昔の身分制度 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

慶安の御触書は幕府が発布したものではなかった、ということが最近の研究で明らかになり高校日本史教科書が書き変わったという





近世の身分は兵農分離し支配者は一割にも満たない武家、被支配者は農工商の九割もの大多数の農民と町人だった

 

これらとは別にわずか数%の穢多非人が存在していたという、この数%の賤民層は古代から極端に増減せず消えることもなく存在したという

 

江戸時代初期の幕府の天下国家の統治については『慶安の御触書』ではなく『本佐録』という書の内容の方が信憑性があるという

 

家康側近の本多佐渡守正信の著作と伝えられ書名もそれに由来しているが藤原惺窩の著作とする説もあるという

 

本佐録

 

内容は「…百姓は財の余らぬやうに不足なきやうに治むること道なり…」の言葉がみられる、書名は『治国大概』『天下国家之要録』などの別名があるという

 

東北より北が未開だった太古のころは良民と賤民に分けられ柵戸・俘囚と呼ばれる身分もあった

 

夷敵を退けながら北に進出し都の公民を送り込み開墾させた身分を柵戸、服従させた蝦夷を関東など各地に移住させた身分を俘囚と呼んだ

 

こうした半ば強引な古代国家の対蝦夷政策は大陸の華夷秩序の差別的な考え方に成り立っていたという

 

日本は古来から交流のあった大陸・朝鮮半島と琉球や東北・蝦夷からも有能な人材は都に集め登用するしくみを構築していた

 

 

出自や身分をリセットするために朝廷は官位と居住地を与えた、初代征夷大将軍の坂上田村麻呂は蝦夷征伐で地位と名誉を得た、渡来人を祖とする氏族の出身だという

罪人には真逆の扱いが起こる、死刑とならない者は生かすために身分を剥奪し賤民や非人となり特定の居住地に住まわせ良民が担わない特定の職業を与えたという

 

これが近代まで残る身分制度となった、日本の国益になる人材は中央に住まわせ登用しそれ以外は遠ざけた

 

遠国だったり流罪地だったり穢多非人の居住地だったり外国人居留地だったりした

 

渡来系と親交した蘇我氏

 

古代の朝廷は大陸の律令制を導入し皇族血統で氏姓を賜り一部の公家で国家を形成した

 

官位という階級で天皇を中心にして国を運営した、職能役職別に氏姓があり生まれながらにしてその職能を世襲したという

 

中世になると武力という能力が民を支配し武家が台頭した、この時代は武力を持てない層は落ちぶれることになった

 

 

公家も僧侶も武装化して生まれながらの武家に対抗するしかなかった、よって武力に勝る僧兵が武家をも脅かす時代となり生まれながらの武家でも武力が劣れば衰退淘汰された

武人ではない公家が軍事力を持ったり聖職者である僧侶が経済力を持ったり、そのような時期がいくつかあるが分を超えて本来持ってはいけない力を持つとおかしなことになった

時の経過とともに賤民の入れ替えはあったという、戦乱の敗者だったり下剋上があったり外国人だったり罪人だったり敗者の子孫だったりした



生口=奴隷

 

穢多非人の穢多は生まれながらにして死ぬまで賤民の穢多だった、贅を尽くし豊かに生活した者もいたが身分は変わらず穢多だったという

 

卑弥呼の時代に奴隷を大陸に贈ったと魏志倭人伝に記録されているが日本は古代から西洋のような奴隷制度は根付かない風土だったという

以来、時の為政者は税収を最大にするために民を階層化した歴史は変わらない

 

有能な民からはより多く徴税することは個性の異なる民から均一に徴収するより合理的だったという

 

 

人の個々の尊厳は平等でも能力差がある以上、社会共産主義の国家運営では究極の富の最大化は得られないことは太古から分かっていたことだと想われる