日本におけるドイツの会社第一号はクニフラー商会(後のイリス商会)と言われている。同社は1857年、開国に合わせて長崎と横浜で開業した。横浜においては外国企業の第一号とされる。その後多くのドイツ人がやってきて会社を設立し、1800年代末には横浜と神戸に約 40 社あったという。

第一次世界大戦にドイツが敗れると減り、ナチスの台頭、日独提携でまた増加する。しかし1939年にドイツが英仏と開戦して以降、日独間の交易は実質途絶し、ドイツ系企業には厳しい時代を迎える。

 

そんな中戦時中までどのようなドイツ企業が存続していたかを本編では見ていく。参考にしたのは『独逸大観』1942年版である。そこには「在日独逸商工録」としておそらく公式に会社登録された企業が載っている。実際には活動はほとんど休止状態の会社も多々あるやもしれない。そんな中、今も知られた会社を中心に取り上げ解説を加える。すでに当ブログで取り上げた、多くのドイツ人が絡んでくる。

 

1 本社所在地を地域別にみると次の様だ。

東京: 43社

中央集権の傾向が強い当時、数が多いのは想像がつく。ドイツの会社の日本支社はほとんどが東京である。

 

ハー・アーレンス継続社  八重洲ビル

合成肥料、北独逸ロイド社代理店 1869年創立

ハインリッヒ・アーレンスが築地に会社を開き、間もなく横浜に移ったアーレンス商会は1900年代には営業を終えるが、その知られたブランド「アーレンス」を引き継いだ会社。

なお「アーレンス商会」とグーグルで検索すると筆者の書いた「ドイツ商社の草分けアーレンス商会の末裔、森利子さんの体験した戦中の横浜・山手」が最初に表示される。こちら

ヘルマン・アーレンス。見本市の身分証のよう。(森利子さん提供)

 

イリス商会 

冒頭に紹介した、日本最古の商会で今日も存続。会社は丸の内にあったが、別に「ボッシュ部」が赤坂に存在。車の部品会社「ボッシュ」の代理店。

 

日独機械製作所    

社長ウィリー・フォルスター 「東京のシンドラー」としてユダヤ人を救済した。ナチスからは敵視されて、フォルスターは逮捕、会社は解散させられるが、この時点ではまだリストに載っている。

 

昭和9年3月現大盛り所有地にて創業。昭和13年1月「日独機械製作所」に改名。以来民間の有力な軍需品製造会社より前記高精度旋盤の注文殺到。14年10月大井町下町に地所を購入し新工場を建築。15年1月6日夜、大森工場内に不慮の出火、工場3棟を全焼、一棟を半焼 。

独逸大観の広告(『独逸大観』1940年  国会図書館デジタルコレクション)

 

ボーレル兄弟合資会社 (Bohler) 内幸町 インターナショナルビルディング

オーストリアの鋼鉄会社の日本支社。終戦時にヨゼフ・コペッキー(社員)が田園調布に暮らした。

 

独逸染料合名会社(イーゲー・ファルベンインドゥストリー)

化学産業のトラスト。日本支社支配人はカール・クライヤーであったが、彼は横浜の山手に豪邸を構え、丸の内八重洲ビルに「クライヤー事務所」を持っていた。ドイツの本社は戦後、独占解消のため解体された。

 

シーメンス・シュツケルト電機株式会社

1887年にヘルマン・ケスラーが東京・築地に日本で最初のシーメンス事務所を開設。1914年には日本海軍への賄賂事件(シーメンス事件)を起こす。戦前、戦中の日本支社長ベルンハルド・モーアの別荘は今も葉山に残っている。

 

カール・ツアイス株式会社    丸の内 著名な光学メーカー

築地のドイツ人商人カール・レーミッシュが1909年に販売代理店となったのが日本ビジネスの始まり。レーミッシュについては筆者の『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』で解説。

 

シュミット商店     日本橋

1896年、スイスの精密機械や理化学、医科器具等の代理店としてパウル・シュミットが設立。その後ライカカメラの輸入を行う。1906年に外国人として初めて芦ノ湖畔に別荘を建てた。

 

株式会社レイボルト商館(日本)

シモン・エバース商会としてスタート。日本米を輸出し、市門・エバース商会の印のある米は欧州諸国において一流のものとして著名であった。1881年キンシン・ラインにより日本、ハンブルク間の直接航路が開通するやシモン・エバース商会は日本政府の委託によりドイツおよびオランダにおいてコメの販売を行った。その後レイボルトがビジネスを司る。1907年のレイボルトの死後、第二次世界大戦後まで同社の経営はクルト・マイスナーが行う。第一次世界大戦では青島で捕虜となり、文化団体OAG(ドイツ東洋文化研究協会)の運営にも関わる、彼の功績は大きい。

会社はレイボルト株式会社として今日も続いている。

 

合資会社ルード・ラチエン商会    ラチエンは 1903年23歳で神戸デラカンプ商会派出員とてして来朝。1913年独立し、ラチエン商会  を興す。 氏自身はドイツ人なるも本邦のために大いに尽くすところがあった。ダイムラーベンツ、カールツァイス会社エルネマン(活動写真機)、ブリュートナー(ピアノ)、ヘンケル(刃物)、時計(キンフレー)など。茅ヶ崎に別荘を持つ。        

 

謙信洋行(China Export -Import & Bank Co)      

1858年ハンブルクの商人パラル・エーレルスにより上海で設立。日本の最初の支店は1890年に神戸 。  1942年時点では本店上海は社長は1919年以来ヨハン・グロッドマン。東京、大阪支店は並列に表記。

東京支店長 クルト・ミュラー(戦時下は軽井沢疎開)

