釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -141ページ目

笑うほどムシのいい極楽(「世記経」2 鬱単曰品)

長阿含の中で後期に成立したらしい「世紀経」、

第二品の「鬱単曰(うつたんわつ)品」を読みました。


昨日、第一品が法華経のようにハデと書きましたが、二品「鬱単曰品」は、
これほとんど大乗の浄土経(無量寿経・観無量寿経)ですよ。

大乗に移行する原初形なのかな・・。
阿弥陀仏は出てこないけれど、
「こんな世界あったらいいな」という極楽願望がそっくり。

しかも、あまりにムシのいい願望で笑えます。


須弥山の周りには4つの大陸がありますが、
鬱単曰は須弥山の北側にある四角い大洲です
(後世には北倶盧洲という表記になったみたいですね)


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  北倶盧洲と書いてある大陸が鬱単曰品


四角い大陸なので住んでいる人の顔もみんな四角形(笑)、
住民は全員見た目が20歳ぐらいで、同じ顔で見分けがつかず
髪は紺色、歯は真っ白、髪は眉のところで揃っています。
全員が仁鶴や渥美清なのでしょうか。


みんな鬱病みたいな地名でありながら、
その逆で、鬱単曰は最上の極楽のような土地なのです。


地には花や果実があふれ、蚊・蛇・虎のような悪獣がいない。
種をまかなくても自然に米が実り、釜の下に置くと自然に飯が炊け、
果実の中には器や楽器や衣服があって、

しかも樹が自然に体を曲げて取りやすいようにしてくれる
衣服などいくらでもあるから、誰の所有物などと気にせず好きなだけ使える。

全員同じ顔で私的所有がないとは、共産主義の怖い夢のようでもありますが。


欲しいものが自動的に出てくるという意味で頻出する
「自然に~」「自~」という言葉は、
解説によると浄土系仏典の仏国土の描写でも頻出するそうです
「因果法則を超えた不可思議な現象」(ex.種をまかずに米が実るなど)
という、仏教にあるまじき「因果無視」の世界が極楽なのです。


一番笑ったのは、以下のくだりです。


もしこの地の人が色欲をもよおした場合、
女をじっと見つめて、そのまま立ち去ればよい。
すると彼女が勝手に後をついて、樹園にやってくる

もし彼女が血縁者だった場合は、木は曲がって隠してくれないが、
血縁者でなければ木が曲がって目隠しになってくれるので
その陰で一両日または7日間、思いのまま色事を楽しんでよい。


しかも子供ができちゃった場合、7-8日で生まれるので、
街道の四辻に捨て置いて立ち去ればよい
すると通行人がみな子どもに指を吸わせ、指から乳が出て、
7日で勝手に育って大人になる。


おいおいおい、あんまりムシが良すぎやしないかい!?

ナンパは100%成功、子供ができても捨てればよい。
煩悩が苦の源だといくら説かれても、
これが大衆の偽らざる望みというわけですねー。


浄土極楽願望は、インドにも古来からあって
『カウシータキ・ウパニシャッド』によると
梵天世界に入れば500人の天女が向かってくる、
さらに極楽に行けば7000人の天女と遊び放題だそうです。
(岩波文庫『浄土三部経』下巻解説より)

弥勒のいるトソツ天でも500億の天女がかしずいてくれるし、
そういえばイスラム教のコーランでも、
天国にいけば黒い瞳の処女72人とやり放題なんですよね。
古今東西、殿方の考えることは同じですな。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  日本橋三越ロビーの巨大天女像。蛇女ゴーゴンのよう。




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須弥山とキンキラ世界(世記経1)

『現代語訳 阿含経典 長阿含』、最終巻の6巻に突入しました。
ふー。


6巻には「世記経」という独立したお経(十二品)が収められていて、
何の知識もなく読み始めたのですが、
要するに仏教の宇宙論や世界観を記したお経だったんですねー。

三千大世界とか須弥山とか地獄とか。

お釈迦さまが世界を説明するという体裁になってはいますが、
仏教のというより、当時の古代インド一般でこう考えられていた、
という世界観です。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


パーリ語に対応するお経がなく、たぶん後世(BC1~AD2世紀)の
部派仏教時代に成立したのではないか、と解説にありました。

第一品「閻浮提洲品」(閻浮提洲=インド亜大陸を思わせる三角の陸)
を読んだ素人的第一印象は、
わあ法華経みたいにキンキラキン、ということでした。


法華経が描く世界は鳥や花や金・銀・瑪瑙・水晶でできたスワロフスキー的世界で、
初期仏典にそういうキンキラ世界は登場しないので、
いつからそうなったのだろうと思っていました。


