近世までの職住 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

仕事をする場所と生活する場所は分けるという考えは近代以降の先進国の発想だという

 

 

近世までの日本は住む場所と生業は一体近接し武士は城周辺に町人は城下町に農民は農地にという具合だった

 

近代以降は住み込みスタイルもあったが企業は都心に宅地は郊外にと職住は分離し交通機関沿線近郊の文化住宅や戸建に居を構えるスタイルに代わってきた

 

現代の都心部は交通機関の煩雑さや通勤時間を掛けないように職住近接傾向にあり近世に回帰しようとしている様相

 


鍛冶町・呉服町や蔵前・銀座など職種がそのまま町の名前となっている地名が多くある、現在なら築地魚市場や秋葉原電気街などか

 

近世からずーっと残っているのは中華街飲食繁華街や花街か、吉原は消えた

 

職能身分に役割分担がありここはこういうことをする人が住む場所というのが明確だったらしい

 

城下町には武士の生活に関わる職人とあきんどの町人や寺社の僧侶が住み

 

国土の大半である山林や農地には庄屋さんと百姓の農林業民、河岸には漁民、木場には木材屋というふうになっていた

 

蔵前の札差(コメ⇒カネへの換価商)

 

日本の土地利用は山林の木材で宅地に家屋を造り、平野の大半を農地として利用していた

 

支配者階級以外は農産物生産者とそれらを加工運搬販売する商工業者だった

 

都を中心とした古代は関東・東北蝦夷に統治領土を拡大する度に新領土の大人を奴隷として都に、都の公民を遠方に開拓移民させたという

 

柵戸・俘囚という身分もあり俘囚の反乱は絶えなかったという、良民と賤民という身分に分け賤民はさらに公・民で五色の賤に分類した時代もあった

 

戦国時代には武力による下剋上があり江戸時代にかけて兵農分離して近世の身分制度が完成した

 

 

天皇がいる都を中心に遠方ほど、公武二元体制の時代は公家と武家の都城から遠方ほど身分の低い居住地になった、都の条坊の左京と右京でも様相は異なっていたという

 

公武の力関係によって変わり武家が力のあった江戸中期以降は江戸を中心に遠方ほど虐げられたという

 

奈良・京都・鎌倉の町は内戦の都度廃墟となり復興した、公家は近畿圏に武家は東西に転々流転し公武の中心は移動してきた

 

応仁の乱で京都の公家はほとんど消滅したことはあまり知られていない、京都には公家の末裔が住んでいると思っている人も多いという

 

十五世紀以降の京都は公家の町ではなく公家に仕えていた商人と職人が復興し町人街として現代まで引き継がれている

 

 

京都復興の象徴が祇園祭で公家は復興していない、近世以降の京都には天皇家以外の公家はほぼ存在していないという

 

近世に入ると一握りの公務員である武士は城の周辺にしかいなかった、農地には公務員や警察はいない世の中だった

 

武器を持った人間を減らす世にするために秀吉は刀狩をし兵農分離した、現代も世界でも稀な一般市民が武器を持たなくてもよい世の中になっている

 

当時は大半の場所に警察の目が届かないので自治力が強くなり五人組等仲間意識が醸成され村八分という排除のしくみの呪縛も確立していったという

政治と治安維持が役務の武士と農業を営む農民と建築の職人や商いする商人らの基幹産業以外はいったいどこで何で生計を立てたのか?

 


 

職住一致の近世は職住が身分も連動していた、あの場所に住まう人々はこういう職種の人々というのが割とはっきりしていた

 

しかしそれぞれの境にグレーゾーンもあった、穢多非人は特定の居住地に定住せずこのグレーゾーンの隙間に棲息したという

 

基幹産業以外とは水物のサービス業で日常生活には緊急・重要性はあまりなくあっても無くても困らないような職だったという、こういうものが文化になっていった

古代日本は殺生する食肉の習慣はなく死や病や穢れ・戦闘は天子の徳から遠い存在で銭を扱うことも賤しいとされていた律令の儒教思想があった

関わる死体処理・死んだ牛馬の解体処理・牛馬の革の加工や死者の祭事・芸能祝辞などの扱いは賤民の独占業種だったという、食肉もしていたという

 


近世の封建身分制度では一部の支配者の武士と九割を占める百姓と町人の他に、これらの特権独占業種はわずか数%の穢多非人が担っていたという、近代以降につづく