湘南の中心に位置する茅ケ崎は元は別荘地として発展した。

「明治期から大正期にかけて、茅ヶ崎には20人を超える外国人が住んでおり、この地に新しい文化を持ち込むだけでなく、村政への助言や寄付などの援助、海岸植林など地域の発展に大きな影響を与えた。写真は、松林周辺に点在するドイツ人の別荘で、このあたり(中海岸三丁目)は『ドイツ村』と呼ばれたという」(三井住友トラスト不動産HPより) 写真はここでは紹介できないが、森林地帯の中に3軒ほどの洋館が写っている。

 

戦時中駐独大使を務めた大島浩が戦犯を解かれ、晩年を過ごしたのが茅ヶ崎の海岸辺りで、筆者はその場所を訪ねたことがある。

茅ヶ崎の海岸通り。こうした松林の中に大島大使の住居があった。

 

終戦時、疎開で横浜市内にドイツ人がふたりだけになったのの、茅ケ崎には以下のドイツ人がいた。『ドイツ村』の名残りであろう。

茅ヶ崎はアメリカ軍が東京制圧を目指して上陸してくる危険があった中、疎開すると家が誰かに住まわれてしまう危険もあった。そうして家族は疎開させ主人のみが残った家もある。

 

ルドルフ・ラチエン(Rudolf Ratjen) 茅ケ崎町菱沼

アサオ・ラチエン(妻)        同上

茅ヶ崎で一番有名なドイツ人だ。1902年(明治35年)に、炭酸水販売会社の社員として来日し、その後貿易会社、ラチエン商会を営む。妻は日本人の朝於(あさお)。

1932年に約15,000坪の土地を購入、今は彼の名前にちなんでラチエン通りがあり、元の住居のあった所は一部がラチエン通り公園となっている。

 

ラチエン通りとラチエン通り公園(グーグルストリート)

 

ルベルト・エンデルレ (Rupert Enderle) 茅ケ崎町東海岸(この東海岸がかつてのドイツ村辺りであろう)

上智大学と共同でカトリック関係の本を編纂するために派遣された。終戦の年45年に入ってここに住居を取得。

終戦時、家族は軽井沢に疎開し、主人のみ時々軽井沢を訪問するも、茅ケ崎に留まった。

戦後も四ツ谷でエンデルレ書店を営む。子孫は今もこの地区に暮らす。今回茅ケ崎に暮らしたドイツ人に関し、覚えていることを語ってくれた。

 

アーノルド・ベルンシュタイン (Dr. Arnold Bernstein) リッカマン会社員 茅ケ崎町東海岸

息子のRudolf “Rudi” Bernsteinは戦後、赤坂のアメリカ大使館の向かいに「BEI RUDI」という大きなビアホールを営む。そこは後に譲りPaukeとなる。妻のIda、兄弟のAdorfと共に終戦時は別の場所に疎開していたと思われる。

 

ワルター・ベルターソン アスカニア会社社長    茅ケ崎町東海岸
マルタアンナ ・フォルスター (Martha Anna Foerster) 41歳 女
クリスチアナ・フォルスター 4歳  娘

3人は同じ住所に暮らしていた。マルタアンナは開戦前はウィリー・フォルスターの妻として共に東京の大森に暮らしているがウィリーの名前はここにはない。2人は離婚しウィリーは日本女性と再婚した。彼女は後に日航のフランクフルト支店で働いたという。

 

エルウィン・フォレコッホ フォッスボッコ商会員 茅ケ崎町中海岸

フリュッワベルムス    グーランド 無職

二人は同じ住所だ。
 

フリッツ・ヘルト (Frizt Herdt) イリス商会技師長 茅ケ崎町小和田浜金戸
マグダレン・ヘルト 妻
エルデガルト・ヘルト

 

終戦時は軽井沢に一家で疎開していたが、ヨーン・パーシュ一家にも触れておく。

1941年12月の日本参戦のころ、一家は茅ヶ崎にあったウィルヘルム・ハース(戦後1958年5月から駐日大使)の別荘に転居する。商務官ハースは、妻がユダヤ人であったために罷免され、北京のI.G. Farben社の代表になり日本を離れた。

 

1945年3月、一家は茅ヶ崎を去る。湘南海岸の一帯が、アメリカ空母からの艦載機から頻繁に機銃掃射を受けるようになったからだ。

戦後戻ったら30人の台湾人に家が占領されていた。彼らは家は放棄されていたと主張し、日本が降伏したから住む権利があると考え、出て行かなかった。こうした事態を恐れ、茅ケ崎に留まったドイツ人がいたのであろう。


隣の辻堂にはテオドール・ステルンベルクがいた。東京帝大教師であったがユダヤ人ゆえにドイツ国籍をはく奪され、無国籍であった。

戦後は経済的に恵まれず生活保護を受けたという。1950年4月25日付けの朝日新聞の声欄に「ス博士の死」という記事が載る。

 

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