ねこギター

ねこギター

 その日暮らし

もしもこの世から本がなくなったら
空でも眺めていよう
猫の頭でも撫でていよう


>18日未明、甲府市の中央道で逆走した乗用車が大型トラックと正面衝突する事故があり、乗用車の運転手が死亡しました。
>消防や警察によりますと、この事故で、乗用車を運転していた20代の男性。(2024.10.18 ヤフーニュースより)

逆走の車はどこで間違うのか。

高速道路の入り口は、ゲートがあり、ここで間違う可能性は少ないように思う。
大きく可能性が考えられるのは、パーキングエリアで休憩して、ふたたび本線に復帰する場合だろう。
この時、方向感覚の勘違いが起きるのではないか。
また高速道路を使用していることを一瞬、忘却して、追い越し車線の方へ侵入(右折)してしまうのではないか。
本人は左端の車線に入ったつもり=これが逆走になっている。
解決策としては、パーキングエリアからの出口には、本線に入る方向を現在も示されているのだろうが、
もっと注意喚起をうながす表示にする必要があるだろう。
痴呆症状の出ている人は、どうしようもないが。


「心を折る」とは、どういうことか。

それは逆にいえば、腕を折らなかった、身体を傷つけなかったということ。

中盤に決めた腕逆十字で、ジャッキーの腕は完全に伸びていた。

折ろうと思えば折れる、だが型でとどめていた神取。

それに何も反応できなかったジャッキー。

その後の神取の顔面パンチも鼻やあごなど致命的な個所を狙わない、ほほ骨のあたりが腫れるパンチだ。

あとは冷静に合理的な動作で腕を取り関節技で追い込んでいく。

切れてもいないし、実力で相手に「まいった」と言わせたのだ。

レフリーのグラン浜田は、そういう試合ということで、最初から、いつでも止められる至近距離でレフリングをしている。

これもプロレスだ。
「心を折る」という言葉を引き出した井田真木子の『プロレス少女伝説』は、プロレス誌に連載中も読んでいた。

取材対象者の人生に寄り添うような誠実なインタビューと文章は心を打つものだった。


 

「遊」の頃は、本、雑誌の装幀もそうだけど、ファッションセンスも、ニューエイジ的なヤバイ雰囲気があった。
哲学科出身のタモリとのハナモゲラ対談本があったなあ。
「花鳥風月の科学」「山水思想」とか、革新的な手法のようで、読んでいくと当たり前のことを書いていて、飛躍的な言説ではなかった印象がある。
「編集」というものを、創作、クリエイティブなものとして、早くから捉えていた。
コンピュータが普及した現在のあらゆる創作活動は「編集」といってもいいいような気がする。
ご冥福をお祈りいたします。

 

最近の十代に接して感じるのは、良心が人格の中に育ってない子があるように思う。

本音(欲望)と建前(しょうないから合わせる)の精神構造しかない。

だから本音=本当の自分という実感なので、欲望のコントロールがないのだ。

良心とは、他者に自分を重ね合わせて考えられる、利他の心だ。

利他行動は人間以外の動物でも多く見られる。

良心と欲望の狭間で、迷いながらも、弱い者を守りながら生きていく。

かつて良心は教育というより、本やテレビの物語から多く育まれてきたように思う。

いま、それが壊れてきているように感じる。

つまり物語作家が壊れてきているからなのだろう。

70~80年代、TVドラマ秋の芸術祭参加番組が楽しみだった。佐々木昭一郎の作品を初めて観たのは、1971年の「さすらい」だろうか。栗田ひろみ、笠井紀美子、友川かずきは、これがデビューか。74年の「夢の島少女」中尾幸世の初主演。
1975年は、つげ義春の複数の原作を繋げた「紅い花」。この年は、つげ作品が初文庫化され、第2次つげブーム到来の感があった。主演の沢井桃子は、これぞ、つげの描くおかっぱの少女であった。政治的要素を入れた部分がつげには気に入らなかったらしいが。つげ作品が映像化された忘れられない作品。
その後、中尾幸世主演で「四季・ユートピアノ」「川の流れはバイオリンの音」が作られた。ヌーベルバーグを思わせる即興演出。NHK的でない、そしてNHKだったから出来た商業的ではない芸術作品。そしてその裏に隠された少女のエロティシズムが鮮烈に記憶された作品だった。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

