年に坐禅1800時間!(「裸の坊様」ネルケ四方さん)
知人から、読み終わった『裸の坊様』(ネルケ無方著、サンガ新書)
をもらった。2時間ぐらいで読める。
不思議と気持ちが解放される本だった。
ネルケ無方さんは、ドイツ人の曹洞宗僧侶で、
紆余曲折を経て、今は兵庫県の安泰寺堂頭(住職)だ。
ド田舎にある安泰寺では、広大な畑で自給自足をしている。
お釈迦さまは弟子に一切の生産活動をするなと言ったが、
そんなことは承知の上で、安泰寺では自給自足をやっている。
「ただ生きる」「ただ坐る」「生活が修行」といった物言いは、
頭でっかちな私は好きではないのだが、
ネルケさんの本で読むと不思議と説得力がある。
と思うのはネルケさんがイケメン西洋人だからではなくて、
徹底的に自分の体験にもとづいているからだろう。
言ってることとやってることが同じ人というのは、ほとんどいないが、
お坊さんもその例外ではない。
その点で、ネルケさんは自分でやってる人(と著書からは見える)
なので説教くさくない。
だってね、安泰寺ではこんな生活をしてるんですってよ。
朝3:45に起床、4~6時に暁天坐禅、
食事、掃除、農作業、経典の勉強、
たぶんそのあとまた坐禅
(「年間1800時間坐禅をする」とあったので、
1日平均4~5時間だ!)
食事の材料は99%自分たちで作ったもので
玄米ご飯+味噌汁+野菜のおかず2品が基本
さらに、5日間の摂心(ひたすら坐禅する期間)は
「死んだほうがまし」と思う人もいるそうだ。
「坐禅のまま、坐蒲の上で死んでみようじゃないか」
と思えれば、もう何も怖くない、とネルケさんは言う。
これは「ただ生きる」どころの騒ぎじゃないですよ。
私には絶対に無理。だし、やりたくない。
ピザ食べたい、生ビール飲みたい、夕暮れの銀座を見たい、
となって発狂する前に逃げ帰るだろう。
あと、本書を読んで知ったこと。
・ドイツでは洗礼を受けてキリスト教徒になると、
給料から教会に収める税を天引きされる。
それが嫌なら、クリスチャンやめます、と教会に申し出る。
・ヨーロッパには「キリスト教の禅」があって、
牧師や神父が坐禅を組んだりしている。
フーゴー・愛宮(えのみや)・ラッサール神父などが有名
・禅の新興教団「三宝教団」が、フィリップ・カプロウ
などを通じて、影響を持っている。
ドイツの神父・牧師でも入っている人が多い。
法は法ではないから法なのだ(金剛般若経)
『金剛般若経』(岩波文庫、中村元・紀野一義訳註)について
先日は「わからーん」と書いたけれど、
よくよく読んだら、味わい深いお経だと思った。
般若系だけれど「空」という言葉はまだ出てこない。
ひたすら、
「AはAではない、だからAなのだ」
という公式が積み重ねられる。たとえば・・・
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言うところの一切の法は、すなわち一切の法に非ず。
その故に、一切の法と名づくるなり
(現代語訳)
「あらゆる法というものは実は法ではない」と如来によって
説かれているからだ。それだからこそ<あらゆる法>と
言われるのだ。
(同書より)
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文字どおり読むと意味不明で狂いそうになるが、
そのココロはこんな感じでしょうか?
「法」という言葉で表すが、
「これが法だ」などということは意識に上らない、
そういう境地こそが「法」と呼ばれるものだ。
「てへっ。私って天然だから」と意識して
可愛くボケたりする女は絶対に計算ずくなわけで、
天然という意識もなくただ普通にしてるから
「天然ちゃん」と呼ばれるのである。
そういう話? ちょっと違う?
「悟りはない」「涅槃はない」etc.と否定を畳み掛けるのも、
例えば「悟りー迷い」というような区別(概念)のない境地
という意味で、それが後に言うところの「空」らしい。
この本の解説(たぶん中村元先生)には、こう書いてあった。
「例えばドライヴを習うとき、初めは非常な困難を意識し、
一つ一つのことに気をくばる。
しかしドライヴに熟達しきってしまうと、極めて安楽な気持ちで
運転しながらも、決して規則を犯すことがない。
ちょうどこういう境地をめざしていたのである」
習熟して天然ちゃんになるのは並大抵のことではないが・・。
そして、このお経の締めはお馴染みの・・・
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一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、
また、電の如し。まさにかくの如き観を作すべし。
(現代語訳)
現象界というものは、星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、夢や、
電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよい。
(同書より)
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次は、般若経典の中でも初期とされる『八千頌般若経』を
読もうと思って、中公文庫版を買ってみた。

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オウム高橋が読んでいた『呪術の体験』
逮捕されたオウムの高橋克也容疑者のキャリーバッグや部屋に
「麻原の本のほか宗教関連の本」があったと報道されていた。
麻原以外のはどんな本? スッタニパータとか持ってたりして?
と思って報道を調べてみたら、
やっぱりチベット仏教の解説書とか、幽体離脱などオカルティな本だったらしい。
固有名詞が出ていたなかに、カルロス・カスタネダの著書
『呪術の体験 - 分離したリアリティ』
『夢見の技法 - 超意識への飛翔』という本があった。
私はカルロスさんのことを知らなかったけれど、
『カルロス・カスタネダ』という著書もある島田裕巳さんは、
高橋逮捕後にブログでこんなふうに書いていた。
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カルロス・カスタネダは、ブラジル生まれの人類学者で、1968年に刊行された『呪術/ドン・ファンの教え』が、彼がいたアメリカだけではなく、世界的にヒットし、とくに当時勢いをもっていたカウンター・カルチャーの運動に多大な影響を与えた。日本では、カスタネダのことについては、最初に哲学者の鶴見俊輔氏が紹介し、社会学者の見田宗介氏(真木悠介の名で)、宗教学者の中沢新一氏がその著作で取り上げ、高く評価したことから広く知られるようになった。
カスタネダは、オルダス・ハックスリーがLSD体験を記した『知覚の扉』を読んで幻覚性植物への関心をもつようになり、UCLAの人類学の学生として行ったフィールド・ワークのなかで、メキシコのヤキ族の呪術師で、カスタネダがドン・ファンと呼ぶ人物と出会い、そのもとで修行を行うようになる。ドン・ファンは、幻覚性植物などを用いることによって、カスタネダをさまざまな神秘体験に導いていく。
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うわあ、もろカウンターカルチャー。
『呪術』はアメリカで1968年、日本で1972年に出たというからね。
(ウィキではペルー生まれとなってたが)
それから、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』(原書80年)や
中沢新一が著書で触れたというのは、
もろ80年代のニューアカ&ポストモダンっぽい。
個人的には呪術とか神秘体験にまるっきり興味がないので
かすったこともないけれど・・・
いかにも元オウムの人の部屋から見つかりそうな本ではあるし、
現在のスピリチュアル大好き族にも好まれそうだ。
それにしても、いまだに麻原本を持ち歩いてたことは
それはそれで強い信仰心という気がして驚いた。
報道では「いまだ洗脳解けず」「いまだ宗教に依存」となっていた。
私がトチ狂って殺人でも犯したら、
家にある仏教書の山をもって「宗教に依存した女の心の闇」を
八幡洋先生とかに分析されてしまうのかしら。

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