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ねこギター

 その日暮らし

もしもこの世から本がなくなったら
空でも眺めていよう
猫の頭でも撫でていよう

「観客の大半が70代以上…」演歌歌手の危機感、英語を学びフェスにも「なぜ若い世代に伝えられないのか」

(withnews) Yahoo!ニュース


演歌という括りが、音楽的な進化を止めたのだからしかたがない。70年代以前は、大雑把に「流行歌」という呼び方をしていた。ラテン、ハワイアン、ロシア民謡など流行して、それらのエッセンスを日本流にアレンジした最新の音楽だった。
70年代にフォーク、ロックが若い世代に流行し、「ニューミュージック」とレコード業界は命名した。それは同時に「演歌」を当時の中高年を対象とした、ニューミュージックと競合しないジャンルにする戦略だったと思う。
ニューミュージックが現在のJ-POPに世代交代しながら繋がるのは、シンガーソングライターという表現方法だろう。
一方、演歌が止まってしまったのは、作り手を育ててこなかったことに尽きると思う。限られた作詞家・作曲家のえらい先生に作ってもらう。徒弟制度だから、世代交代がなかなか出来ないし、演歌歌手は、作ってもらうのを待っているだけ。それでは新しい創作は生まれないだろう。

 

「イスラム教の犠牲祭、いけにえにささげられる動物たち(AFP=時事)Yahoo!ニュース」を見て

 

日本人は「情」を大切にする。

一緒に暮らしていると「情がわく」「情が移る」という。

そこには人間と生き物(自然)が、つながっているという感性・感情があるからだ。

だから長い間、家畜を食べることをしなかった。

食べるのは、狩りや漁でとってきたものだ。

そして、いつでも食べるのではなく、それぞれ旬というものがあり、むやみに命を取らないことだ。
一方、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の発祥は、砂漠の民で、厳しい自然の中、家畜を常に必要とした。

そのため、人間は神に似せて創られた特別な存在として、他の生物とは断絶したものとした。

だから、一緒に生活して飼っていても、食料として、供物として、すぐに首を切れるのだ。

それは西洋が奴隷制度(人間の家畜化、異教徒は人間ではない)を作り出したのと共通の構造があると思っている。

勤務している会社が、出勤時に体温を申告するように、指示が出た。

37度以上は、出勤を取りやめるように、とのこと。

体温計を持っていなかったので、買いに行くことに。

ドラッグストアを2軒回ったが、いずれも品切れ。

最初、売り場が分からず、婦人体温計の前でたたずんでしまった(/ω\)。

なら電気店だと思い、Y電気にいったら、数種類の価格帯で数本ずつ数があった。

一番安い特価品にした。

さっそく計ったら、35.9度。2度計り直したんだけど。

俺は低体温なのかな。

言葉は時間を内包している。

辞書は、その通過点である。

全ての言葉は仮称である。

言葉は不完全であり、決してそのものを完璧に表すことはできない。

そのことを知っている日本人は、言葉の一対一対応を嫌う。

必ず違った他の言い回しでも表現しようとするだろう。

堺正章氏の記事が載ると、「親の七光り」なる批判めいたコメントが付くことがある。

2000年代以降のテレビ世代は知らないだろうけど。

60年代後半から70年代の堺正章の活躍は親の七光りではなく、本人のセンスと才能と努力の結果だと思う。

スパイダースの歌唱、ソロの「さらば恋人」「街の灯」「涙から明日へ」などの名曲。

ドラマ「時間ですよ」の樹木希林(悠木千帆)・浅田美代子とのドラマ中コントは、脚本家の向田邦子が、ここは堺正章におまかせで出来たものだ。

そして、その当時マチャアキを支持した若者は、「堺駿二」のことは父親世代の映画のわき役で、まるで知らなかったのだ。

ショーケンやジュリーが女性人気ならマチャアキは、男子から圧倒的人気だった。

堺正章は、おそらくハリウッドなどのエンターテインメントを学び、関西とは違う東京サイドの笑いの基盤を作った人物であると思う。

ウィキペディアやYOUTUBEでちよっと見ただけでは、過去の功績は分からないであろう。

その時代時代で、SMAPが支持されたように、堺正章も全世代的に支持されたのだ。

<2019年 極私的女子プロレス大賞>
極私的なので、異論もございましょうがお許しください。

●女子プロレス大賞:
中島安里紗

●女子プロレス最高試合賞:
中島安里紗vs高橋奈七永
 11月2日神奈川・カルッツかわさき/SEAdLINNNG BEYOND THE SEA Single Championship&敗者髪切り戦(26分8秒、D×D 中島の王座防衛)
 …骨と骨がぶつかる音。プロレスで「リアルを表現する」ことの頂点。

●技能賞:
彩羽匠
 …キック、ランニングスリーのスピード、タイミング、インパクト。
雪妃真矢
 …タイガードライバーの必殺化と角度コントロール。対戦相手を引き出す懐の深さ。

 彩羽、雪妃ともにチャンピオンなので技能賞は失礼なんだけども。

●敢闘賞:
高瀬みゆき
松本浩代
 …ともにフリーで、複数の団体で活躍し、ベルトを戴冠。

●新人賞:
鈴季すず
 …驚異の成長とほとばしる意欲。ジャーマンの軌道とブリッジの美しさ。タイミングを逃さないマイクパフォーマンス。

●タッグチーム特別賞:
駿河メイ&星月芽依
 …新しいタッグプレーのスタイルの創造。こんな楽しいタッグはない。

●話題賞:
藤本つかさVS Sareee
 …Sareeeちゃんは、「女子プロレス大賞」を口に出さない方がよかったのに。


 

