民問題は欧州の惨状と同じく取り返しがつかないことになり、日本人の不満は爆発して民族間の争いに発展するでしょう。これは聖書の終末預言にも書かれています(マタイによる福音書 二十四章七節参照)。そしてこれは私の予想ですが、コロナワクチン複数回摂取率世界一の日本人はこれから大きく数を減らしていずれ移民との立場は逆転し、民族間の争いになるほどに不満を募らせた移民は、「この国を自分たちの国にする」との思いを抱いて日本という国を乗っ取り、先住民である日本人は古代イスラエルの民が受けたのと同様、国を追われることになると考えます。
コヘレトの言葉 一章九節
かつてあったことは、こらからもあり
かつて起こったことは、こらからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
こちらのコヘレトの言葉からも、現代イスラエルである日本が異邦人(移民)に再度乗っ取られる可能性があることが分かります。このように日本人が国を乗っ取られ、国を追われることになる危険性をミカエル氏は約八年も前から、「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」の記事にて警鐘を鳴らされています。なんとも恐ろしい題目なんですが完全に他人事では無く、もう目前にまで迫って来ているということが分かります。こちらの記事も熟読し、必要な行動を各人が取られることを願います。
次に私が日常で気をつけていることは人に対して先生と呼ばないことです。人を先生と呼ぶこともいけないのかと思われるかもしれませんが、これに関しても聖書にしっかりと書かれています。
マタイによる福音書 二十三章十節 (ミカエル氏訳)
『教師』と呼ばれてもあかん。あんた方の教師はキリスト一人やさかい。
引用:真の聖書福音と預言 「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」
このように主イエスは、イエス・キリスト以外に教師(先生)はいないと仰っています。呼んでも呼ばれてもいけないのです。私が特に人を先生と呼ばないように気をつけているのは学校や保育園の先生、仕事上でやり取りする税理士に対してです。私の上の子は支援学級に通っていることもあって定期的に学校の職員と話をしたり、平日は毎日連絡帳でのやり取りをしていますが、「○○先生にお伝えお願いします。」といった文章を書く必要がある時がありますが、「○○さんにお伝えお願いします。」というように書くようにしています。電話で話すとき向こう(学校の職員)は先生と呼ばれることに慣れているので、私が「○○さん」と言うと一瞬相手は間が開いて「?」となってはると思いますが普通に伝わっています。私はこの先生という呼び方に対しては聖書を読んで主イエスへの信仰に入る前から「あんまり良くない言葉やな」という風に思っていました。と言いますのも、学校職員や医者、政治家といった普段から先生と呼ばれている者らに傲慢な人間が多いと思っていたからです。私の主観ですが、おそらく心の弱い者ほど周りから先生と呼ばれることによって自分は偉いと勘違いしてしまって天狗になってしまうのやと思っています。そしてこんな者ほど犯罪をも犯してしまうのやとも思います。また、医者も傲慢な者が多いと書きましたが医者にかかるのも元々嫌いで、健康にも気をつけています。現代医療は薬で症状を誤魔化す、大富豪ロックフェラーが広めた西洋医学が当たり前になり、世俗に染まった人たちからすると「病院に行く」ということは「薬をもらう」ということであるように思います。この姿勢は客観的に見ると薬に頼り、薬に縋っているのです。これは一見多くの人は何とも思わないかもしれませんが、この世の唯一の神(主イエス)以外の存在、物に縋るということは偶像礼拝にあたり、神(主イエス)が忌み嫌われることです。そして薬というのは魔術や魔法でもあるのです。当たり前になり過ぎていてピンとこないかもしれませんが、薬と言われるただの粒や粉を飲んだり塗ったりすると悩みの種になっている症状が和らぐのです(重要なのは、治ってはいないということ)。これって魔法ですよね。テレビ遊戯でもドラゴンクエスト等をされたことがある方は想像がつきやすいと思うのですが、ホイミという魔法で体力の数字が回復するのです。薬も実はこれと似たようなことが起こっているのです。
新約聖書 ヨハネの黙示録 十八章二十三節~二十四節(拙訳)
灯火の明かりもお前の中にはもはや決して輝かされへん。花婿や花嫁の声もお前の中には決して聞かれへん。なぜなら、お前の商人たちが地の権力者であったからであり、また、お前の魔術によってあらゆる国民が惑わされ、預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺されたすべての者の血が、そこで見出だされたからや。
