筆者は軽井沢駅前の旅館、商店の歴史に関し、「レストランまるほん」に始まり「新軽井沢」の店舗をいろいろ調べている。本編では駅前商店街の推移について述べるものである。
背景を述べると、碓氷峠の新道が出来て、短い期間だが鉄道馬車が横川駅と軽井沢駅を結び、さらに鉄道が開通した1893年頃、こうした新しい乗降客らを目当てに、新道沿いに新しい旅館を出したのは22軒であった。ほとんどが街道沿いの古い旅籠や茶屋を移築したものであった。彼らは天領の宿駅時代に受けた特典はなく、独立独歩の旅館として新道に新天地を求めた。
旧軽井沢から進出した旅館の22軒には江戸屋、三度屋(旧脇本陣)、恵比寿屋、つるや他の旅館の名前が挙がっている。かられは新しい鉄道の駅周辺ではなく駅はずれに構えた。これはかつて旧道で峠を降りてきた徒歩の旅行者の客引き同様の発想からであった。
しかし旅行者はほとんどが鉄道を利用して駅で降り、宿泊所を探し、徒歩の旅行者を待ち構えた彼らの思惑は外れた。そこで碓氷峠や鉄道工事人相手の宿に変わっていくが、多くは廃業となり生き延びた旅館は、矢ケ崎で乳牛牧場に転じた小林屋(後廃業)、駅前の油屋、一田屋、広声館(まるほんレストラン)くらいであった。(以上主に「軽井沢別荘史」宮原実より)
「明治19年頃矢ヶ崎山より新軽井沢を望む」という地図を見ると、ほとんど集落のない草原地帯を斜めに碓氷新道(後の国道18号)が通り、軽井沢駅(明治20年頃開設)が左端にあるのに対して、手前、つまり峠寄りに工事関係者の宿舎が見え、さらに手前には「馬車鉄道の関連施設(建設中)」がある。旧軽井沢の旅館が峠寄りに旅館を出したというのは、客引き目的以外に、馬車鉄道の駅があったからかもしれない。
生き延びた小林屋以下はいずれも小諸、追分からの転出組であった。そして彼らは筆者の別稿でも紹介したように、駅前に構えた。
一方旧軽井沢からの江戸屋は戻って肉屋を開き、三度屋は西洋洗濯屋を営んだ。
それから時代を進め、1935年の別荘案内図を見ると、現在の軽井沢駅周辺は国鉄(現JR)の駅が「軽井沢」と表示されるものの、草軽電鉄の駅が「新軽井沢」、一田屋から旧軽井沢に向かう道沿いの商店街も「新軽井沢」と表示されている。
一方の元の軽井沢宿あたりは草軽電鉄の駅が「旧軽井沢」、街は「旧軽井沢」と表示され区別している。
そこから現在は「新軽井沢」の名称が消えた。呼ぶとすれば「軽井沢駅前」であろうか。本編ではその新軽井沢の商店街のルーツを探るものである。
なお1960年の草軽電鉄の廃止と共に「新軽井沢」駅の名称は無くなったが、軽井沢町内循環バスのバス停には今も「新軽井沢」がある。かつての名残りであろうか?また矢ケ崎公園の隣の「新軽井沢会館」(1952年落成、2代目1991年)もである。
「輕井澤別莊案内圖」(1935年 国会図書館デジタルコレクション)
さて当時の駅から旧軽井沢に行く道は、おそらく戦前の英語に地図ではStation Road(駅前通り)と旧軽までにまたがって書かれている。店の住所表記から見ると、日本語は「軽井沢町新道」である。1893年に鉄道が開通してから整備された道路であろう。参考までに現在の軽井沢本通りは、ちょうど上の地図の新軽井沢駅から伸びる線路の辺りである。
戦後まもなく駅付近のこの古い道の両側は「横町商店街」と呼ばれた。1950年~60年頃の商店街のお店を見ると、右側には一田屋から始まり、市村自転車店、つるや旅館、釜尚畳店の3軒のみ名前がある。比較的まばらである。
左側は旅館恵比寿屋に始まり、新油亭、高見屋そば店、大塚そば店、東亭、森角工業所、中里材木店、武田自転車店などと密集して続くが、現在同じところに残るお店はほぼなさそうだ。(下の写真がかつての横町商店街あたり)
次に先に挙げた商店を少し詳しく見てみる。
右側の市村自転車店は「レンタサイクル市村輪店」として現在の国道18号沿いの場所へ1971年に移転した。
元は1934年、創業者の市村晴次は夫婦で横町商店街に豆腐店を構えていた。隣にあった自転車販売店が閉まると聞き、昭和10年代に晴次が引き継いだのが市村輪店の始まりである。(軽井沢ヴィネット)
つるや旅館は「かるゐざわ」(大正1年)に「ツルヤ 館主佐藤國夫。 旧軽井沢に通じる道の右側にあり。客室12.清潔にして取り扱い親切」と広告が出ている。冒頭に紹介した旧軽井沢からの転出である。旧軽井沢の老舗「つるや旅館」とは親族関係であろう。戦後しばらく続いて閉業か。
釜尚畳店は隣に工場もありなかなか大きなお店であった。公民館が出来る前、工場が敬老会、映画映写会等の場として提供された。尾崎咢堂翁が訪問した写真も残っている。
左側に移り最初のますや(衣料品店)は現在も続くお店。初代は小諸から移り住んだ。
一田旅館と共に、横町商店街の入り口の店舗は道の両側で健在である。
左隣の恵比寿屋旅館は、前掲書によると大正時代の館主小林幸太郎。町の西方停車場より一丁(約100メートル)とある。その横は1935年の地図では郵便局であった。
つるや旅館同様に、こちらも旧軽井沢の旅籠屋からの出店。旧軽井沢からの転出組でも、峠の下ではなく、この道に構えた2軒は長く続いたといえよう。
新油亭は油屋旅館と同じ明治20年前後に追分から出てきた小料理屋。油屋の一字を取って名前に入れたという。
高見屋そば店は「高見屋商店 本店は新軽井沢、支店は旧軽井沢 鮮魚店」が元か(「かるゐざわ」より)。
「まるほん」近くの「高美亭」そばはどちらも「たかみ」と読むようだが、今回使用した地図には両店が載っている。その後高笑亭のみとなった様。
魚吉
歴史は不明。元は魚屋で現在は魚主体の小料理屋。
林米店(後にはやしや)
武田自転車の持ち家(隣?)を借り受け出店。食糧品の統制制度が敷かれた折、酒か米のどちらかの選択を迫られて、米を選択。現在も「はやしや食料販売店」として同じ場所に立派なお店を構えている。
写真右の看板には「米穀食品販売」と書かれている。
林百貨店
初代は滋野(現東御市)の出身で、八百福商店の看板を挙げた。1952年に「林百貨店」と改称。多様な商品を取り扱う。横長であった商店がコンパクトになり、隣の更地が店舗募集となっていた。かなり広い敷地だ。
武田自転車も古く、駅前のこの場所の他に愛宕山入口にお店を持っていた。
1953年に武田自動車整備工場として法人化、60年代に横町商店街から、本通りに移転。2003年に「Cafe & Grill Kitchen カスターニエ」に改装。現在はコワーキングスペースも運営している。
以上が軽井沢駅前商店街の過去と現在である。書くに際し『新軽井沢の歩み』(新軽井沢区史編纂委員会編)を参考にした。
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