浮島丸事件の追悼の集会が
8月24日土曜日にありましたので
参加する機会があり
京都の北部舞鶴まで行ってきました
浮島丸事件とは1945年8月24日
日本の敗戦を受けて、徴用されていた朝鮮の人が
青森県から釜山を目指す日本海軍の浮島丸に乗船
帰国の途についていたのですが
連合国(実質米軍?)の命で舞鶴に立ち寄ることに
舞鶴近海で機雷の爆発で浮島丸が沈没した・・・
という事件です
犠牲者の大半が朝鮮半島にルーツを持つ人でもあり
地元の民族学校の学生さんらが追悼集会にも参加
ものすごく暑い日でした
舞鶴港の程近くのこの辺りで沈没したそうです
陸地も近いので乗客乗員約4000人のうち
犠牲者は549人とのこと
多くの人が泳いで自力で助かったり
近海の漁船などに救助されたそうですが
流出した油を浴びて溺れたり
救助しようとしても油まみれで
救えなかった人が亡くなったそうです
事故から9年も経った1954年でも浮島丸の残骸が
湾から見えていたそうです・・・
しかも朝鮮戦争による特需もあり
鉄が高騰したので回収が求められて
ようやくこの頃に引き揚げられたとのこと
実際にこの時代は地雷や機雷が陸にも海中にも
たくさん残っていて類似の事故はあったそうです
謀略説もある事件ですが、真相は不明です
事件から33年後の1978年に慰霊碑が建立
市長はじめ地元の実行委員会が主体となって
碑は中学校の美術教員が作成したそうです
東京都や群馬県の知事が戦争や他民族加害への
追悼へのメッセージを拒否したり、撤去させたり
といったことが伝え聞きますが
ここでは一度だけペンキ落書があったものの
知事や市長も参加(かメッセージ)をし
基本的に協力関係にあり妨害もないとのこと
浮島丸事件の場合は日本軍が加害者という
わけではなく
記念碑も実行委員会が土地を調達している
(市有地を借りていない)こともあると
説明がされました・・・
が、こうした悲劇がそもそも起こったきっかけは
朝鮮半島からの労働力としての徴用が多く
炭坑や工場などでの過酷な労働に従事していた
特に浮島丸が出港した青森県では
大間鉄道という下北半島先端までの
鉄道建設を担わされていたそうです
ゆくゆくは津軽海峡を越えて函館を結ぶ目的
もちろん完成しないまま敗戦で中断した路線
戦時中でも工事していた軍事目的の鉄道建設
朝鮮から徴用した人たちが担っていた
こうした歴史について
きちんと記憶をつないでいくこと・・・
記録に残していくこと
(厚労省は今年やっと乗船者名簿を開示)
が再び起こさないために必要だと思います
おまけ・・・
京都のお土産は「水まる餅」
水風船の中にわらび餅が入ってました
出すとき(=風船を割る時)の瞬間を
楽しむお菓子です