上記聖句で「魔術」と訳されてる箇所がある。英語では欽定訳聖書(KJV)ではsorceriesと訳され、ジュネーブ聖書ではenchantmentsと訳される。この古代ギリシア語の原語はφαρμακεία(ファルマカイア)や。このファルマカイアは、英語のpharmacy(ファーマシー)という単語の語源になっており、その意味は薬局、薬屋、調剤、製薬、薬学です。英語では、このファルマカイアという古代ギリシア語の単語を広くsorcery(魔法、黒魔術)、magical arts(魔法、魔術)、poisoning(毒を盛ること)、witchcraft(魔法、魔術、魔力)と定義しとる。ジュネーブ聖書の訳語も魔法という意味や。当該聖句では「偶像礼拝の惑わしと誘惑」というのがそのファルマカイアという原語の意味や。要するに、薬が魔法や魔術そのものであり、薬を生産したり使たり信じ切って頼るというのが偶像礼拝ということです。このファルマカイアは他にガラテヤ五章二十節、黙示録九章二十一節にも使われてる単語や。薬という魔術や魔法を生産したり行使する者やそれにすがって頼る者は、ガラテヤでは神の御国を継げへんと書かれ、黙示録九章では悔い改めへん者と書かれ、絶望的な運命にあることが明らかである。薬が命を救う、ワクチンが命を救うと思うことは明確に偶像礼拝であり罪です。
引用:真の聖書福音と預言 「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」
こちらの上記引用文からはっきりと分かるように薬は魔法や魔術であり、これに頼り切るということは偶像礼拝となるのです。ですので、キリスト者として生きる私は病院に行って薬を貰い、薬に頼って症状を緩和するわけにはいかないのです。なので普段からお金をかけない方法で健康に気を遣っています。現代では食べ物を口にするからには農薬や添加物といった毒物を完全に避けることは至難の業となるので、日に二回の食事にして極力毒物を摂取しないように心掛け、白砂糖を避けるようにしています。白砂糖は麻薬のコカインと同じような精製方法のようで、脳に強力な依存を来し、血糖値の乱高下を起こして脳にも心にも良くないです。また、先述した和食は作っていて健康に良いと思っています。体に溜まるトランス脂肪酸を多く含む植物性油脂をほとんど使わないんです。私の料理数(レパートリー)が極端に少ないのもあるかと思いますが、味噌、納豆、漬物、梅干しといった発酵食品が多いです。ここで書くべきではないかもしれませんが、味噌に含まれる乳酸菌は熱に弱く、沸騰したてのお湯に味噌を入れると味噌に含まれる乳酸菌が皆死んでしまうとのことなので、私は五十度くらいに冷ましてから味噌を溶くようにすることに拘っています。このような食生活をし、薬を全く飲まなくなってから三年ほど経つと思うのですが、風邪を引くことが少なくなりました。私の場合、年に一~二回は毎年発熱して風邪を引いていましたが、今思い返してみると直近で発熱したのがいつか思い出せないほどです。また、太陽暦二千二十一年春の当時はまだ聖書も読んでおらず、当然ミカエル氏の「真の聖書福音と預言」も読んでいなかった時にコロナワクチン接種が始まりましたが、元々薬やワクチンに対してあまり良い印象を持っていなかったことが(薬に縋っていなかったことが)コロナワクチンを接種せずに済んだ理由の一つであると思っています。このような事柄からも神(主イエス)以外の存在に縋る、偶像礼拝がいけないことがよく分かります。
以上、気をつけている点を文章で纏めてみました。
普段の日常生活に於いて聖書と照らし合わせて、聖書に反していないかをその都度その都度確認し、主イエスへの信仰を持ちながら送る生活が信仰生活であると思います。ここまでお読みいただいた方は聖書に興味を持ち、信仰生活について疑問を持たれている方もいらっしゃるかと思います。少しでも参考になる記事となれば幸いです。
真の聖書福音を学び実践する者(キリスト者)は集い合い、それこそが教会であり(教会は建物ではない)、そこに主イエスはおられます(マタイによる福音書 十八章二十節参照)。さらに主イエスは信仰の兄弟姉妹で互いに愛し合いなさい(互いに切磋琢磨し、協力し合いなさい)と命じられています(ヨハネによる福音書 十三章十四節、十五章十二節、十五章十七節参照)。この主イエスの新しい掟をも守ろうとされる方はミカエル氏の記事『「兄弟の集いの場」の廃止の告知』を熟読してしっかりと理解し、要件を満たしてからミカエル氏に申請をしてください。
私もまだ教会に属せぬ外部の者です。一日一日の信仰生活を積み重ね、キリスト者としての品性を磨き、寄り道せず真っ直ぐに教会を目指します。
自分の言動が聖書に則っているかどうかを考えることは、心に律法を根付かせることに繋がります(聖霊の働きと相まって)。日々精進という四字熟語は、これを毎日毎日積み重ねていくことであると思います。継続は力なりを行いで示し、主イエスを模範とする信仰生活に励みます。
最後までお読みいただきありがとうございました。キリスト道を歩もうとされる背中を押すきっかけとなれましたら嬉しく思います。
