釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -140ページ目

仏教で10円ハゲは治るか?

週末に髪を切りにいきましたら、

ヘアサロンのにぃちゃんに、

「藤山さん・・・・なんかありました?」と、訊かれました。


「ここに、いわゆる・・・10円ハゲが」。


は !?


1か月前には、なかったのです。

にぃちゃんは「ほとんどがストレス性ですよ」

と言うのですが、私に何のストレスがあろうか。


仕事だとか将来不安といった

生きてれば普通にあるモヤモヤを除けば、

物欲ない、人間関係薄い、あんま怒らない、悩まない、

お釈迦様の言葉に従って心の平穏を日々追求してきた

はずではなかったのか?


もとに戻すには、心の憂いをなくす、

仏の道を邁進するしかないのですが、

果たして仏教で10円ハゲは治るでしょうか?



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群盲、象をなでる(世記経5「龍鳥品」)

「世記経」第5品の「龍鳥品」は、
金翅鳥(こんしちょう、ガルダ、ガルラ)が龍を食べる食べない、
という話がずっと続く、妙なお経です。


ガルラはインド神話の光り輝く鳥で、仏教というよりヒンズーの匂いですが、
それがタイ王国の国章だったり、イスラム教国インドネシアの国章だったり
するのは、面白いことです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
タイ王国の国章


龍鳥品のなかで、へー!と思ったのは、「群盲、象をなでる
のエピソードです。
「群盲、象をなでる」は、ことわざ・慣用句として
よく使われますが、もとは仏典に出てたんですねー。
でも解説によると、バラモン教・仏教・ジャイナ教で
広く使われていた比喩だそうです。


どういう比喩かというと、
王様が生まれつきの盲人をたくさん呼んで、
象を触らせて、「象ってどんなの?」と聞いたと。
ある人は鼻を触って「こんなの」と言い、
ある人は腿を触って「こんなの」と言い、
自分が正しいと言い争って、とっくみ合いになったと。
同じひとつの象で、知っている部分が違うだけなのにね、という逸話です。


世の中にある議論は、すべからくこんなものですよね。


それにしても、仏典を読んでいて思いますが、初期仏典は比喩文学。
古代インド人って比喩の天才だね。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  ガルダ



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生々しい地獄(世記経4地獄品)


阿含経典「世記経」12品の中で、一番インパクトがあるのが、
たぶん本日読んだ第4品「地獄品」でしょう。

これは相当に生々しい。たとえば…(以下、『現代語訳 阿含経典』6巻より)


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「(石磨地獄)
獄吏は大いに怒り、彼の罪人を捕まえて熱い石の上に殴り倒し、
手足を伸ばさせ、大きな熱い石で体を抑えつけ、
ぐるぐるとこすりまわすと、骨と肉が粉々になり、膿や血が流れ出る。
苦しみ痛んで泣きわめくが、残された罪がまだ尽きないので、
依然として死なせてもらえない。
長らく苦しみを受けると、石磨地獄を脱出しようとして、
おろおろ駆け回り、救いを求めるが、前世からの罪報に引きずられて、
気づかぬうちにふと膿血地獄にやって来る(そして、各種地獄がつづく)」。

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これって、どう見ても、嬉々として書いてますよね。
サディズムですよね。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~  石磨地獄



「地獄」という発想は以前からあったので、仏教のオリジナルではないし、
最初期仏典「スッタニパータ」でも、各種地獄に触れています。
「スッタニパータ」がお釈迦さま自身の説法に近いとすると、
「鉄の串に突き刺される」「灼熱した鉄丸のような食物を食わされる」
といった地獄譚は、お釈迦さまも説いていたのでしょう。


しかし、この「世記経 地獄品」のホラー的な書きっぷりをみると、
お釈迦さまがこんな脅迫的な説法をしたとは思えないし、
後世の想像力で書いたのでしょうねえ。
「世記経」は対応するパーリ語仏典がないということで、
正体がよくわからないのですが、これも結集で「お釈迦さまから聞いた」
としてまとめたものなのでしょうか?
知ってる人がいたら教えてください。


とはいえ、為になるフレーズもいろいろ発見できます。
たとえば、以下は他の経典でも読んだ気がしますが、耳が痛かった。。


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(仏は比丘に告げられた)

あの人が生まれたとき、斧が口の中にあったのである
自分を斬ることになったわけは、その悪しき口のしわざのためなのだ。
謗(そし)るべきものを誉め、誉めるべきものを謗った。
口が悪しきしわざをしたので、身体がその罪を受けたのだ。
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すいません!しょっちゅう、口の中の斧が暴れています。


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(仏は比丘に告げられた)


そこには三種の使者がいる。
何が三種の使者なのであろうか。
第一は「老(おい)」であり、第二に「病」であり、第三は「死」である。

閻魔王が罪人に「お前は第一の使者を目にしたことはないか」と問うと、
罪人は「私は見ていません」と答える。


王はさらに告げる。
「お前は人間世界にいたとき、老人で、髪は白く歯は抜け、
目はぼんやりかすみ、皮膚は緩んで枯れ、背が曲がって杖をつき、
呻きながら歩き、体はふるえ、気力も衰えた、このような人を見たであろう」。

罪人が「見ました」と言うと、王はさらに告げる。

お前は、どうして自分もそのようになるのだと、自ら思わなかったのか」。
かの罪人は「私はその当時、勝手気ままで、自分では気がつきませんでした」
と答えると・・・

(以下、病・死についても同じ問答が続く)
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すいません! 年老いた親がトロトロしているのを見て、
ちっと舌打ちしたことが、何度もあります。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~


現代においても、「福祉」の必要性を考えるときに、
それは高齢者や病人や障害者やホームレスが「かわいそう」だからではなくて、
「いずれ自分がそうなる、または、なるかもしれないから」というのが

前提なのに、しばしば忘れてしまいますよね。


そのことを閻魔大王に指摘されて、身につまされました。


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