法は法ではないから法なのだ(金剛般若経)
『金剛般若経』(岩波文庫、中村元・紀野一義訳註)について
先日は「わからーん」と書いたけれど、
よくよく読んだら、味わい深いお経だと思った。
般若系だけれど「空」という言葉はまだ出てこない。
ひたすら、
「AはAではない、だからAなのだ」
という公式が積み重ねられる。たとえば・・・
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言うところの一切の法は、すなわち一切の法に非ず。
その故に、一切の法と名づくるなり
(現代語訳)
「あらゆる法というものは実は法ではない」と如来によって
説かれているからだ。それだからこそ<あらゆる法>と
言われるのだ。
(同書より)
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文字どおり読むと意味不明で狂いそうになるが、
そのココロはこんな感じでしょうか?
「法」という言葉で表すが、
「これが法だ」などということは意識に上らない、
そういう境地こそが「法」と呼ばれるものだ。
「てへっ。私って天然だから」と意識して
可愛くボケたりする女は絶対に計算ずくなわけで、
天然という意識もなくただ普通にしてるから
「天然ちゃん」と呼ばれるのである。
そういう話? ちょっと違う?
「悟りはない」「涅槃はない」etc.と否定を畳み掛けるのも、
例えば「悟りー迷い」というような区別(概念)のない境地
という意味で、それが後に言うところの「空」らしい。
この本の解説(たぶん中村元先生)には、こう書いてあった。
「例えばドライヴを習うとき、初めは非常な困難を意識し、
一つ一つのことに気をくばる。
しかしドライヴに熟達しきってしまうと、極めて安楽な気持ちで
運転しながらも、決して規則を犯すことがない。
ちょうどこういう境地をめざしていたのである」
習熟して天然ちゃんになるのは並大抵のことではないが・・。
そして、このお経の締めはお馴染みの・・・
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一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、
また、電の如し。まさにかくの如き観を作すべし。
(現代語訳)
現象界というものは、星や、眼の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡(うたかた)や、夢や、
電光や、雲のよう、そのようなものと、見るがよい。
(同書より)
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次は、般若経典の中でも初期とされる『八千頌般若経』を
読もうと思って、中公文庫版を買ってみた。

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