箱根駅伝青山学院の往路優勝を受けて書き加えた。

 

箱根地区には約700名を超えるドイツ人が疎開し、軽井沢を凌ぐ最大の疎開地であった。

筆者が考える大きな理由は、ドイツ人は実業家を中心に箱根に別荘を構えていたことである。軽井沢が米英人を中心に発展したのに対し、箱根はドイツ人を中心に発展したのだ。ドイツ人は水辺を好んだので芦ノ湖がある箱根が好まれたのかもしれない。

 

シュミット商会はライカ・カメラやメルクの医薬品を輸入販売していた。1906年パウル・シュミットは外国人として最初に箱根に別荘を建てた。芦ノ湖に面し、立派な建物であった。場所は箱根大学駅伝の往路ゴール地点の横。現在は別荘跡に「箱根駅伝ミュージアム」が建ち、記念碑が残されている。

見にくい写真だが戦後まもなくGHQが撮影した写真が残っている。

写真は国会図書館所蔵、原所蔵機関は米国国立公文書館

 

 

カール・クライヤーはドイツの暖房技術の会社(Lurgi Gesellschaft für Wärmetechinik 現エア・リキード社)の代表で箱根に別荘を持つが、横浜山手に大きな住まいがあり、そこは戦後進駐軍のアイケルバーガー中将の住まいになったとされる。

クライヤ―の別荘。戦後没収され競売にかけられた。写真は国会図書館所蔵、原所蔵機関は米国国立公文書館

 

彼らが箱根に疎開したのはもちろんのことイリス商会、ウインクレル商会、アーレンス商会、ラチエン商会(一族のルドルフ・ラチエンは茅ヶ崎に留まったことは述べた)などのドイツ系商社の社員も同様であった。

 

こうした商会員は、政府関係の仕事を続けるために、半ば強制的にナチ党員にさせられていた。そのため彼らの子弟の教育機関として、ヒトラーユーゲントの学校が仙石ゴルフコース(1917年オープン)に開かれた。全寮制であった。

親たちはせめて子供の学校は選ばせてくれと頼み、普通学校であるドイツ人学校の疎開した軽井沢に移った家族も多かった。

 

第一次世界大戦の捕虜としてきたドイツ人の中ではアウグスト・ローマイヤ―(妻フサ)が、疎開していた。体を壊していたローマイヤ―にとっては療養の地でもあった。

 

宮ノ下のクラッシックホテル、富士屋ホテル(1876年創業)にはイタリア大使らが疎開したが、ドイツ人も20人ほどいた。日本敗戦後間もなくしてハインリヒ・スターマードイツ大使とアルフレッド・クレッチマー陸軍武官がGHQより戦犯指定を受け、軟禁状態に置かれていた。5月のドイツ敗戦後、大使は大使館の部下たちから服従を拒否されたため、河口湖の大使館には出入りできなかった様だ。

 

この時ソ連外交官は強羅ホテル(現存せず)に疎開したが、先の仙谷ゴルフコースも、この強羅ホテルも富士屋ホテルグループの傘下であった。

 

他には自分らの乗る船舶を失い、帰国の道を閉ざされた海軍将兵が疎開したのは松坂屋旅館他である。松坂屋だけで75名ほどの乗組員が疎開した。彼らはまさに陸に上がった河童でやることがない。仕事を与える意味で貯水池(阿字ヶ池)を掘ってもらい、今もある。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

最新刊『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』はこちら