菩薩はなぜこんなにメジャーになったのかしら?
「菩薩」というのが、どうにもわからない。
日本のお寺に行くと菩薩だらけで、衆生の願いを何でもかなえて
くれるらしく、如来以上に信仰を集めている。
ところが大人になって初期仏典(阿含)を読むと、
そういうスーパー菩薩は出てこない
(修行中というような意味で単語は出てくる)。
いったい、何がどうなって、
大乗仏教では菩薩はメジャーな存在になったのか?
『シリーズ大乗仏教3』の6章「菩薩と菩薩信仰」は
そのへんのことを書いてある論文だった。
筆者は勝本華蓮さん、あの『尼さんはつらいよ』を書いた人だ。
菩薩=覚り(bodhi 菩提)+生き物(satta/sattva 有情)
一般的な定義は、
「菩提を求めていて、しかも菩提を得ることが確定している有情」。
素人向けの仏教書に書いてある説明などを見ると、
<最初はふつうに「修行者」の意味だった>とあるが、
勝本さんはこれに疑問を呈している。
パーリ語文献を細かく読んで、菩薩という単語の使い方から
それを論証している。
その部分のメモを作るのは気が遠くなるので、
結論部分で「えっそうなの?」と思ったところだけ。
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菩薩の語が成道前をさすと考えられたのは、
「まだ正覚を得ない菩薩の時」という句が
四部経典に頻出するためであるが、その菩薩の語は後代の挿入である。
そして菩薩が修行者と考えられたのは、釈尊の前生を説く
ジャータカ(本生)物語における徳行を菩薩行(波羅蜜)の実践とみなすからであるが、そう規定したのは註釈書である。
もともと菩薩は智慧のある特別な存在であり、並みの人間ではないのである、
(細かい検証があった後)
南方上座部正統派(四部伝持者)に限れば、菩薩と利他とは無関係である。
しかし、全仏教世界で見れば、菩薩は利他をする者として登場し、
原義は「覚りをもつ有情」であった可能性が高い。
釈尊は生まれる前から覚っていた。そう考えると、菩薩思想の展開が
すんなり説明がつく。
逆に、そうでなければ初期大乗仏典でいきなり神話的な菩薩が登場した
理由が説明できないであろう。
(同書より)
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パーリ語がわからない私には、この解釈が妥当なのかどうかも
まるでわからないが・・・後代で挿入とか、困っちゃいますよねー。
たしかに、「菩薩=覚り+生き物」なんだから、
「覚りを求める生き物」でなくて「覚りをもつ生き物」でも
別に言葉上はおかしくない、という気もする。
しまいにはこんな姿に。浄瑠璃寺の馬頭観音菩薩
唐招提寺の千手観音菩薩。もはやヒンズー教みたい・・。
そのうち、観音菩薩がいろんなものに変身できることになって
十一面観音やら千手やら馬頭やらがたくさん出てきた日には
「そのほうが楽しいから」という動機じゃないかと思えてくる。
お寺のスポンサーも、仏師・仏画師も、参拝者も、
似たような如来像ばかりじゃ飽きちゃうでしょうし。

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