猫に仏性はあるか
正直なところ、人間より猫のほうが好きかもしれないし、
生物として格が上であると尊敬しています。
ウチの猫をぼーっと見ていて、ふと考えたのは「猫に仏性はあるか?」。
「犬に仏性はあるか」は、禅の有名な考案として、『無門関』にも出てきます。
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ある僧が趙州和尚にたずねた。
「狗子に還って仏性有りや無しや」
趙州和尚は答えた。
「無」
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大乗仏教でいう「あらゆるものに仏性はある」はずなのに、
「無い」と答えたのは、
「有・無」を超越することの重要性をうんたらかんたら、
というのが教科書的な解釈でよろしいのでしょうか。
(あと「南泉斬猫」という、
シージェパード系の人が怒りがちな猫斬りの考案もあります)
では猫には仏性があるかしら。
客観的に見れば、こいつは餌のこと寝ること遊ぶことしか
考えてない「無明」状態です。
ですがウチの子を見ていると、どうも仏性がある気がしてきました。
それも、大乗でなくて初期仏教的な仏性が・・・。
===== 猫の(初期仏教的)な仏性 ============
・犀の角のようにただ独りで歩む習性がある。
・猫ざぶとんの上で、1日の半分は瞑想を楽しんでいる。
・托鉢を受けて餌をもらっても、礼を言う気配もない。
・番犬のような「労働」がぜんぜんできない。
でも「お世話をさせて頂いてる」気にさせる。
・飼い主の動向に執着がなく、超然としている。
・盲導犬といった積極的な菩薩道では、猫は何の役にも立たない。
だが尊敬できる生き方を衆生に示している。
・仏典で、よくお釈迦さまは深夜に独りで林を徘徊しているが、
猫も同じようなことをする(歩行瞑想か)。
・しょっちゅう毛づくろいして、もろもろが整えられている。
・ 生活が都市型である。
・ たぶん何も考えていない。
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猫好きはテーラワーダ仏教好きで、犬好きは大乗仏教好き、
という仮説を思いついたのですが、当たってますかね?
そういうわけで、
あらゆるものに仏性があるとは別に思いませんが、
「とりあえず猫にはある」と結論づけました。
うちの猫画像がなく、よその子の写真を適当に拾ってすみません。
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宗教を知らない政治家は余計なことを言わないでほしい
ひきつづき『サンガジャパンVol.3』について。
「浄土真宗は仏教か、超仏教か」という対談を、
真宗僧侶の釈徹宗さんと中観派の宮崎哲哉さんがやっていて、
これも刺激的だったのですが、
本日も込み入ったことを書くパワーがございませんので
とりあえず壮大なコピペをしておこうかと思います。
その対談の中で、2009年11月に小沢一郎幹事長(当時)がして
小さく波紋を呼んだ「日本は死んだらみんな仏様」発言に触れています。
宮崎さんは「どこをどう訂正したものかと困惑するほどに滅裂な仏教理解」
と批判し、仏教界からなぜ反論が皆無なのか、と言っています。
一方、釈さんは「死んだら仏」が日本の来世観や死生観を支えて
きた部分もある、と一定の評価をしています。
ただしここで言う「仏」と「ブッダ」が同じ意味かというと怪しい、とも。
私も当時、ブログに宮崎さんに近いことを書いたりもしました。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10407627352.html
で、宮崎さんの発言中で、この件について読売新聞関西版に
末木先生が寄稿されていると知り、いまさらですがコピペしてみました。
「日本人は仏教がなんでもありのルーズな宗教と思いがちであるが、
決してそんなことはない」。
まったくその通りだと思います。
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見えざるものへ―末木文美士 「死ねば皆、仏様」誤解
(読売新聞関西版10年1月28日付)
民主党政権となって、政治のニュースに事欠かない。事業仕分け、沖縄基地問題、日米密約から鳩山献金問題まで、政府と民主党がらみの話題が新聞紙面を賑(にぎ)わせている。その中で、小沢一郎幹事長のキリスト教発言もいささか波紋を呼んでいる。
ことの起こりは、昨年11月に小沢氏が高野山を訪れたことで、それ自体異例のことであったが、それよりも大きな問題となったのはその後の記者会見だった。そこで氏は、「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ」などとキリスト教を批判し、仏教を持ち上げた。それに対してキリスト教団体が抗議をすると、改めて会見で「(仏教では)死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか」などと述べて撤回を拒否し、12月にも同趣旨の発言を繰り返した。
