に引き続き、
少し。
禅のお勉強を進めたいのですが、
脱線してしまいました(笑)。
脱線ついでに、
こちらも読み進めています(笑)。
青年 では、お聞かせください。
いったいアドラーの哲学は、宗教となにが違うのです?
哲人 宗教と哲学の違い。大切なテーマです。
ここは思いきって、
「神」の存在を除外して考える
と議論がわかりやすくなります。
青年 ほう。⋯⋯どういうことです?
哲人 宗教も哲学も、そして科学も、出発点は同じです。
わたしたちはどこからきたのか。
わたしたちはどこにいるのか。
そしてわたしたちはどう生きればいいのか。
これらの問いから出発したものが、
宗教であり、哲学であり、科学です。
古代ギリシアにおいては哲学と科学の区分はなく、
科学(science)の語源であるラテン語の「scientia」は、
単に「知識」といら意味でしかありません。
青年 まあ、当時の科学なんてそんなものでしょう。
でも問題は、哲学と宗教です。
いったい、哲学と宗教はなにが違うのです?
哲人 その前に、両者の共通点
を明らかにしておいたほうがいいでしょう。
客観的な事実認定にとどまる科学と違って、
哲学や宗教では、
人間にとっての「真」「善」「美」まで取り扱う。
ここは非常に大きなポイントです。
青年 わかります。
人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。
それで両者の相違点、境界線はどこにあるのです?
やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?
哲人 いえ。最大の相違点は「物語」の有無でしょう。
宗教は物語によって世界を説明する。
言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。
それに対して哲学は、物語を退ける。
主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。
青年 ⋯⋯哲学は物語を退ける?
哲人 あるいは、こんなふうに考えてください。
真理の探究のため、
われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている。
常識を疑い、自問と自答をくり返し、
どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。
するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。
「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。
青年 ほう。
哲人 そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。
竿から飛び降りてしまう。
そこに真理があるのか?
わたしにはわかりません。
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、
わたしは「宗教」と呼びます。
哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。
そこに神がいるかどうかは、関係ありません。
青年 では、永遠に歩き続ける哲学に、答えはないのですか?
哲人 哲学(philosophy)の語源であるギリシア語の「philosophia」は、
「知を愛する」という意味を持ちます。
つまり哲学とは「愛知学」であり、
哲学者とは「愛知者」なのです。
逆に言うと、すべての知を知り尽くし、
完全なる「知者」になってしまったら、
その人はもはや愛知者(哲学者)ではありません。
近代哲学の巨人カントは、
「われわれは哲学を学ぶことはできない。
哲学することを学べるだけである」
と語っています。
青年 哲学すること?
哲人 ええ。
哲学は学問というより、生きる「態度」なのです。
おそらく宗教は、神の名の下に「すべて」を語るでしょう。
全知全能の神と、その神から話された教えを語るでしょう。
これは哲学と、本質的に相容れない考え方です。
そして、もしも「自分はすべてを知っている」と称する者、
知ることや考えることの歩みを止めてしまった者がいるとしたら、
その人は神の実在や不在、また信仰の有無にかかわらず、
「宗教」に足を踏み入れている。
わたしはそう考えます。
青年 つまり、先生はまだ答えを「知らない」のですね?
哲人 知りません。
われわれは、その対象について「知っている」と思った瞬間、
それ以上を求めようとしなくなります。
わたしはいつまでも
自分を考え、他者を考え、世界を考え続けます。
ゆえにわたしは永遠に「知らない」のです。
青年 へっへっへ。その答えもまた哲学的ですね。
哲人 ソクラテスは、
知者を名乗る人々(ソフィスト)との対話を通じて、
ひとつの結論に達しました。
わたし(ソクラテス)は
「自分の知識が完全でないこと」
を知っている。
自分が無知であることを知っている。
しかし、彼らソフィスト、つまり知者を自称する者たちは
「すべて」をわかったつもりになっており、
自らの無知についてなにも知らない。
この一点、すなわち
「自らの無知」を知っている、という一点において、
わたしは彼らよりも知者である。
⋯⋯有名な、「無知の知」という言葉です。
青年 じゃあ、答えを知りもしない、無知なるあなたが、
いったいわたしになにを授けるというのです!?
哲人 授けることはしません。共に考え、共に歩きましょう。
青年 ほう、竿の先まで?
飛び降りることをせずに?
哲人 ええ。
どこまでも問い続け、歩き続けるのです。
生きる態度……。
なんかカッコいいですね(笑)。
それでは皆様、本日も
楽しくお過ごし下さい。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
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