ですが、新しいとはいえ初期仏典・阿含経典に含まれる「世記経」は、
たとえば須弥山には七宝でできた階段があり、
金の塀に銀の門、水晶の塀に瑠璃の門etc.があり、
その欄干は瑪瑙の縦木なら赤珠の横木etc.であり、
さらに欄干の上に宝玉の綱飾りがあって
金の網には銀の鈴、水晶の網には瑠璃の鈴・・・・
とまあ、うっとりするような世界が描写されていたのでした。


これでも法華経に比べればまだ地味だけど、

いちおう女の常として光り物は好きなので、読んでいて楽しいです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
私の法華経イメージはベルサイユ宮殿における村上隆展。


阿含経典の他のお経では
糞掃衣を着て座って話したり乞食をしてる地味な光景ばかりだったのにねえ。


仏教というか古代インドの宇宙観は、

『須弥山と極楽』(講談社現代新書)という名著で十分わかると思われます。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  
おすすめ。

須弥山と極楽 -仏教の宇宙観- (講談社現代新書 (330))


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人に何かを説くことの躊躇(長阿含29経「露遮経」)

週末になって、心底嬉しい。
ようやくお釈迦さまにゆっくり出会える時間がきた気がします。
むかしはこんなに週末が嬉しくなかったのに、
いよいよ労働者失格に近づいているようです。


本日は阿含経典・長阿含29経「露遮経」です。以下の訳文と注釈は、
いつもの『現代語訳 阿含経典 長阿含』(平河出版社)の第5巻より。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  釈尊まみれ


お釈迦さまが説法をして名声を得ているらしいと聞いた
露遮というバラモンが、こういう見解をいだきます。


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沙門やバラモンは多くの善法を知り、多くのことを悟っても、
他人のために説くべきではない。
ただ自分で知っているだけにとどめよ。
他人に説いてどうなるのだ。
それはたとえば、ある人が古い牢獄を壊したのに、
あらためて新しい牢獄を造るようなものである。
これこそ邪悪で不善なあり方だ

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「新しい牢獄を造る」。
まずもって、この見解が本質を突いていると思います。


自説を説いたり、主張したり、小説や評論を書いたり、
ともかく頼まれもしないのに発語することは、
原理的に何かを排除して「新しい牢獄を造る」ことを伴うし、
基本的に下品な行為である。
良心的な物書きの人はそういうふうに言います。
こうして書いてるブログなんて下品の極みです。


今は自己表現が偉いみたいな下品な時代になりましたが、
古代インドは「沈黙が偉い」という時代であったようです。

だいたいシャカムニのムニは「沈黙の行者」という意味だそうですし、
当時は沈黙行といって一生黙っているという修行もあったそうです。


阿含経典の他のお経では、
仏弟子の阿難が在家と関わりすぎ、おしゃべりしすぎだってんで、
神々に注意されるようなのもありました。


で、上のような露遮バラモンの見解に対して、
「それは悪しき見解」だといってお釈迦さまが反論するのです。


要約すると、自分の目的さえ達せず煩悩を抱えたままなのに
弟子に説くような輩はダメである。
けれども、道を知った如来がそれを説くのは、
人を救う功徳、善き行いだと



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  釈尊まみれ

この本の解説では、
教えを説くことの意義が極めて積極的に説かれており、
説法に対する躊躇や、梵天勧請(梵天さんが人に説くように
勧めたから説法しますという神話)の故事すらも見えなくなる

と書かれています。


もともとお釈迦さまは人を救うつもりで悟りを開いたわけではないので、
救済命の大乗仏教から見ればそこが「冷たいんじゃないの?」となりますが、
むしろお釈迦さま時代のベクトルは逆だったんじゃないですかね。

「釈迦族のあいつは、苦行を途中で投げ出すような根性ナシなのに、
人に教えを説いたりしてチャラチャラしやがって」と、
周りにも言われるし、自分でもその躊躇があって、
一種の言い訳として「いや梵天さんに勧められましてね」ということに
しておいた・・・・と私は思うのですがどうでしょう。


仏教に限らず、躊躇・逡巡なく自己表現できる人を私は信用できません。

だからお釈迦さまは信用できます。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  釈尊まみれ

この本の解説で、訳者の丘山新先生が、
漢訳「露遮経」にはないけれどパーリ語「ローヒッチャ経」の
終わりに素晴らしい一段があるので紹介しておこう、として
以下のように引用されています。


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ゴータマよ、あたかも地獄の深淵へ堕ちんとする人を、
髪を掴み救い上げ、地上にしっかり立たせてやるように、
地獄の深淵に堕ちんとする人は、世尊ゴータマにより、
救いあげられ、地上にしっかりと立たされる

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