ちょっと意外なことだが、日本の政治家はしばしば重要な場面で日本の宗教に拠(よ)りどころを求めた発言をしている。中曽根康弘首相(当時)は、国会の施政方針演説で「仏教思想」の「山川草木悉皆(しっかい)成仏」を持ち上げた。森喜朗首相(同)は、日本が「天皇を中心としている神の国」と発言して、批判を浴びた。小泉純一郎首相(同)は、靖国参拝に際して、「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏(神)様になる」などと、その宗教観を披露した。
そのような発言に対して政治的な観点から批判がなされることがあっても、それらが日本の宗教を正しく理解しているかという肝腎(かんじん)の点に関しては、ほとんど検討されることがなかった。
ところが、実はこれらの発言は、いずれも日本の宗教を誤解している。「山川草木悉皆成仏」という言葉は古典に見えない新造語で、正しくは「草木国土悉皆成仏」でなければならない。日本が「天皇を中心としている神の国」と考えられたのは明治の国家神道によるもので、それ以前には一般的ではなかった。人が死んで神となるのは、古くは菅原道真のように、恨みを呑(の)んで死んでいった人だけで、一般の人が神となれるわけではなかった。
それでは、小沢発言はどうであろうか。それが日本では少数者のキリスト教徒への配慮を欠くという批判や、日本の仏教や神道も、キリシタン弾圧や国家神道に見られるように寛容ではないという批判は随分見かけた。確かにそのような批判はもっともなことではある。しかし、小泉発言にも通ずる「死ねば皆、仏様」という理解も実は問題があることは、あまり注意されていない。
そもそも日本以外の仏教では、仏は特別な存在であるから、誰でも死んだら仏様になるなどということはありえない。それ故、それを仏教の一般的な特徴とすることはできない。日本でも、そのような観念が広く普及したのは近世頃からで、決して古いことではない。近世以後でも、もう一方には悪いことをすれば地獄に堕(お)ちるという観念があり、それが道徳的な歯止めとなっていた。
確かに、誰でも仏となる可能性を持っているという「仏性」の観念は、最澄以後、日本仏教の共通の基盤となった。しかし、それさえも広く受け入れられたのは東アジアの仏教だけであり、東南アジアやチベットの仏教では認められていない。日本人は、ともすれば仏教というと何でもありのルーズな宗教のように考えがちだが、決してそうではない。誤解の上に立った自国賛美はきわめて危険である。
(すえき・ふみひこ 仏教学者)
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ユングのマンダラ理解(「サンガジャパンvol3」その1)
ああ~、変に忙しくて込み入ったことを書くパワーがありません。
『サンガジャパンVol.3』が面白くて、いろいろメモしたいのですが・・。
とりあえず「ユングのマンダラ理解とその限界」、面白かった。
タイトルだけで面白そうでしょう?
ユングによると、精神を病んだ人に、マンダラのイメージが
出現することが多くあったんだそうです。
特に、統合失調症の患者が失見状態ーここはどこ?私は誰?状態ー
にあるとき、マンダライメージの出現頻度が高くなると。
(西欧だから、マンダラを見てイメージしてるわけではない)
密教のマンダラでも、精神障害者のマンダラでも、
同一のパターンが見いだせることから、
「これは全人類に共通する集合的無意識に由来する」
とユングは結論づけました。
たしかにマンダラを見てると、そんな気はしてきますわな。
しかし、筆者(正木晃氏)は、ユングの「個性化」という概念と、
密教マンダラの「自己は迷妄」という空の思想は、
根本的に逆方向だ、それが「ユングのマンダラ論の限界」である
と書いています。興味深いですね~。
めちゃくちゃ端折ってしまいました、
ぜひ「サンガジャパン」の現物を読んでいただきたく思います。
そういえば、南方熊楠もマンダラにハマってました。
最近は、なかばオカルト扱いのユングですが、
河合隼雄を通して村上春樹にも注入されていますし、
根深い人気はあるようですね。
「マンダラを瞑想する目的は、一個の人間と、もっと聖なる存在、
つまりホトケあるいは世界全体(宇宙全体)が、
実は同じものだという認識を、観念の次元でなく体験の次元で・・・」
と筆者は書かれています。
これってお釈迦さま以前のインドにあった「梵我一如」とは違うのでしょうか?
同じなら思想的先祖帰り? 違うならどこが違うのかな?
というのは、今後の課題としてとっておきます。
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