愛知県岡崎市出身の画家であり文筆家でもあった"早熟の画家"村山槐多の作品展が岡崎市で開催されています。
<本企画のリーフレットとチケット>
場所は「おかざき世界こども美術博物館」です。交通アクセスはあまりよくなく、路線バスもコミュニティーバスも通っていません。
私は先日の日曜日(6月30日)に行ってきました。公共交通機関派の私が名鉄美合駅から使った手段は・・・残念、タクシーです。雨天でやむなしでした。
<おかざき世界こども美術博物館>
以前よりその日に行く予定にしていて、それほど混雑しないだろうという予測していました。
しかし、前の週の日曜日(6月23日)、Eテレ、日曜美術館で紹介されてしまいました。
タクシーの運転士さんに伺ったところ、最近、客がドーンと増えたということでした。関東地方から来られる方もいらっしゃるとか。恐るべしテレビの力!
ただ、私は9時開館直後に入ったので、その時はそれほど混んではいませんでした。
何しろ、今回の企画のために行った調査で、次々に新発見があり、展示作品は200点を超えるおびただしい数でした。
多くは個人蔵の初公開作品で、観るのに時間がかかります。
槐多自身が時折描いた自画像いくつかありました。時を追って、その時の槐多の状況、精神状態によりその顔つきは変化します。
<自画像(1916,20歳)>
槐多の絵は初期には水彩画が主でした。
<山門(1910,14歳!)>
後に油彩画が中心になります。
槐多が好んで使ったガランス(茜色)があちこちに観られました。
<ダリア(1915,19歳)>
花の絵もたくさんありました。
<カンナ(1915,19歳)>
西洋画の印象派の影響も受けていて、この絵など、印象派そのものです。
<森の道(1914,18歳)>
恋多き槐多は幾多の恋(基本的に片思い)をし、その都度報われず、自暴自棄に陥ったりもしました。思いを抱いた人の行動をチェックしたり、近所に引っ越したりと、今流に言えばストーカー行為もあったようです。そして、飲んだくれ、生活も乱れ、健康も害するようになります。
結核を患った槐多は晩年、房総で過ごしたりもしました。
<房州風景(1917,21歳)>
結核を患っていた槐多は1919年、スペイン風邪(インフルエンザ)にも罹患し、真冬にみぞれ混じりの外に飛び出し、倒れてしまいます。そこを発見された槐多でしたが、うわごとをつぶやく中で2月20日、死亡しました。若干22歳。若すぎる死でした。(下記、村松さんの話によれば、死因は今でいうインフルエンザ脳症ということです。)
私がこの美術館へ行った日、日美にゲスト出演された村松和明副館長代行(学芸員)にお会いしました。村山槐多研究一筋の方ですので、かなり長時間にわたり詳しくお話しを伺うことができました。
日美では槐多の恋愛以外の私生活について多くは語られていませんでしたが、この展覧会のキャプション、村松さんの話で詳細に知ることができました。
それにしても、これだけの企画とそのための調査には相当の費用がかかると思います。よくぞ岡崎市が調査費を計上してくれたものです。
東京都美術館へ行った時にも感じましたが、こんなところに地方公共団体(自治体)間の差が出るのでしょう。芸術・文化を理解する行政か、経済界にだけ牛耳られる行政か・・・
この展覧会は7月15日まで開催されています。
その後長野県上田市のサントミューゼ上田市立美術館へ行き、2期に分けて7月27日から9月1日まで「没後100年 村山槐多展」として開催されます。
上田駅から徒歩圏内なので、とりわけ関東地方の方にとっては岡崎より便利かもしれません。
※7月7日(日)追記:
別件で私の「資料室」を捜索(笑)していたところ、偶然この本を見つけました。144ページのうち最初の75ページ、実に半分以上が村山槐多の特集です。表紙の絵は今回の展覧会パンフレットと同じ「紙風船をかぶれる自画像」(1914,18歳)です。
22年前の3月発行・・・完全に失念していました。
<芸術新潮,新潮社,東京,1997年3月>
この本が発行された時点では槐多の生まれた場所は横浜となっていました。「作品数が多くなく、どこでも見られるわけではないが、その中では上田市の信濃デザイン館(現在無期限休館中)が11点という多数を所蔵している。」となっています。おかざき世界こども美術博物館の名称は見当たりません。
当時若手だった村松さんなどの研究で、近年急激に新事実がわかってきているのではないかと思われます。
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