<序>
一九四一年十二月八日、独伊と組んだ日本が米英に宣戦布告した。翌年の三月七日、日本の戦争政策の最高決定機関である大本営連絡会議が開かれ「世界情勢判断」という報告書がまとめられた。連合国、枢軸国それぞれの戦力が広範にかつ詳しく分析されている。しかし結語は至って簡潔である。
枢軸側ー現有武力に於いて優る。相互の交通連絡困難
反枢軸側ー経済力に於いて優る。相互の連絡容易
反枢軸側ー経済力に於いて優る。相互の連絡容易
この会議が催された時点では、日本軍はまだ各戦線で快進撃を続けていた。しかし日欧間の交通連絡の困難は、枢軸陣営にとって、すでにアキレス腱となっていた。
人員および物資の交流が出来ないのは勿論であるが、対外宣伝上も好ましい状態ではなかった。自ずと日欧間の制空、制海権の欠如を世界に露呈したからである。そして日本の政治家、軍人も、戦争の初期段階より、これを大きな問題として認識していたから先の結語となった。
実際米英ソの三巨頭は戦争中もテヘラン、ヤルタなどで直接会談を行うが、枢軸側は一度もそのような機会を持つことはなかった。これにはいくつかの理由が挙げられるが、交通路がなかったことが決定的であった。
次いで先の大本営連絡会議からさらに三ヶ月ほど経た一九四二年六月十一日、東京では駐英大使から戻った吉田茂が、天皇の側近中の側近である重臣木戸幸一を訪問し、終戦工作のために、近衛公と共にスイスへ行くことを申し入れた。これに対して木戸は
「ドイツとの連絡は潜水艦潜水艦による外なく、既に危険この上なく実現性なし。その案は空想に近き」と一笑に付し、実現に向けた努力はなされなかった。この逸話はどこまで本当か疑問な所もあるが、木戸自身の日記に出ていて、戦後の名宰相吉田の時局に対する先見性を示す逸話として、今日に至るまでしばしば引用されている。
木戸がそこで語ったように
「第二次世界大戦中、日欧間の連絡は潜水艦によるしかななかった」というのは、たしかに今日では通説となっている。しかし実際には、吉田が危険な潜水艦以外の方法で欧州に赴く可能性はあった。
「第二次世界大戦中、日欧間の連絡は潜水艦によるしかななかった」というのは、たしかに今日では通説となっている。しかし実際には、吉田が危険な潜水艦以外の方法で欧州に赴く可能性はあった。
その最右翼は、ソ連を通過する方法であった。先の大戦は日独伊英米ソ中ほか、ほとんどの大国を巻き込んでの世界戦争であったが、交戦関係は少し込み入っている。特に連合国に名前を連ねるソ連は、ドイツとイタリアとは戦争状態にあったものの、日本との間では中立状態を存続させた。
当然ドイツは、ソ連の抵抗力を分散させるため、再三日本にシベリア侵攻を要請した。しかし日本は動かなかった。それによって独ソ戦の最中もソ連には日本大使館が存続し、日本人は両国間を行き来することができた。他方ソ連は欧州側の窓として中立国トルコと国境を接している。トルコからはイタリアもドイツも、たいした距離ではない。このように日本人は戦時中も、ドイツまでたどり着くことができた。
当然ドイツは、ソ連の抵抗力を分散させるため、再三日本にシベリア侵攻を要請した。しかし日本は動かなかった。それによって独ソ戦の最中もソ連には日本大使館が存続し、日本人は両国間を行き来することができた。他方ソ連は欧州側の窓として中立国トルコと国境を接している。トルコからはイタリアもドイツも、たいした距離ではない。このように日本人は戦時中も、ドイツまでたどり着くことができた。
しかしこうした経路をたどった渡航者は極少数であった。日ソ間の中立関係は交流を促進するものではなく、「ただ戦争状態ではない」と言う方が近かった。よって互いに利益が一致した場合にのみ、相互に最低数の通過査証を発行するだけであった。
本編では厳しい情勢下にもかかわらず日欧を往来した邦人の、稀少な体験を中心に据えながら、欧州戦争と日本人の係わりを捉えるものである。なお今日のロシアは当時に習いソ連という名称を使用することと、文中に多用することになる外交交信録は、適宜現代文に改め、読みやすく句読点を加えることをお断りしておく。
<シベリア鉄道>
本編で取り上げる戦時下の日欧交流で中心的地位を占めるのは、ソ連を横断するシベリア鉄道である。ソ連において極東のシベリア地方が、首都モスクワと鉄道で繋がったのは、一九○三年の事であった。シベリア鉄道の開通である。
一九三四年には急行リュクス号の運行が開始され、満州国側の国境の町満州里(マンチュリー)とポーランドとの国境ストルブツィを、九日かけて走った。それまでの船による欧州行きに比べ、圧倒的な時間的優位性を持つ渡航経路が、確立された。
そして「なんてバカバカしく広いんだろう」とはヒトラー盛時の一九三六年、ベルリンオリンピックを撮影したフィルムを、新聞社から託され日本に運ぶ作家横光利一が、シベリアの荒野で思わず漏らした感想である。
かれの携行するフイルムは、写真電送技術の完成しない当時、ベルリンでのオリンピックの模様を、日本国民に最初に伝えるはずであった。船より速いとはいえ,単調で長い列車の旅であった。以降日本の敗戦まで、ここを通過する邦人が等しく実感する、シベリア鉄道の旅情を形容するにぴったりの言葉であった。