大阪支店長 フリッツ・アルブレヒト

会社名は中国語に由来?現在神戸を本社とする「イムペックスケミカルス謙信洋行」(1952年創業)という会社はその流れを汲むのようだ。

 

三洋商会 丸の内2丁目

ドイツ機械の輸入に従事し、1931年森伝次郎(社長)およびヨハンネス・ケーリュ氏により設立されたる合資会社三洋商会が1939年までに獲得した30以上のドイツ機械工場の代理権を継承する。特に軍需工業用の高性能の精密機械の輸入を専門とする。日本人主体の企業と言えそうだ。

立教大学の図書館は、1947年森伝次郎の寄付により改装された。現在、三洋商会という名の会社はいくつかあるが、関係はなさそう。

                             

フォッケス・ウント・コッホ合資会社   (ユンカース航空機会社の代理店)

 代表社員ハリー・フォッケス、エルヴィンとフォン・コッホの2人の名前から会社名が定められた。

フォッケスは茅ヶ崎に立派な別荘を構えた。

 

ワルター・レムケ事務所 

重工業クルップの代理店    クルップは代理店ビジネスであった。

 

デーマク日本総代理店(Demag)    

1910年に設立された重機産業グループで、今日でも代理店がある。   

 

日本オリンピアタイプライター合名会社      銀座4丁目

タイプライター「オリンピア」の日本の代理店

 

シェラー・ブレックマン・フェニックス合資会社  内幸町 代表ヘルマン・シュレック

機械、自動車、航空機、化学工業用各種特殊鋼 

戦後のGHQの資料ではオーストリア系の資本の会社。シュレックも元はオーストリア人と思われる。

 

フォーグト・ゾンデルホッフ法律特許事務所    八重洲ビル

法律特許事務所。1939年には事務所の所員は40名に上る。現在も「ゾンデルホフ&アインゼル法律特許事務所」として活動している。

 

ライプチヒ市メッセ 

今日まで行われている世界最古の見本市の日本窓口

日本代表ドクトル・カール・フォーグト弁護士は上記特許事務所をカール ローランド ・ ゾンダーホフと共に設立。

 

独逸通信社     銀座電通ビル内。 

電通は元々通信部門持っていて、同盟通信社に合流した。

 

ジャーマンベーカリー    銀座5丁目、支店横浜

 

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大阪   8社

マンネスマン鋼管会社

中之島に日本支社を置く(大手銑鋼一貫メーカーで今日も存続)

 

エンデルライン商会 

谷崎潤一郎の小説「細雪」に「ヘニング家」として登場する。妻は日本人でマサコ・エンダーライン。

 

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神戸  17社

東京に次いで日本本社を置いた会社が多い。関東大震災で横浜が大打撃を受けた際に、多くの企業が神戸に本社を移した。そしてそのまま神戸を本社とした会社も何社かあったようだ。

 

バイエル薬品合名会社 神戸栄町

今日の世界的医薬品会社バイエル薬品の日本支社。当時は日本でもアスピリンの広告がよく出ていた。

 

日本シェーリンク株式会社      代表ワルター・プリーガー(Dr. Walter Priger  )
製品 化学製品及び薬品 宣伝所 東京市不動ビル     
医薬品メーカーの同社は2007年に合併によりバイエル薬品     

奇しくも2000年代に合併する両社は神戸を拠点とした。

 

リッカーマン商会    Rickermann・Johs    支店東京、大阪、大連、天津、上海、広東、 総本店はハンブルク。工業用ダイヤモンド在庫は日本において最大の在庫。

2011年に破産手続き。

 

 デラカンプ商会     神戸市海岸通り    代表者 ヘルベルト・デ・ラ・カンプ、コンラッド・ビバー  

輸入:化学製品、原料品、特殊鋼その他 輸出:繊維製品その他の商品。

1887年に設立し、1918年に解散する。上記2人は1941年頃迄ビジネスを続けた。  

 

イリス商会(船舶部が神戸にあった)

 

ウィンクラ―合資会社

横浜の老舗の商社だが横浜は支店。今日では横浜に本店を戻して活動を続けている。

 

フロイントリープ商会   

 神戸市中山手通り 現在までも続くベーカリー。

 

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横浜   0社

開国時からの拠点であった横浜には本社は1社もない。

 

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他    1社(軽井沢)

ドイツチェス・エルホールングスハイム 

一社だけ異彩を放つのが軽井沢の保養施設だ。ここについては筆者の本(「心の糧」戦時下の軽井沢シリーズ)の中で幾度となく触れた。

 

計 70社

 

飲食系、書店などを中心に1936年版には載っているが、42年版に出ていない会社は多い。

戦時下、不要不急の会社とされたか。

Borkowsky, G. Nichi Doku Shoten (日独書店)
Buchhandlung Gustav Fock GmnH (グスタフ・フォック書店)
Café Hamburg(カフェ・ハンブルク)
Hamburg Restautrant(ハンブルク・レストラン)
Helm Bros. Ltd   (ヘルム・兄弟社 横浜の代表的企業)
German home bakerly (ジャーマン・ホーム・ベーカリー)
Fledermaus, German Bar (フレーダーマウス、 ドイツバー)
Juchheims's Confectionery (ユーハイム菓子)
Lohmeyer  (ローマイヤー、デリカテッセン)
Metzger Franz  (フランツ・メッツガー、デリカテッセン)
OA-Shobo Far East Book Service (OA書房 極東サービス)
Petzold A (ペッツオルトA 設計事務所)
Rheingold (ラインゴールド、 レストラン)
Schlumbom Boeki (シュルムボム貿易、 谷崎潤一郎「細雪」のドイツ人の主役)
ハンザ バー

 

今回はここまででが、もう少し調べたい会社もある。それらは後日アップする予定。

 

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