釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -121ページ目

「私」と「あなた」に違いはあるか(「インド宇宙論大全」3)

『インド宇宙論大全』2章「ヒンドゥー教の宇宙観」の続きです。
(本当に延々とこの本について書いてしまいそう…

書かないと頭に入らないだもの。著作権侵害か?)。

ヒンドゥー教の聖典のひとつ『ヴィシュヌ・プラーナ』の中から、
「バラタ」のエピソードが紹介されています。

私にとって新鮮だったのは、ヒンドゥーの聖典なのに
思ったより仏教と近い、ということです。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
「ラーマヤナ」に出てくるこのバラタと同一人物だろうか?


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(以下は、ほぼ引用、少し省略)

バラタは輪廻のある時点で、みすぼらしい男に生まれ、
王に駕籠かきとして雇われた。駕籠のバランスが悪いので、
王はバラタに
「お前は頑強そうに見えるのに、もうへこたれたのか」と言った。


バラタは言った。
「陛下がご覧になっている私とは何ですか?
私が駕籠をかついでいるというのは正しくありません
地面の上に足があり、その上に脛があり、その上に腹があり・・・
こういうわけですから、どうして私が駕籠をかついでいると
言えるでしょう」


「(あなたという肢体は駕籠の上にあり)、駕籠は(私と呼ばれるものの)
肩の上にあり(略)足は大地の上にあります。
だから駕籠をかついでいるのは、私でもありあなたでもあるのです」


「駕籠のなかに座っている人はあなたと呼ばれ、
駕籠の外にいる別の人が私と呼ばれています。
しかし、私もあなたも、要素(プータ)からなりたっているにすぎません」。


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私の無知のせいかもしれませんが、

まるでお釈迦さまの言いそうなことじゃないですか?
私という実態はない、要素の集合体にすぎない・・・

ここまでは仏教と同じじゃないかと。

ところが、仏教と全然違う部分もあるんです。


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(バラタの言葉)
「要素は性質(グナ)に応じて物の形をとります。
性質は純質(サトヴァ)等からなりますが、みな業(カルマン)に
依存します。業は無明(アヴィディヤ)のうちに蓄積されて、
あらゆる生きものの生存を条件づけます。
一方、精神(アートマン、本来の自己)は不滅で、
「性質」を超え、「根本原質」(プラクリティ)を超越しております

精神(アートマン)にはこのように増も減もないとすれば、
いったいどうして「私はおまえが頑強であるのを見る」などといえましょう。
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ここでバラタは「永遠不滅の”真の自己”=アートマン」を想定します。
ですが、お釈迦さまは「そんなものはない。永遠不滅なものなどない」と、
アートマンを否定したわけです(無我=an-Ātman)


定方先生は、このバラタの話をこのように解説します。


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右の思想はウパニシャッド以来(前8世紀以来)、
インドの伝統となった「梵我一如」の思想を表している。
「梵我一如」の思想は汎神論である。
われわれが考えているような小さな「自我」は真の自我(我、アートマン)
ではない。真の自我は宇宙そのもの(梵、ブラフマン)である。
このことを知らない限り、人は迷いを続け、己れに執着し、苦しみをくりかえす。
サーンキャ哲学でいえば、「純粋精神」(プルシャ)が
「自我意識」(アハンカーラ)を自己と錯覚するところに、苦の起源がある

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釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

ググったら梵我一如さんというアーティストがいるらしい。

その人の作品、ガラスのペンダント1万5750円。何かわかるような。


ウパニシャッド哲学をちゃんと読んでいない私は、
正直なところ、アートマンはもう少し実体ありげなもの、
携帯電話のSIMカードっぽい「核」をイメージしていました。
ですが、これは西欧的な「自我」のイメージに引きずられていて、
もとからインド思想の発想とは違ったようですね。