ジュニアヘビー時代の藤波の贅肉のないビルドアップした肉体が素晴らしく、カッコ良かった。
ゴッチの技術、ヨーロッパ、メキシコスタイルの融合が鮮烈だった。
ドラゴン(フルネルソン)・スープレックスは、藤波がプロレスの試合で初めて使った。
それまでゴッチの理論上できるけれど、実践では使えない技だった。
藤波の初期のドラゴン・スープレックスは、相手がほとんど受け身が取れていない。
イワン・コロフは、自分の体重移動がコントロールできず、斜めに崩れている。
後年、前田日明、武藤敬司らが使いだしたが、一発必殺、危険技のイメージは薄れてしまった。
フルネルソンのクラッチに余裕をもたせることで、相手の首が固定されず衝撃を緩和するようコントロールされている感じがする。
数年で技を掛ける側のコントロール、受ける側の受け身が進化したということだろう。



オブライトのフルネルソン・スープレックスは、文句なく凄かった。
オブライトは両手で相手の後頭部を押さえつけて首を決めて投げている。
スピードと遠心力でオブライトの体重が乗っかってくる衝撃が恐ろしかった。
現在のドラゴン・スープレックスの使い手では、中島安里紗がブリッジの強さ・スピードで一番好きだ。

私は、「馬子っこきん太」から読んでるから、永井豪の漫画で育ってきたようなもんだ。

少年ジャンプ「ハレンチ学園」、少年チャンピオン「あばしり一家」。当時ジャンプもチャンピオンも後発の新しい漫画雑誌だった。トキワ荘世代とは違った過激さ、赤塚不二夫に怒られても変えなかった、それが永井豪の魅力だった。「キッカイくん」「イヤハヤ南友」「マジンガーZ」「けっこう仮面」「ズバ蛮」「魔王ダンテ」そして「デビルマン」「バイオレンスジャック」。
「デビルマン」は連載時に、どんどん絵柄タッチも変わっていき、牧村家の惨劇で頂点に達した。「デビルマン」は、何度も加筆修正されて単行本化されたけれども、連載時のままが一番よいと思う。例えば永井豪と石川賢の違いは、石川賢の絵はキャラクターが完成された閉じた絵のように感じる。永井豪の絵は、物語の展開とともに主人公が変化していく未完成ゆえに、ほとばしる激情が伝わる絵なのだと思う。

 

追記1

雑誌連載をリアルタイムで読んだ世代。

「デビルマン」→「バイオレンスジャック」は、『週刊少年マガジン』で連続して連載された。「バイオレンスジャック」(関東地獄地震編~黄金都市編)は、「デビルマン」から続く異常に高いエネルギーで描かれていたと思う。だから「バイオレンスジャック」が最終回で「デビルマン」と繋がった時、自然とそうだろうと納得した。
「これが俺が身を捨てて守ろうとした人間の正体か!地獄へ落ちろ、人間ども!」この言葉が、心のどこかにいつもある。

 

追記2

この前段の言葉―
「地獄だ、ここは。人間の作り出した地獄だ!悪魔からの恐怖から逃げるために、人間みんなが恐怖をあたえる側にまわろうとあがいている。被害者から加害者に。ここのことだけではない。人間ぜんぶが自分より弱い者をたたこうとしている。この地獄はつづく!人間のいるすべての世界で、すべての人間の命果てるまで…」

これは今の世の中にこそ、あちこちに見える地獄。そして多数派に身を置いて自分はそうではないと思っている。

神でもない人間でもないデビルマンという立場に視点を置くことで、人間の弱さ、浅ましさ、残酷さを徹底的に描く出す。そういう人間にはならない。そういう人間を軽蔑する。それが「デビルマン」に教えてもらったこと。

 

 

デビルマン-THE FIRST- (1) (復刻名作漫画シリーズ)

 

 

手塚治虫の創刊した『COM』についての記事があったので、以下コメントした。

『ガロ』はつげ義春が好きだったが、『COM』は岡田史子の作品がとても印象深い。
海外文学を思わせる詩的表現、60年代当時のビートルズ、サイケデリックなどの音楽、美術の影響など感じられた。背景にスクリーントーン(当時はなかった?)を一切使わず、フリーハンドで細かく書き込んだり、大胆な構図が他の作家には見られない、とても個性的で好きだった。
70年代後期に朝日ソノラマのサンコミックスで数冊単行本化されたが、当時でも幻の女性漫画家と伝説化されたものだった。2000年代初めに岡田ファンの萩尾望都の要望で復活し、新しく編集された作品集も出て再評価されたが、2005年に亡くなった。
表現することの素晴らしさは、性別、年代、ジャンルの枠を超えると思う。

 

 

 

小林亜星さんのインタビューで「もう人類の音楽のネタが尽きたのかな」と語っていた。

最近の創作物はみんなパソコンで作るから他のメディア、ジャンルも同じ状況だと思う。

過去に創作された情報のストックから編集しているだけだから。

過去からいかにネタを見つけるかみたいな、どっかのデザイナーと同じで。

編集も創作行為といえば創作だけれども、過去を超えるものが出てくる可能性は少ないだろう。

みんなほどほど出来のいい、どこかで聞いたことのある、〇〇風の音楽になるだろう。

それを壊すのは、生身の人間の持っている不完全性に活路があるように思うのだが。