このワクチンもどきが恐ろしいのは、遅効性があることだ。
この先、何が起こるか、どこが壊れるかわからない。
60年以上生きた年配者は、自分の判断で打ったのだから、仕方がない。
だが、罪深いのは、このワクチンもどきを、幼児や若者に打たせたことだ。
いや、まだ打たせようとする人間もどきが、この国にはいるのだ。

私はワクチンは一度も打っていない。

このワクチンは最初から理屈に合わないのだ。
遺伝子に関わる新技術の治験が終わっていないものに、

どんな副作用が現れるか誰にわかるだろう。
だからこのヤフコメに「治験ワクチンをなぜみんな打つのだ」と書いた。
製薬会社は製造責任を負うプレッシャーがあるからこそ、
厳密な製造ができるのに免責にしてしまう契約構造が、もう異常なのだ。
大臣が製薬会社のセールスマンのごとき発言で、恐ろしいことだった。
2021年の時点で、自然免疫が壊される恐れがあることは推察予想できた。
厚労省のワクチンのHPも、ずっと注視していたが、
良心が垣間見れる揺れがあった時もあったが、

良心のある人は外されていったのだろう。
恐ろしい国になったものだ。

本好き古本屋の矛盾は、本当に好きな本は売りたくないのだ。

売ってもいい本は、まあ、それなりの本だ。

希少な本を生活のため売ってしまって、ああ、なんで売ってしまったんだろうと後悔する。
ブックオフでよく見るバーコードをスキャンして売れそうな本だけ、ごっそり買っていく転売ヤー。

かつて梶山季之が書いた「せどり男爵数奇譚」のような頭の中に膨大な知識を持って本を漁る裏街道の存在は生きていけない世の中なのだ。
本は場所を取る。それは大きなデメリットだ。

だがそれゆえに世の中の本を循環させる動力でもある。

新刊書店・古本屋・図書館は、それぞれが本の供給を補完する存在で、競合やライバルではない。

それぞれの役割で本の文化を守ってきたのだ。

本のデメリット・場所を無くすデジタル化は、実は本の循環の動力を失くすことでもある。

見えないもの・実物のないものは、なくなっても気付かないのだ。

70歳以上の年配者による交通事故のニュースが絶えない。
高齢者には、オートマチック車ではなくマニュアル車を、という声は多いのだけれど。
そもそも自動車メーカーが高齢者向けの乗用車でマニュアル車を設定、製造していない。
高度成長期のモータリゼーション世代が70~80歳を迎えることは分かっていたことだ。
高齢者の事故の問題は、20年前から言われているけれど。
トヨタをはじめメーカーが年配者を想定した車、グレードを作る気がまったくない。
またそういう事故を起こしにくい車を年配の顧客に提案、啓蒙する気がない。
目先の売れればいい車しか作らない。
ひどいものだ。自動運転が装備した車が一般庶民が買える価格でいきわたるまで10年はかかるだろう。
その間も同じような事故は起こり続けるのだ。

ワクチンを接種しないでもよい状態に戻ることが、この世の中の安定・安寧を取り戻したということです。

ワクチン接種を強要するようでは、国民の不安はけして解消されないでしょう。

ワクチンを接種することで、二次的、三次的被害が起こっているように思います。

未完成・不完全・未確認のワクチンを打つことで予測のできない複雑性の問題が起こるのです。

はじめから順番が間違っているのです。

今のコロナ減少の現状を見ると、ここで立ち止まってみることが大事です。