しかし、そのアートマンさえも否定したお釈迦さまは、
なんと恐ろしい人であったことよ。


同書では、バラタが王に話した面白いエピソードを紹介します。
かいつまんで書くと、町に王の一行が来たときの、
リブとニダーガという2人の会話です。


ニダーガ「象の上にいるのが王で、他が従者です」
リブ「どっちが象で、どっちが王かな?」
ニダーガ「下にいるのが象で、上にいるのが王です。そんな区別もつかないの?」
リブ「下とはどういう意味で、上とはどういう意味かな?」
いい加減イラついたニダーガは、リブに飛びかかって馬乗りになり、
「私が王のように上で、あなたが象のように下にいるんですよ!」。
リブはこう言います。
「なるほど。ところで、どっちが”あなた”で、どっちが”私”なのかな?」


これなんか、禅問答のようじゃありませんか?


ただしウパニシャッドでは、宇宙の根本は「ブラフマン」という中性名詞
だったのが、のちのヒンドゥー教では人格神・ヴィシュヌが根本存在となります。
あのインドカレー屋に貼ってある絵が根本存在だとは、
お釈迦さまの思想とは遠く隔たった感じがします。
まぁ、仏教の側も、のちに大日如来を宇宙の根本とするようになるわけで、
やはり人間は抽象存在では我慢できないということでしょうか。



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神は毎日宇宙を消滅させる(『インド宇宙論大全』その2)

大著『インド宇宙論大全』(定方晟著、春秋社)の
第2章「ヒンドゥー教の宇宙観」を読んでいます。


もうね、頭が狂いそう。
いったい何の話なの!?という記述がこれでもかこれでもかと続きます。
ほんの一節を引用しますとーー


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さて、ブラフマー神の一昼日の終わりに、宇宙の消滅が起こる
すなわち3つの世界(プール、ブヴァル、スヴァル)が火で焼き尽くされる。
3世界の上にあるマハル世界の聖者たちは下界からの熱気に
追い立てられ、その上のジャナ世界に避難する。
3世界が火に融けて大海となったとき、ブラフマー神(実はヴィシュヌ神の具現)は

宇宙の消滅作業に飽いて、大海のうえで、蛇のからだをベッドとして眠り込む
プラフマナー神は一夜眠りつづけて、

夜が明けるとふたたび宇宙の創造にとりかかる
このようにしながらブラフマー神は100年生きるという。
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すごいです。
インドの根本神は、世界を創造するだけでなく、毎日消滅もさせ、
しかも消滅作業に飽きて、さぼって寝ちゃうんですよ。
たぶん創造に比べると、消滅は単純作業で眠くなるのでしょう。



釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

おなじみの図像、蛇の上で寝るヴィシュヌ



しかも、時間の単位がとんでもなく長いのです。
ブラフマーの1日=2カルパ
         (1カルパ=人間の年数だと43.2億年)
ブラフマーの1神年=720カルパ=3兆1104億年
ブラフマーの一生=100神年=311兆400億年!


なぜこの数字を着想したのか皆目見当がつきませんが、
インド人は巨大な数字が好きなのか。
大乗仏典で「億千万の神々が」とか「三千大世界=1000の3乗」と
巨大数字が出てくるのは、ヒンドゥーと共通していますね。


実はヒンドゥー教について、
高円寺のインドカレー屋などに貼ってある怖い絵のイメージ
ぐらいしか持っていませんでした。

すごく乱暴に、バラモン教が後世(定方説ではBC2~3世紀頃?)

から民衆化したもの=ヒンドゥー教、としましょう。


バラモンの聖典「ヴェーダ」に対して、ヒンドゥー聖典は「プラーナ」。
この『インド宇宙論大全』では18あるプラーナ聖典うち、
特に「ヴィシュヌ・プラーナ」をもとに宇宙観を解説しています。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
蛇の上で寝るヴィシュヌ、中央線のカレー屋風味。

へそから咲いた蓮に乗ってるのがブラフマン。


ほんの一部引用されているこの「ヴィシュヌ・プラーナ」が、
ものすごく奥深そうなのです。
異端である仏教についての当てこすりがあったり、
逆に「これお釈迦様のセリフ?」と思うような仏教との類似があったり。
これについてはまた後日。



