釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -52ページ目

めちゃくちゃ面白そう『新アジア仏教史3 仏典から見た仏教世界』

春秋社の『シリーズ大乗仏典』を3冊読んだところで、『新アジア仏教史』(2010年、佼成出版社、全15巻)という別のシリーズに浮気をする。

3巻の『仏典からみた仏教世界』がすごく読みたくなったからだ。


書店で見つからなかったけれど

仏典からみた仏教世界 (新アジア仏教史03インドⅢ)

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NHKスペシャルのオウム特集はどうだったかな

5月26-27日にやったNHKスペシャル・オウム真理教は、
ネットのNHKオンデマンド(有料)で、見られるようだ。
http://www.nhk-ondemand.jp/program/P201100084300000/index.html#/0/0/


仏教ファンとしては、胸をなでおろす内容ではあった。
一番気にかかる、果たしてあれが仏教あるいは宗教が内包する
危険性を露呈したのか?ということについては、
少なくともあの番組が報じた事実からは「そうではない」と思った。
(元オウム信者や裁判の本とか読んでないので拙速には言えないけれども)


番組が発掘した700本のテープや上祐ほかのインタビューによると、
麻原は90年に熊本の土地を取得した時点で、
「武器の製造拠点にする」のが目的だったそうだ。


麻原がヨガ道場を作ったのが84年、宗教法人になったのが89年だから、
かなり早い段階から、はっきりと殺戮を意識していて、
その手段として仏教を使ったに過ぎない、と。
使えれば、たぶん共産主義でもイスラム教でもエコロジーでも

何でもよかったフシがある。ちょっとつまらなくもある話だ。


最初の信者の死亡を隠したことについて番組で記者役の萩原聖人が
「それって企業犯罪と同じじゃないですか」と言っていたが、
そのぐらい典型的で陳腐な構造がそこにあった。
(と、描かれていた)
『律に学ぶ生き方の智慧』(新潮選書)で佐々木閑先生が書いていたが、
麻原が言ってること(教義)よりも、やってること(組織運営)が

組織が狂うパターンであるようにも思った。


「ならでは」の要素があるとすれば、

・あの当時、インド&チベット+サブカル+オカルトが人を集めやすかった。

・人は宗教に騙されやすい

・宗教(法人)には警察が立ち入りにくい

ということはあるのだろう。


あの当時、「私だってオウムに入っていたかも」的な言い方がよくされたが、

私は絶対入らないだろうと、改めて思った。

教義云々は別として、麻原が歌う「♪ヴァジラヤーナ、ヴァジヤラーナ」の

南米風な曲想に付いていける人は、やっぱり未熟すぎる。ふつう笑うだろ。


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菩薩はなぜこんなにメジャーになったのかしら?

「菩薩」というのが、どうにもわからない。

日本のお寺に行くと菩薩だらけで、衆生の願いを何でもかなえて
くれるらしく、如来以上に信仰を集めている。


ところが大人になって初期仏典(阿含)を読むと、
そういうスーパー菩薩は出てこない
(修行中というような意味で単語は出てくる)。


いったい、何がどうなって、
大乗仏教では菩薩はメジャーな存在になったのか?



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
ガンダーラの菩薩は、こんな人間らしい姿(ギメ美術館)



『シリーズ大乗仏教3』の6章「菩薩と菩薩信仰」は
そのへんのことを書いてある論文だった。
筆者は勝本華蓮さん、あの『尼さんはつらいよ』を書いた人だ。


菩薩=覚り(bodhi 菩提)+生き物(satta/sattva 有情)
一般的な定義は、

菩提を求めていて、しかも菩提を得ることが確定している有情」。


素人向けの仏教書に書いてある説明などを見ると、
<最初はふつうに「修行者」の意味だった>とあるが、
勝本さんはこれに疑問を呈している。


パーリ語文献を細かく読んで、菩薩という単語の使い方から
それを論証している。
その部分のメモを作るのは気が遠くなるので、
結論部分で「えっそうなの?」と思ったところだけ。


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菩薩の語が成道前をさすと考えられたのは、

「まだ正覚を得ない菩薩の時」という句が
四部経典に頻出するためであるが、その菩薩の語は後代の挿入である
そして菩薩が修行者と考えられたのは、釈尊の前生を説く
ジャータカ(本生)物語における徳行を菩薩行(波羅蜜)の実践とみなすからであるが、そう規定したのは註釈書である



もともと菩薩は智慧のある特別な存在であり、並みの人間ではないのである、


(細かい検証があった後)


南方上座部正統派(四部伝持者)に限れば、菩薩と利他とは無関係である。
しかし、全仏教世界で見れば、菩薩は利他をする者として登場し、
原義は「覚りをもつ有情」であった可能性が高い
釈尊は生まれる前から覚っていた。そう考えると、菩薩思想の展開が
すんなり説明がつく。
逆に、そうでなければ初期大乗仏典でいきなり神話的な菩薩が登場した
理由が説明できないであろう。


(同書より)
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パーリ語がわからない私には、この解釈が妥当なのかどうかも
まるでわからないが・・・後代で挿入とか、困っちゃいますよねー。


たしかに、「菩薩=覚り+生き物」なんだから、
「覚りを求める生き物」でなくて「覚りをもつ生き物」でも
別に言葉上はおかしくない、という気もする。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  

しまいにはこんな姿に。浄瑠璃寺の馬頭観音菩薩

釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
唐招提寺の千手観音菩薩。もはやヒンズー教みたい・・。

そのうち、観音菩薩がいろんなものに変身できることになって
十一面観音やら千手やら馬頭やらがたくさん出てきた日には
「そのほうが楽しいから」という動機じゃないかと思えてくる。
お寺のスポンサーも、仏師・仏画師も、参拝者も、
似たような如来像ばかりじゃ飽きちゃうでしょうし。



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