<大物渡欧 二> 
 
三月に入ると今度は松岡洋右外相が、ベルリンを訪問する。それまでの日独防共協定、日独伊三国同盟の調印においてもドイツでは、駐独日本大使が代理でサインしている。日本とナチスの首脳による直接の会談は初めてのことであった。したがってドイツ側の歓迎も、空前のものとなる。 
 
随員は阪本瑞男(さかもとたまお)欧亜局長を主席とし、外務省からは他に加瀬俊一秘書官、長谷川信一調査官、法眼晋作事務官、さらに陸海軍代表、満鉄理事、国会議員等総勢十二名から成り立っていた。そしてドイツ行きにもかかわらず、どういう訳かロシア語の通訳として、外務省の野口芳雄が加わった。 
 
一行に対し満州里では、大臣専用のサロン付き特別車両と、随員専用のコンパートメント車が連結された。松岡はシベリア鉄道で移動する連夜、随員達をつかまえては、深夜まで独演をぶった。途中モスクワでスターリンと会談した後、独ソ国境に到着したのは三月二十五日早朝であった。 
 
片田舎のドイツ側の駅は照明を施され明るく照らし出されて、構内には寸分の隙間がないほど、日独の国旗が掲げられていた。大使館からは大島大使の代理として、佐久間信公使が待ち受けた。そしてドイツ側も後の駐日大使、スターマー特使以下が出向いた。外相の乗った列車が到着すると、国防軍によって君が代が演奏された。ドイツは盛大に日本の外相を出迎えた。 
その際のドイツの記録映像はこちら
 
列車を乗り換え、一行がベルリンの長距離列車ターミナルであるアンハルター駅に着いたのは翌二十六日であった。リッベントロップ外相自らが駅頭に待ち構えた。日本人は全員、用意されたオープンカーに分乗し、宿舎となる迎賓館ベルビュー宮に向った。街灯には日独の国旗が掲げられ、通りでは公称三十万人ものベルリン子が、国旗を振って、いがぐり頭の同盟国の外務大臣を歓迎した。 
 
翌日松岡は、さっそくヒトラーと会見する。ドイツの指導者は冒頭松岡に対し、日本からの長旅の労をねぎらう。松岡はこれに答えて
 
「今回の旅行は元気でやってきたが、特にシベリアを越す時には外部の世界から全く連絡がなく、わずかに時たまシベリアの地方新聞を見る事は出来たが、世界の動向が全く報道されておらず、まるで休日旅行で遠い田舎へ行ったようなものだった」と長いシベリア鉄道の模様について語った。単調で静かな毎日は松岡にとって、つかの間の静養の時間であったようである。 
 
首相官邸での会談を終え夕刻、両者がベランダに出ると、三月末にもかかわらず、外は小雪が舞っていた。寒空の下、二人を待ちわびていた幾万の市民からは一斉に「ハイルヒトラー、ハイルマツオカ」と歓声が上がった。 
 
ドイツに続いてイタリアの首脳と会見した松岡外相は、枢軸国との友好関係に満足し、鉄路で来た道を東に向け引き返す。四月六日早朝、独ソ国境の駅マルキニアに着く。そこで松岡はドイツ軍のユーゴ進攻を知った。これは松岡にとっても寝耳に水であった。幾度とないドイツ首脳との会談中、そんな話は全く出なかったからである。
 
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イタリア訪問中の松岡外相 中央日本人左側 井上まゆみさん提供。
 
モスクワは十日に発つ予定であったが、往路に続いて交渉をする日ソ中立条約がまとまらない。松岡らは帰国の予定を変更せざるを得なかった。ロシア語の通訳野口を連れてきたことからも 
 
「この条約締結が松岡の訪欧の真の目的であった」という見方が今日ある。
日ソ両国が漸く合意にこぎつけたのは、十三日のことであった。調印を終え、汽車に乗り込むためクレムリンを去ろうとする松岡を、スターリンは「まあ一杯」と引き止める。かれは駅長に直接電話をかけ、こともなげに国際列車の発車を遅らせた。 
 
その後、遅れた列車が松岡一行を乗せ発車しようという時、スターリンがモスクワ駅まで見送りにやってきた。階段を使う時間がないためか、この巨人は線路をまたいで、松岡の立つプラットホームにやってきた。そして
「俺はアジア人だ。おまえもアジア人だ」と松岡に抱き寄った。日本の外相はソ連からも独特の歓待を受けた。 
 

 <独ソ戦>
 
一九四一年一月七日、建川美次(たてかわよしつぐ)駐ソ大使は
「ソ連は日ソ同数の相互査証発給は面白からずと、交渉を難しくしている。日本側は同様な場合、すぐ応じているにもかかわらず、かれらは赴任の決まった外交官のビザの発給すらも遅らしている」と本国に報告した。日本側が日ソ同数の相互発給を目指しているのに対し、ソ連側は忠実な実施をせず、やや強い立場にある事が分かる。
 
