DV男が仏道で変わるまで(小池龍之介「坊主失格」)
小池龍之介さんの新刊が出ましたね。『坊主失格』(扶桑社)。
小池龍之介さんは、ご存じのとおり『考えない練習』などが
ベストセラーになった若いお坊さんです。
浄土真宗のお寺に生まれながら、宗派仏教に疑問をいだいて
インディペンデントで座禅を教えたり執筆活動しています。
専門家からすれば小池言説に異論はあるのかどうか知りませんが。
今回の『坊主失格』は、自分がいかに酷いヤツだったかという
半生を振り返りつつ、仏道で「変われた」体験を書いたものです。
かなり酷いヤツでしたね、これを読むと。
常に淋しく不安で渇愛に囚われていて、年中イライラして口汚く、
道化、親への反抗と暴力、セックスアニマル、妻へのDV、離婚、
世界破壊願望に自殺衝動…。
そして太宰治、ニーチェ、マルクスと学生運動など、
典型的なものを経て、最後に出逢ったのが瞑想であったと。
ご自身の苦の遍歴を仏教の観点から解説しているところ、
瞑想中の心の動きを主観的・客観的に書かれているところが
体験告白として面白かったです。
そして、現代科学の中で育った、”頭でっかち”な人間が
仏教に帰依する過程という点で、私も身につまされました。
それから「感情の奴隷」という言葉も。
今の小池さんのなーんにもない部屋の写真が気持ちいいです。
小池さん、仏道がなければ自殺したか犯罪者になっていたと思う。
お釈迦さまもそうだったかもしれない。
前に仏教学者の佐々木閑先生が講演で、
青年時代のお釈迦さまを見てると、へたしたら自殺してたかも、と言っていました。
「そういう人にとって、もっとも仏教は必要である。
今の生活で何の不満もなくハッピーな人には仏教は必要でない」とも。
これはまた顰蹙を買いそうな発言ではありますが、私は共感します。
俗世でなんら問題ない人にまで冷水を浴びせて
「目を覚ませ!無知に気づけ!」といって全人類を折伏しようとするのは、
やっぱ余計なお世話だし権力の行使であると、私は思います。
仏典を読んでも、お釈迦さまはほとんど「問われて答える」人でしたしねっ。
小池龍之介さんのウェブサイト「家出空間」
http://iede.cc/
お寺がもったいない
みなさま、初詣は行かれましたでしょうか?
私は、今年は近所ですませました。
近所に小さい都会寺がいくつもあって、普段は行かないのですが、
お正月にはじめて何軒か行ってみました。
そのうちのいくつかのお寺は、本当にもったいない気がしました。
例えばある臨済宗のお寺。やる気ゼロ。
元旦でも人っ子ひとりいなくて、けっこう広い本堂は電気もついてなく、
墓苑販売の打ち合わせ部屋にチラシが張ってあるだけで、
墓苑だけで食いつないでいる感がアリアリでした。
一昨年、日比谷公園に「年越し派遣村」ってできましたよね。
あのNPOは生活困窮者の「駆け込み寺」なんて言われますが、
いまや本物の寺に駆け込んで「本堂で一晩泊めてください」
なんて頼んでも、きっと追い出されてしまうんだろうなあ。
(泊めてくれるお寺もあるかもしれませんが・・)
何年か前に中近東に行ったとき、
モスクで近所の人がゴロゴロ昼寝していたり、
お母さんが赤ちゃんを抱いてベッタリ座って涼んでたり、
オバちゃんたちが編み物しながらしゃべってたりしました。
せめて日本のお寺が、その程度でいいから、
一息つける場所にならないものかなあ。
補助金とかつければ変わるのかしら?
