第二次世界大戦中には、およそ2800人のドイツ人が日本に滞在した。

外交官の様に任務を持って滞在した人間の他、ドイツへの帰国の道を断たれ、やむを得ずとどまった者も多い。

東日本にいた彼らのほとんどは軽井沢、箱根、河口湖に疎開をしたが、最後まで東京に留まったドイツ人もいた。その数は外務省の資料では69名である。本編では彼らを分析し、なぜ危険極まりない東京に留まったのか分析を行う。

 

1 大使館関係者

永田町の大使館の建物は1945年5月25日の空襲で破壊されたが、またドイツの降伏で外交官の資格は実質喪失したが、いわゆる留守番役として以下の7名が残った。

1 二等書記官、大使秘書    スタニスラウス    クリーメック            47 歳   
2 三等書記官    ハンス フォン    ハーヴェー            37 歳    
3 三等書記官    ロルフ    マゲナー            34 歳    
4 滞日ドイツ人委員会長    ハインリヒ    ロイ            46歳     
5 滞日ドイツ人副委員長    リヒャルト    モーゼル            45歳     
6 大使館料理人    オット    フォークト            30 歳    
7 大使館連絡係    ヘルマン    グリム            41  歳   

3名がキャリア外交官で日本政府とも話が出来る立場だ。若くて屈強な人物が選ばれたのだろう。彼らは集団で暮らしている。最初の5名は麻布区本村町の同じ住所だ。

料理人も一人残っている。在留ドイツ人の世話的立場でも2名がいる。他に放送員も1名いた。

 

戦時下で大使館員も避難する時でも、何人か残留するのはある種の”慣例”であった。ベルリンでは同様に日本大使館に数名の外交官が残留している。

 

2 企業関係者

いくつかの企業が1名の残留者(多くは技術者)を置いたのに対し、レイボルト商会のみが多くのドイツ人が残留している。社長秘書もだ。(8名)

レイボルト商会は機械専門商社として今日まで110年の歴史を持つが、会社が東京に残らねばならない理由があったのかは不明だ。

 

社長は、史料からは確認できないがクルト・マイスナーではないか。かれは紹介の設立に関わり、第1次世界大戦では青島で日本軍の捕虜になり、戦後も日本に滞在した。ビジネスマンである傍らOAG(東洋文化研究協会 )の運営にも関わる。マイスナーは品川区の自宅に家族、秘書と共に残った。他に4名は東馬込で共同生活であった。

他にイリス商会技師、独逸染料(IG Farben)技師、富士電機技師などいくつかの会社で主に技師を留守番組として残している。

 

3 教育関係者

教育関係者が残ったのは、彼らの勤務する日本の学校が終戦まで開いていたことが大きな理由であろう。

ドイツが降伏した後も日本政府は教師、宣教師は従来通りの職務執行を認められていた。

 

上智大学にはブルーノ・ビッテル院長を筆頭に11名もの教師、宣教師、料理人などが学内に残留した。大使館同様、ここでも料理人がグループに加わっている。

上智大学に隣接するイグナチオ教会は5月25日の空襲で破壊された。大使館と同じ日である。以降は元学長のヘルマン・ホイヴェルスが大学内のクルトゥルハイム聖堂でミサを行なった。

上智大学では他に7名が箱根に疎開している。

 

シスター・オディリア・レーマン ( Odilia Lehmann)はベルリンに駐在していた外交官の吉澤家で幼児の保育をする職に就き、1931年同家に随伴して来日。その後中野区鷺宮に恵まれない子供たちのための園を営んだ。それは聖オディリアホームと名づけられ、今も続いている。

ここに他に8名のドイツ人が居住した。堅牢な防空壕があったのであろうか?

 

ヘルムート・フェルマー(武蔵野音楽学校講師)は下高井戸に暮らした。5月9日、大使館では国旗を半旗にして「ドイツのための戦いに倒れた総統アドルフ・ヒトラーを偲ぶ追悼時間」を催した。その際に日本フィルハーモニー管弦楽団の指揮に立ったのがフェルマーであった。(別稿「ドイツ大使館の疎開」より)

これは戦後はあまり名誉なことではなかった。

 

4 フリードリッヒ・グライフ 放送局員

彼は今のNHKでドイツ向け短波放送のアナウンサーであった。ドイツ降伏後も放送は続き8月15日、日本の降伏をドイツに伝えたのはグライフであった。チームとして働いていた様なので、ドイツ人技術関係者も交じっていたはずである。

 

以上が、終戦時の東京のドイツ人の姿だ。別稿で書いたが横浜市内には2名のドイツ人が留まるのみであった。政府からの疎開の勧告もあったが、首都ゆえにそれでも留まらずを得なかった人が少なからずいたことが分かった。

 

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