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白洲正子と十一面観音(世田谷美術館)

世田谷美術館で「白洲正子 神と仏、自然への祈り」という
企画展をやってますね(3/19~5/8)。


白洲正子は十一面観音に傾倒したことで有名で、
秘仏も含めたいくつかの十一面観音様が展示されています。
全面的に祖父母の七光りで生きてやるぞという覚悟も潔い
お孫さん・白洲信哉さんが「日曜美術館」に出ていましたね。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
   十一面観音にまつわる白洲正子本がたくさんある。


考えたら、顔が11あるというのは不思議な姿です。
というのも、仏教ができて1000年後ぐらいに
かなりヒンズー教と混じった時代に誕生した菩薩なんですよね。

ヒンズー教って、頭や手足がたくさんあるのが好きですもんね。


典拠する主な経典は『仏説十一面観世音神呪経』(耶舎崛多訳)
十一面神咒心経』(玄奘訳)などで、
経典には「身長一尺三寸、当面の三面を菩薩と作し、左の三面には瞋りの面を作り・・・」と具体的な製作マニュアルが書かれています。

日本には相当数がありますが、インドにはほとんど作例がないそうです。


中村元先生の本に、「なぜ11か」がチラッと書いてありました。


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「11という数は、最古代のインド神話では特別な意味を持っていた」。
『リグ・ヴェーダ』によると、天に11の神々が、地上に11の神々が、
水中にも11の神々がいる。


また『リグ・ヴェーダ』に出てくる神「ルドラ」は、一群の神々とみなされる
こともあって、「11人のルドラ神」がインド古典にしばしば現れる。
最高神シヴァ神のことを「11人のルドラ神のうち最上の者」と呼ぶこともある。

 

                          (『密教経典・他』東京書籍)
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やはりバラモン=ヒンズー濃度が高いのですね。
さまざまな化身の観音像や明王像が造られたという点で、
密教は仏像芸術の発達にはかなり貢献したことでしょう。
如来ばっかりじゃ仏師さんも飽きちゃいますからね。


釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~
「11人目のルドラ」という、いかにもヒンズーな絵。



密教だから陀羅尼(呪文)もあるわけですが、
ウィキペディアから安易にコピペします(裏は取っていませんが)。


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十一面神呪


三宝に帰依します。
nama arya jnana sagara vairocana vyuha rajaya
聖なる智慧の海、遍く照らす荘厳なる王よ。
tathagataya ahate samyak sambuddhaya
如来、まさに正しく目覚めた御方よ。
namah sarva tathagatebhyah arhatebhyah samyak sambuddhebyah
一切の如来、まさに正しく目覚めた御方に帰依します。
nama aryavalokitesvaraya bodhisattvaya maha sattvaya maha karunikaya
聖観自在菩薩、偉大な衆生(摩訶薩)、大悲なる御方に帰依します。

Om dara dara dhiri dhiri dhuru dhuru itti bate care care pra-care pra-care kusume kusuma-vare maha karunikaya svaha ili mili cili citi jalamapanaya parama suddha sattva maha karunikaya svaha
オン・ダラダラ・ジリジリ・ドロドロ・イチバチ・シャレイ・シャレイハラシャレイ・ハラシャレイ・クソメイ・ク
ソマバレイ・イリミリ・シリシチ・ジャラマハナヤ・ハラマシュダ・サタバ・マカキャロニキャ・ソワカ

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ダラダラ・ジリジリ・ドロドロって・・・・。
凡夫の日常はダラダラでドロドロですが、もちろんそれとは関係ありません。


「白洲正子 神と仏、自然への祈り」 
会期: 2011年3月19日(土)~2011年5月8日(日)
休館日: 毎週月曜日 (ただし3月21(月・祝)は開館、翌22日(火)は休館)
開館時間: 午前10時-午後6時(入場は閉館の30分前まで)
会場: 世田谷美術館 1階展示室
観覧料: 一般1,200(1,000/900)円、65歳以上/大高生1000(800/700)円、
中小生500(400/400)円
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/index.html


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