もちろん寺院経営が大変なのはわかるのですが、
全国津々浦々に空いてる本堂があって、
一方で凍死しそうな路上生活の人たちもいて・・・。
意欲的なお寺は頑張って炊き出しとかやっているのですが、
もっと適当な、そのへんのどうってことないお寺が
暑さ寒さをしのげる場所になればいいなと思います。
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仏教版・世界の崩壊ー再生ものがたり(世記経「三災品」)
阿含経典「長阿含」におさめられた「世記経」には、
ほかの部分には記述の少ない初期仏教の世界観……というより
当時のインドの世界観・宇宙観が書かれていて面白いです。
世記経「三災品」も、その最たるもので、世界の崩壊ー再生に関する
荒唐無稽な大スペクタクルが展開されます。
(それはアビダルマ論書や大乗の論書にひきつがれ、
三災を論じたものは多いそうです)
以下は、『現代語訳 阿含経典 長阿含』6巻の、
末木文美士先生の解題より引用・抜粋です。
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インド人の世界観では時間は一方的に流れるものではなく、
永遠ともいえる長い周期をもって繰り返されていく。
通常「四劫」と呼ばれる4段階で、
繰り返しの1サイクルが構成される。
1.壊劫=災害が起こって世界が崩壊する時期
2.空劫=世界が崩壊したまま何もない時期
3.成劫=世界が再び形成されていく時期
4.住劫=世界が形成されてから持続する時期
『倶舎論』などによると、各段階は20劫ずつ続くとされ、
つまり1サイクル80劫(一大劫)。
(1劫・・・1辺1由旬=7~14kmぐらい=の立方体の石を
天人の衣で100年に1回なで、その石が摩滅するよりも
もっと長い時間・・・っていったい何万年なの?)
このように、とんでもない長さのサイクルで世界は崩壊ー再生する。
「三災品」で述べられるのは、
このうち(1)壊劫に起こる3つの災害=火災・水災・風災と、
(3)成劫で起こる世界の回復の過程である。
本経では、この三災の発生の過程をこと細かに記している。
<火災が起こるとき>
この世界の初禅天以下の衆生は、第2禅をおさめて、
みんな光音天に生まれ、それ以下の世界は空っぽになってしまう
↓
そこに大暴風が吹いて海水を2つに押し分け、
海底にある太陽の宮殿を取り出して上空に持っていき、
順次に太陽が7つまで増える(!!)。
↓
光音天より下のものはすべて焼かれてなくなってしまう。
↓
虚空に巨大な雲が生じて大雨を降らせ、大洪水になる。
↓
水が減りながら、徐々に水面の泡が固まって世界ができていく
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ね、荒唐無稽でしょ?
村上春樹の『1Q84』では月が2つでしたが、こっちは太陽が7つですからね。
いろんな宗教には、創世記とか国つくり神話があるものですが、
この三災品は似て非なるもの。印象的なところをメモっておくと
・主体がいない自然現象
神が怒って災害を起こしたり、モーゼが逃げようとしたら海が割れて
道が現れる、といったようなことではない。
たとえば「海を割って、海底の太陽を取り出して太陽軌道に置く」
というのも、誰が取り出したのか主体は書いていない。
・善いことをしたのに災害で世界崩壊
たとえば火災が起こる前、正しい教えを実践した人が、
「身を躍らせて虚空に昇り」、「皆さん、第2禅は楽しい」と叫びます。
それを仰ぎみた人たちが、「私たちにもどうか第2禅の修行を説いて」
と言って、みな正しい行いをして、死んで光音天に生まれます。
で、地獄~人間界~梵天まで、誰もいなくなって消滅したところで
火災が起こるのです。(水災・風災も同様)。
これは、人間の愚行に怒った神様が洪水を起こす「ノアの箱舟」とは対照的。
世界が悪くなって崩壊するのでなく、善行のあと崩壊・・不思議ですよねえ。
・被害者がいない
みんな善行を積んで光音天に行ってしまい、空っぽになった下界で
災害が起こるので、誰も被災者はいない。平和だなあ。
・ときどき挿入される「無常」の教え
善行を積んだあと災害が起こるんじゃあ、「ノアの箱舟」的な
「バチが当たる」的な宗教説話としては機能しないわけです。
ですが、
上記のような大災害の記述の合間に、次のフレーズが繰り返し挿入されます。
「こういうわけでわかるのだ。
すべての作られたものは無常で、変化して壊れ、頼りにならない、と。
形成された一切の存在ははなはだ疑わしい。
世俗を超えて解脱する道を求めなさい」。
無常の例にしちゃ仕掛けが大掛かりすぎないかい?とも思いますが、
当時のインドの一般的な通念や、神話を取り込んで、
仏教の教えに絡めることは多いので、これもその例なのでしょう。
ちなみに、「世記経」の最良の入門書として
『須弥山と極楽 -仏教の宇宙観-』 (講談社現代新書、定方晟著)が
あげられていました。安いし手に入りやすいし。
私も以前読んだときは目が点になったのですが、
もう一度読み直してみようと思います。
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