むかつく野郎との、仏道的に正しい付き合い方とは?
みなさん、仕事やプライベートで、すっげー嫌な人と付き合わねば
ならないことってありますよね?
立場が上であるのをいいことに、理不尽で攻撃的な物言いや要求を
してくるような人。
いま、そういう人に叩き起こされて、
ボコボコにぶん殴りたい衝動を感じております。
これを仏道的に正しく解消する論理というのは、
いかなるものでございましょうか??
選択肢を考えてみました。みなさんの場合、どうしてるのでしょうか。
1)怨憎会苦というように、イヤな野郎と会わねばならない苦は
人生のことわりであるから、そういうもんだと諦める。
2)そうやって他人に辛くあたる人は、なんらかの欠落を抱えていて、
それは本人を十分に苦しめているんだから、まあいいじゃないか。
3)そうやって他人に辛くあたる人は、どうせ来世で地獄に落ちるから
まあいいじゃないか。
4)「私の嫌いな人も幸せでありますように」という
慈悲のお経を思い出して心を静める。
5)相手を「理不尽だ」と思うこと自体が、
「自分の考えは正しい」という執着であるから、
もしかして相手が正しいかもしんないね、と考えてみる。
6)そいつがそんな態度に出るのも、それを嫌だと感じる自分も、
もろもろの因果の結果であって、なんら実体はなく無常であるから、
へーそんなこともあるんだね、と他人事のように超然としている。
7) 怒っても自分が苦しいだけで損なので、とりあえず、すべて忘れる。
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クリスマスに一人ぼっちの仏教徒へ
いいんです、私ブディストですから。HaHaHa!
世界的に定番の、痛いジョークですね。
<仏式クリスマス法要 サンタ菩薩供養>という動画で、
一躍名をはせた方といえば、この方、蝉丸Pさん。
その筋では、とても有名な動画だそうですが、リバイバルで。
高野山で修業した、れっきとしたお坊さんで、
ニコニコ動画で布教しているそうです。
私も今年、はじめて知りました。
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人生にはダンマパダ(法句経)だけあればいい
メリークリスマス!お釈迦さまの誕生日もお忘れなく。
ところで、かつての私がそうだったように、
仏教に惹かれながら迷宮に入ってしまう方は少なくないと思います。
理由を考えるに、
・経典が膨大すぎる(キリスト教の聖書のように、これを読めばOK、
というものが決められていない)
・宗派によって言うことがバラバラ。ほとんど真逆の場合もある。
でね、いろいろ読んでみて思うんですけれど、
生きていくうえでは、ダンマパダ(法句経)1冊で十分ではないかと。
世界的にはもっとも有名で、もっとも翻訳されている初期仏典で、
お釈迦さまのほぼ本来の教えが、簡単な言葉で書かれています。
日本では大正時代にようやく翻訳されるようになりました。
現代語訳はいくつかありますが、一番手に入りやすいのは
『ブッダ 真理のことば』(中村元訳・岩波文庫)です。
いっそダンマパダを「仏教の聖書」に認定したらいかが?と思うほど
どこをとっても人生の至言に満ちておるのです。
いくらでも引用できますがランダムに書き出すと、
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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
かれは、われわれに打ち勝った。かれは、われわれから強奪した」
という思いを抱く人には、怨みはついに息む(やむ)ことがない。
心は捉えがたく、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。
その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば安楽をもたらす。
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
こわれた鐘のように、声をあらげることがないならば、
汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。
「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。
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ダンマパダを読むたびに、
カラカラの細胞に、きれいな水が沁みこんでくるような気がします。
言葉が平易なので解説書だって要りません。
これからも私は好奇心からいろいろな仏教本を読むでしょう。
ですが安らかに生きるうえでは、
ダンマパダを丸暗記して日々の言動に生かすこと、あとは瞑想。
これで十分なんじゃねーか?と思います。
岩波文庫945円、瞑想は無料。最良最短最安の道です。