ところが松岡外相による中立条約締結で、日ソ関係は改善された。六月一日、日ソの間で通過査証発行の問題を解決するため、相互簡素化に関する取決めが成立する。これは滞在権を伴わない通過査証に限って、お互い出先の公館限りで発給を行うというものであった。
 
日本側はニューヨーク総領事館が、ソ連側はドイツ大使館が窓口となった。そしてドイツから帰国する邦人は、ベルリンのソ連大使館で(モスクワに書類を回されることなく)通過査証を、入手出来ることになった。欧州戦争の勃発で、ソ連人は大西洋を経由しての、アメリカへ行く道をふさがれていた。よって日本を経由してのみ、ソ連の外交官はアメリカと行き来出来た。相互の通過査証発給はソ連にとっても有益なものであった。
 
一方欧州の戦争は二年目に入り、長期化の様相を呈してくる。ドイツに単身留まる邦人は、妻子を呼び寄せる事を希望し、外務省も同意した。こうして先に大島と共に単身欧州入りした内田藤雄書記官夫人の安子、佐久間信公使夫人のアリスらが、ソ連の通過査証を申請する。さらに先の欧州戦勃発で、引き揚げた婦女子の中からも、再度欧州に向かおうとする人もあった。
 
シベリア鉄道による日欧間の連絡が不可能になるのは、日ソ間の通過査証発行の簡素化が決まって間もない一九四一年六月二十二日、独ソ戦の開始によってである。ドイツもソ連と友好を保つという日本の期待に反し、ヒトラーの軍隊はソ連国境を踏み越えた。同時に欧州に向うため、もしくは帰国のためにソ連のビザを待つ沢山の邦人たちの夢は砕けた。
 
その時ドイツとソ連を結ぶ鉄道は、ドイツの進攻の意図を隠すかのように、開戦直前まで全く通常通り、走り続けていた。ドイツはソ連に赴任する外交官も、直前まで何事もないようにベルリンから送り出した。かれらは国境の手前で、ドイツ軍により列車から降ろされ、周囲から完全に隔離されていた。開放されたのは独ソ戦が始まってからの事であった。ドイツ側の対ソ奇襲作戦隠蔽工作の一端である。
 
モスクワに向かう最終列車がベルリンのツォー駅を発ったのは、六月二十日午後六時半であった。同盟通信社のフランス特派員であった入江啓四郎とその妻、及び大鈴軍医中佐らが帰国のために乗り込んでいた。列車は翌二十一日朝ソ連領に入り、モスクワに着いたのは六月二十二日午後四時であった。この時すでに両国は、交戦状態に入っていた。
 
ベルリンには東京からクーリエとして書類を運んできた加藤、緒方両陸軍大尉らが取り残された。またモスクワの日本大使館に勤務していた谷照夫書記生は、バルカン諸国出張中に開戦に出くわし、モスクワには戻れなくなった。谷はトルコを経由してベルリンにたどり着き、そのままそこで勤務に就くことになる。この三人については後に、別のところで取り上げる。
 
また軍事使節団として滞欧中だった陸海軍関係者のうち、山下奉文中将以下の陸軍軍人は六月十七日にベルリンを発ち、日本に向った。独ソ戦が始まったとき、かれらは運良くすでにモスクワと満州の中間にいた。開戦の知らせが一行の乗るシベリア鉄道の車中に伝わるや、乗客の中のドイツ人は列車を降ろされ、どこかに連れ去られた。一方海軍関係者は独ソ戦の開始時期を見誤り、ベルリンに取り残された。
 
フィンランド公使館付武官秘書として赴任の途中だった入沢二三郎は、モスクワで開戦を知る。よってそれより先に行くことが出来ず、日本に引き返さざるを得なかった。このように独ソ戦はそれまで日欧間を行き来していた邦人を、強引に両側に振り分け、以降はかれらの移動を許さなかった。
 
また海上輸送も不可能な折、ドイツの兵器をシベリア経由で送る事で、欧亜の輸送の改善を目指していた日本軍にとっても、この開戦による影響は大きかった。
満州里のソ連の鉄道代表は

1、開戦後も国際列車は従来通り運転する。
2、東行(日本向けー筆者)荷物は満州里に到着した分は満鉄に引き渡す。
3、西行荷物はドイツ向け以外のものは引き受ける。
 
と説明した。かろうじて日本からの貨物の輸送路は残されたものの、輸送費、保険料の調整で殆ど実行に移されなかった。
 
また新聞社からの問い合わせに対して、日本の逓信省は独ソ開戦当日
「(欧州向けの郵便は)ポルトガル経由が唯一の残された道である。但しアメリカまたは南米経由となるため、今までより差し押さえ等の多くなる覚悟が必要」と答えた。それでも郵便は欧州に送ることが出来た。
 
第二部以上

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