「読書の秋」である。
みんな、読書してる?
アメリカ外交研究をしてるせいか、どうしても英文を読む時間が多いので、
日常会話も自ずと英文和訳のようになってしまうという悲劇に見舞われる。
SVO(主語+述語+目的語)が英語の基本的な文法構造で、
対して日本語はSOV(主語+目的語+述語)によって作られる。
この根源的かつ決定的な文法的構造の差異が、
日本人の英語習得に関して大きな障害となっているのは言う間でもないけど、
慣れてしまえば英語の方が思考が楽だったりもする。
例えば、
『抽象的概念としての文明は議論し難いが、歴史的・経験的概念としての文明を我々は論じることが出来うるであろう』
この文に出てくる2つの「文明」という言葉。
日本語で表記するならば、同じ「文明」としか表せない。
しかしここで使われてる「文明」という言葉が大きく意味を異にしていることにお気づきだろうか?
前半の「文明」は抽象的概念としての文明、
つまり「文明というもの」であり、
後半の「文明」は、
「実際にこれまで世界に存在してきたであろう文明」なのである。
これを英語で表現すれば、
前半は普通名詞としての文明「a civilization」であり、
後半は「civilizations」という複数形で表現される。
意味が違えば言葉が変わるのである。
またその逆も真である。
(もちろん、文明という言葉自体が「哲学」や「倫理」といったような比較的新しい日本語であることも影響するが)
英語はものすごく論理的にかつ明確に作られているんだね。
名詞の性がないあたりに良心を覚えたりもするしw
サリンジャーの小説を高校時代に原書で読んでみて気付いたのは、
日本語の限界、英語の限界、
ひいては言語の限界ってのがあることだった。
言語で表現できない領域があるというのは一種のセンセーショナルだったし、
その衝撃とほぼ同時に「芸術」の存在意義ってのが、
ほんの少し体感で理解できた(言語による理解ではないことが重要)。
それまで何となく持っていた言語への全能感が霧消した訳だけど、
それでも言語によって表現することを諦めたわけではないし、
その未達への領域に向かっていこうとする姿勢は正しい。
『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンも、
『エデンの東』のキャルも、
アドレッセンス特有の不安定で繊細で純朴で傷付きやすい少年だったが、
彼らに感情移入してしまうあたり、
オレもまだまだ子供なんだな~と自己陶酔と自己嫌悪の狭間でため息をついた。
やはりバンジージャンプやサーフィンのような痛みや恐怖を伴なうイニシエーションを経なければ大人ってやつになるのは難しいのかな。
成人式があんな様子じゃいつまで経っても子供は子供のままだ。
(そういう意味では痛みを伴う出産を経験した「母親」というカテゴリ内にいる人は興味深い)
言語も音楽も(ややもすると恋愛という原始的な営為でさえ)、
現代日本の文化それ自体が子供化してしまっている感覚に陥る。
そんな状況下で、
もう一度だけサリンジャーを読む意義は大きいと感じた。
読み直してみて「あぁ、ホールデンは子供だな」と突き放す事が出来たなら、
多分、ほんのちょっとだけ、
この風景も変わって見えるかな。
読書による風景の変容、
これもまた文学の醍醐味の一つだろうね。
言語について再考したくなった。
ソシュールでも読み直すか。