「私」と「あなた」に違いはあるか(「インド宇宙論大全」3)
『インド宇宙論大全』2章「ヒンドゥー教の宇宙観」の続きです。
(本当に延々とこの本について書いてしまいそう…
書かないと頭に入らないだもの。著作権侵害か?)。
ヒンドゥー教の聖典のひとつ『ヴィシュヌ・プラーナ』の中から、
「バラタ」のエピソードが紹介されています。
私にとって新鮮だったのは、ヒンドゥーの聖典なのに
思ったより仏教と近い、ということです。
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(以下は、ほぼ引用、少し省略)
バラタは輪廻のある時点で、みすぼらしい男に生まれ、
王に駕籠かきとして雇われた。駕籠のバランスが悪いので、
王はバラタに
「お前は頑強そうに見えるのに、もうへこたれたのか」と言った。
バラタは言った。
「陛下がご覧になっている私とは何ですか?
私が駕籠をかついでいるというのは正しくありません。
地面の上に足があり、その上に脛があり、その上に腹があり・・・
こういうわけですから、どうして私が駕籠をかついでいると
言えるでしょう」
「(あなたという肢体は駕籠の上にあり)、駕籠は(私と呼ばれるものの)
肩の上にあり(略)足は大地の上にあります。
だから駕籠をかついでいるのは、私でもありあなたでもあるのです」
「駕籠のなかに座っている人はあなたと呼ばれ、
駕籠の外にいる別の人が私と呼ばれています。
しかし、私もあなたも、要素(プータ)からなりたっているにすぎません」。
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私の無知のせいかもしれませんが、
まるでお釈迦さまの言いそうなことじゃないですか?
私という実態はない、要素の集合体にすぎない・・・
ここまでは仏教と同じじゃないかと。
ところが、仏教と全然違う部分もあるんです。
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(バラタの言葉)
「要素は性質(グナ)に応じて物の形をとります。
性質は純質(サトヴァ)等からなりますが、みな業(カルマン)に
依存します。業は無明(アヴィディヤ)のうちに蓄積されて、
あらゆる生きものの生存を条件づけます。
一方、精神(アートマン、本来の自己)は不滅で、
「性質」を超え、「根本原質」(プラクリティ)を超越しております。
精神(アートマン)にはこのように増も減もないとすれば、
いったいどうして「私はおまえが頑強であるのを見る」などといえましょう。
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ここでバラタは「永遠不滅の”真の自己”=アートマン」を想定します。
ですが、お釈迦さまは「そんなものはない。永遠不滅なものなどない」と、
アートマンを否定したわけです(無我=an-Ātman)
定方先生は、このバラタの話をこのように解説します。
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右の思想はウパニシャッド以来(前8世紀以来)、
インドの伝統となった「梵我一如」の思想を表している。
「梵我一如」の思想は汎神論である。
われわれが考えているような小さな「自我」は真の自我(我、アートマン)
ではない。真の自我は宇宙そのもの(梵、ブラフマン)である。
このことを知らない限り、人は迷いを続け、己れに執着し、苦しみをくりかえす。
サーンキャ哲学でいえば、「純粋精神」(プルシャ)が
「自我意識」(アハンカーラ)を自己と錯覚するところに、苦の起源がある。
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ググったら梵我一如さんというアーティストがいるらしい。
その人の作品、ガラスのペンダント1万5750円。何かわかるような。
ウパニシャッド哲学をちゃんと読んでいない私は、
正直なところ、アートマンはもう少し実体ありげなもの、
携帯電話のSIMカードっぽい「核」をイメージしていました。
ですが、これは西欧的な「自我」のイメージに引きずられていて、
もとからインド思想の発想とは違ったようですね。
しかし、そのアートマンさえも否定したお釈迦さまは、
なんと恐ろしい人であったことよ。
同書では、バラタが王に話した面白いエピソードを紹介します。
かいつまんで書くと、町に王の一行が来たときの、
リブとニダーガという2人の会話です。
ニダーガ「象の上にいるのが王で、他が従者です」
リブ「どっちが象で、どっちが王かな?」
ニダーガ「下にいるのが象で、上にいるのが王です。そんな区別もつかないの?」
リブ「下とはどういう意味で、上とはどういう意味かな?」
いい加減イラついたニダーガは、リブに飛びかかって馬乗りになり、
「私が王のように上で、あなたが象のように下にいるんですよ!」。
リブはこう言います。
「なるほど。ところで、どっちが”あなた”で、どっちが”私”なのかな?」
これなんか、禅問答のようじゃありませんか?
ただしウパニシャッドでは、宇宙の根本は「ブラフマン」という中性名詞
だったのが、のちのヒンドゥー教では人格神・ヴィシュヌが根本存在となります。
あのインドカレー屋に貼ってある絵が根本存在だとは、
お釈迦さまの思想とは遠く隔たった感じがします。
まぁ、仏教の側も、のちに大日如来を宇宙の根本とするようになるわけで、
やはり人間は抽象存在では我慢できないということでしょうか。

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