青春時代の最終回 〜NEW GENERATION SPWF FINAL〜・後編
後編です。
しかし元々仲が良くなかったので、燃える炎はすぐに静まり元の関係に戻りました。
先輩の高智さんから
「谷津さん、自分、宇和野が長州さんの新団体に行く」
と告げられました。
この時は道場に宇和野さんというほぼ同期で仲の良い選手が入り、クマを始めとした後輩も多くいて、楽しいレスラー人生を送っていました。
「その楽しい時間が急に終わってしまう」
と物凄く悲しかった記憶があります。
後日、谷津さんと自分の2人で話す事になり、自分は
「クマや(増田)ケイスケたち後輩やデビューしていない練習生もいます。SPWFはどうするんですか?」
と聞きました。
谷津さんは
「お前がやるなら続ければいいし、阿部ちゃんがやらないなら終わりだな」
「阿部ちゃんだけならこっち(新団体)に呼べるかも」
と言われてハーツ・オン・ファイヤーしました。
そこから新生SPWFとしての活動が始まるのですが、それは別の機会に。
…
谷津さんがWJに移籍してからもちょくちょく連絡はとっていたのですが、益々険悪な仲になりました。
そして谷津さんがWJを退団。SPWFに戻ってくるという事になり、自分は後輩を全員集めて
「谷津さんが戻ってくるようだったら、申し訳ないけど俺は辞める」
と言いました。
この時、某団体さんから移籍を薦められていたというのもあるのですが、何なら頭下げて後輩全員入れてもらおうと思っていました。
結局、谷津さんがすぐにSPWFに戻ってくる事はなかったのですが(今思うと、谷津さんは自分が活動しているので気を遣ってくれたのだと思います)、SPWFという名前で活動をするのが本当に嫌だった自分は退団し、BRAVESを設立しました。
道場生が全員いなくなり、道場を片付ける時もすったもんだあったんですが、ドロドロし過ぎていてあまり書きたくありません(笑)。
ただ、この時は1日顔を合わせていたのに一言も口をききませんでした。
…
それから数年して、2010年に谷津さんは引退。
自分は引退試合にも行く気になりませんでした。
引退する正確な日時や場所にも全く興味がなく、把握していませんでした。
それから3年ぐらいが経ち、自分も引退を考えるようになった時に谷津さんと会って話がしたくなり、当時高田馬場で谷津さんが経営していたお店を訪問しました。
この時は本当に緊張しました。
でも、谷津さんがプロレス界を離れていた事、何よりカラッとした性格の方なので、快く自分を受け入れてくれました。
自分も当時の至らなかった点、生意気だった事を謝れました。
…
そんなこんなで現在は普通に話をできるようになり、BRAVESの最後、自分の最後を考えた時に、無理を承知で谷津さんに試合をお願いしました。
谷津さんは快諾してくれました。
SPWFが嫌で嫌で退団し、自分が設立したBRAVESに谷津さんが参戦してくれて、自分とシングルマッチをしてくれるなんて信じられません。
人生は捨てたモンじゃないです。何が起こるかわかりません。
今回は自分が挑戦する試合、青春時代の落とし前、最終回ですが、試合は負けるワケにはいきません。
自分が試合後にどんな気持ちになっているか楽しみです。
青春時代の最終回 〜NEW GENERATION SPWF FINAL〜・前編
3年振りのBRAVES。
ついに明日となりました。
書きたい事は山程あるのですが、今回は谷津さんの事だけ書きたいと思います。
長文なので前後編でお伝えします。
※あくまで自分視点での内容なのでご了承下さい。
…
当ブログやSNS等で何度か書いていますが、SPWFにいた約7年間、自分と谷津さんの仲は決して良好な関係ではありませんでした。
いや、むしろ険悪でした。
道場生と当時の自分の周りの方々は皆知る所でした。
…
谷津さんとの初対面は1998年の11月。
入門テストに合格をして道場に入門し、新弟子として初の巡業に付いて行った初戦の新潟での大会でした。
売店で雑用をした所に現れた谷津さん。
ダッシュで挨拶に行き、自分を見るなり
「お前はプロレスラーに向いていない!」
と言われました。
「オーディションの審査員のインチキプロデューサーか!」
と思いました(笑)。
…
その後も基本的に性格が合わないというか、谷津さんのワンダーな性格もあり、ことごとく対立。
自分も元々おかしいと思った事は口に出してしまうので(先輩に一番嫌われるタイプです…)、ギスギスした関係が続きました。
ただ、谷津さんに関しては、誰に対してもネチネチしたイジメやパワハラみたいな事をする事は一切ない性格の方なので、自分はただひたすらに何か合わないだけでした(笑)。
…
たまに見てもらう練習もひたすら奇想天外で(笑)
・スパーリングをしながら谷津さんが言った技をかける
・なわとび1時間
・車でかなり遠くへ行き、下ろされ走って帰ってくる
・谷津さんのタックルを切る(全く切れない)
などなどがありました。
でも、この時の練習は、今の自分の人格形成において全てプラスになっています。
ガチスパーの時の片足タックルからのテイクダウンなんかは、未だに谷津さんに教わった技術で通用しています。
…
これは完全に自分の勇み足だったのですが、今のGヴァリオンへのキャラチェンジも、マスクマンへの転向を反対する谷津さんを押し切って、自分が勝手に始めてしまいました。
で、谷津嘉章のアナザーキャラ「津谷章嘉」と試合をした時に完敗をして
「学芸会みたいなカッコしやがって!」
と痛烈にダメ出しをされました。
悔しかった。
でも
「身体能力の低い新人のお前がマスクマンになると、お客さんの期待値は上がるのに中身はただの新人で期待を裏切る試合しかできない」
後日谷津さんに言われた事はまさに正論で、事実、この後自分はGヴァリオンとしてスランプに陥りました。
…
谷津さんと良好な関係でなかった原因のひとつには、当時谷津さんがほとんど道場に住んでいて、一緒に生活していたのもあります。
他の道場生もですが、流石に精神的にしんどかったです(笑)。
たまに谷津さんとの思い出を楽しそうに話す選手、関係者の方がいるのですが
「じゃあ四六時中顔合わせて生活して、夜通しジェンガやファミスタやってみろよ」
と思います(笑)。
…
そんな自分と谷津さんの関係も一時期微妙に良くなった事があります。
それは谷津さんが1度目のPRIDEに参戦した時でした。
この時の谷津さんはかなり練習をしていて
「やっぱりちゃんと練習するととんでもない人だ」
と思いました。
大阪城ホールで行われたゲーリー・グッドリッジ選手との試合は自分もトレーナーとして帯同(セコンドにはつきませんでした)。
プロレス界では経験できない事がたくさんありました。
前日の調整練習では何故か自分がダッシュをさせられましたが(笑)。
ただ、控え室のモニターで見ていた試合では想像を絶する展開に控え室の他の選手も唖然。
ヴァンダレイ・シウバ選手やヒース・ヒーリング選手なども拍手をしていました。
しかし、あまりの凹られ振りにセコンド陣、応援にかけつけたスポンサーさん達はシンと静まり返っていました。
この時、自分に小さな所からやんわりレベルで総合格闘技ルールでの試合の話が来ていたので
「谷津さんの敵は俺が取る」
と勝手に燃えていた記憶があります(結局実現せず)。
後半へ続きます。