欧州に戦争の雲行きが広まる一九三九年五月、シベリア経由の国際直通列車の運行計画が改正される。列車は週二便運行され、満州里(マンチュリー)駅発西方便が毎週月曜と木曜日の十四時三十分、着便はそれぞれの朝四時ちょうどであった。
この日欧間の最短経路であるが、邦人の渡欧手段としては、戦前からあまり民間人には利用されなかったことはすでに述べた。極東ソ連のハバロフスク、島田滋総領事の本省への報告によると、一九三八年一月から三月までにシベリア鉄道を利用した邦人は官吏十四名、無職一名の十五名のみである。
多くの民間人は依然船で欧州に渡り、一部の外交官のみが、シベリア鉄道を利用するだけであった。ビザを待つ時間を考慮すると、皮肉なことに多くの場合海路の方が早かった。
一方そのころ欧州ではヒトラードイツが、周辺国を次々併合し始めている。そして一九三九年九月一日、ドイツがポーランドに進攻すると、それまで対独宥和政策をとってきた英仏が、いよいよドイツに宣戦する。欧州戦争の勃発である。
翌年に入るとノルウェー、フランス、ベネルクス三国があっけなく敗れ、イタリアが駆け込みでドイツ側に立って参戦する。このイタリアの参戦により英国管理下にあったスエズ運河は、日本を含む中立国船の通行が不可能になった。地中海が戦場となったからである。
欧州航路を一手に引き受けていた日本郵船はスエズ運河の閉鎖後も、自社船を南アフリカ経由にして、同社伝統のロンドン航路の維持に務めた。しかし客は減り続け、一九四〇年十月をもって中止となった。
以降、民間人は欧州へ向かうには、これまでとは逆方向に進路を取るしかなくなる。邦人はまずアメリカに向かい西海岸で下船し、大陸を列車で横断する。そこから大西洋を渡ってポルトガルのリスボンに着く。そして欧州の目的地に散った。
他方外交官、軍人は日ソ相互主義に従い、ビザの発給をソ連より受け、依然シベリア鉄道を利用した。しかしポーランドが敗れて独ソに分割されると、旧同国内の鉄路はいく個所かで不通のままで、なかなか修復されない。そのため邦人は、この区間は何ヶ所かで列車を降り、バスに乗り換えての欧州入りとなった。
<大物渡欧 一>
一九四○年九月二十七日、日独伊三国同盟が批准される。「バスに乗り遅れるな」の掛け声のもと、日本は明確に枢軸側についた。そして願わくはこの三国同盟にソ連が加わり、四国同盟となってアメリカへの強力な対抗勢力となることを、日本の指導者層は期待した。ソ連の去就が俄かに注目される事になってきた。
一九四一年に入ると日本から二人の大物が、このシベリア鉄道を利用して欧州に向う。一人はヒトラーと相容れる事のなかった来栖三郎(くるすさぶろう)駐独大使に代わる、大島浩(おおしまひろし)である。新大使は「かれからドイツを取ると何も残らない」と言われるくらい、ドイツに心酔していた。大島は一九三九年八月の独ソ不可侵条約で不覚をとり、ドイツ大使を更迭され帰国してから、まだ一年余りしか経っていなかった。
大島大使がベルリンの小学生加藤眞一郎さんのサイン帳に書いたサイン。(この時は陸軍武官)
赴任する大島らにソ連の通過査証が発給されたのは一九四一年一月十七日で、シベリア鉄道による赴任日程が最終的に調整された。先立つ一月十五日、日比谷公会堂では大島の壮行会が行われた。会はその盛大さで、アメリカへ行く野村吉三郎大使のをしのいだといわれている。日本全体が大きくドイツに傾いた時期であった。
一月二十九日午後一時、松岡洋右(まつおかようすけ)外相、オットー駐日ドイツ大使らに見送られ、大島は特急かもめで東京駅を出発する。メンバーは大使夫人豊(とよ)と六名の外交官及び、坂西一良陸軍武官、小松光彦武官補佐官ら四人の陸軍関係者で、全員赴任地はドイツであった。大島の意向の強く働いた人選である。
かれらは下関から朝鮮半島に渡って、北上を続け、二月一日午後四時三十分、特急のぞみ号でソウルに着く。その夜は総督府主催の歓迎の宴があり、翌日は一時から壮行会が盛大に行われた。大連のビジョフドイツ領事も駆けつけ、祝辞を述べた。そして二日午後四時四十分、再びのぞみ号で満州国の首都新京(現長春)に向った。
二月六日、ソ満国境の町満州里を発車するモスクワ行きシベリア鉄道の列車には、大使らのために一両、特別車両が連結された。モスクワの日本大使館のアレンジによるものであったが、その費用は当時の金で五五七二US$という記録が残っている。
大島らは特別に、モスクワに二泊することを許された。そしてソ連の首都の出発は二月十五日であった。ポーランドが消滅し、新たにソ連との国境のドイツ側の駅となったマルキニアで、ドイツゲージの列車に乗り換える。ヒトラーの親衛隊が国境で出迎えた。その後一行がベルリンのアンハルター駅に着いたのは二月十七日であった。東京を発ってから十五日が経過した。(ベルリン到着時映像はこちら)
大島は二月二十八日、南ドイツのベルヒテスガーデンにヒトラーの山荘を訪問し、信任状を提出する。それから大島は終戦までドイツに留まり「ナチスのナンバースリー」と皮肉を言われるほど、積極的に日本政府に対し、ドイツの立場を代弁し続ける。
以上のようにシベリア鉄道を使うと、東京を発ってから約二週間で、ドイツに入る事が出来た。一方前年に海路ハンガリーのブダペストも向った外務省留学生、堀田磯行の旅程表がある。
第一部以上