下剋上の変遷 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

15世紀後半の応仁の乱から戦国時代にかけて日本の歴史の中でも長期かつ広範囲にわたる戦乱の時期があった、文化は廃れるどころか新しい芸能や美術作品が多く生まれたという


 

公武の貴族階級の支配者層の従来の価値観が崩壊し臣下が主君を滅ぼすに及ぶ下剋上が顕著な時期だったという

 

南蛮から導入された武器が下剋上を容易にし金銀が発掘され戦乱ながらも華やかな安土桃山文化が生まれた

被支配者層がこれを機会に支配者の武士になったり逆も起こったという、そして権威だった公家の地位を政治に利用し地方の守護地頭から成り上がった武将も多くいたのは史実のとおり

 

この大戦乱の終結は関ヶ原の戦いの一戦で一日で決着した、勝利した東軍の大将の徳川家康は味方の武将には地位と権限を与えて関東周辺に所領を配置し反逆の主謀者は血統ごと滅亡させた

 

 

敗者の中でも恭順の意を示した武将は外様大名として活かし遠方に所領を配置した

 

しかし一切幕政の権限は与えず以降わずかな失敗でもそれを根拠に減封改易を繰返し家を取り潰していったという

 

徳川幕府の特徴は従来の公武二元体制を維持活用しつつ徳川家の血統を絶やさないしくみを導入した

 

源氏の徳川将軍家の事業継続を最大限に考慮した政治機構にしたという


 

つまり三河からの家臣の譜代大名には名誉の官位と幕政権限の要職を与えたが経済的基盤の所領は最小限にした

 

よって小規模の大名となり旗本御家人も江戸・関東周辺に住まわせ下剋上の機会を与えなかった

 

逆に反逆の恐れのある関ヶ原の敗者の外様には幕府の役職には一切就かせず大規模な遠国所領の経済的基盤を与えて莫大な年貢や普請を課したという

 

度重なる参勤交代で藩の財産を消耗させ遠国から江戸への街道宿場や交通事業を潤わせた

 


最も危険なのは徳川血統の親藩大名だったが将軍家の血筋が絶えたときのみの家系として最低限の経済的基盤で存在させた

 

徳川一族であるがゆえに本家を乗っ取られる可能性もあるので御三家に限定し幕政の権限は一切与えず名誉職にして別格扱いにしたという

 

このような体制が完成したのが家康死後五十年後くらいだったという、にもかかわらず四代で家康直系は絶え五代将軍は公家から迎えるか?

 

という幕閣一派もいたという、あやうく将軍職が天皇家に移るところだった、鎌倉幕府は宮将軍となり執権が政治の実権を握っていた時代もあった

 

 

しかし徳川血統の綱吉が継承した、徳川血統将軍にと働きかけたのは譜代大名下総古河藩主の大老堀田正俊と側用人の柳沢吉保だった

 

以降将軍の側用人は重要な役職となり江戸幕府唯一の下剋上になりえる役職だった

 

ただし将軍交代と同時に側用人もお役御免となり次の将軍の側用人が台頭することになった

 

将軍候補は幼少の頃からそれぞれに幼少の側用人がいて将軍と側用人は幼いころから将軍が死ぬまで一蓮托生だった

 

 

やがて側用人から官僚最高位の老中首座になるものも現われた、名門で毛並みの良い譜代大名の藩主クラスの特権階級であった老中職が一介の側用人に首座にまで任命された

 

老中首座の上位は臨時の大老のみだった、長い江戸幕府でも数名の大老しか排出していない

数名体制とした老中職は決して一枚岩ではなくまた決裁には多数派工作に時間を要し複数いるがゆえに所掌不明はそれぞれ責任逃れをしたという

 

最終決裁は老中首座なので首座の役割と権限は絶大だったという

 

 

下剋上という言葉が日本史に定義される戦国時代前には、承久の乱で天皇・上皇という公家が公家の家臣だった武家の鎌倉将軍の執権北条家に敗れるという事件に遡る

 

壬申の乱は天皇継承権の争いなので下剋上ではない、それ以前は律令の皇族公家の時代で親子兄弟一族の骨肉の争いは絶えなかったが臣下が天皇に代わる下剋上は見当たらない

 

ここが大陸の中国史との大きな相違点で天皇家が臣下に乗っ取られることは日本有史以来一度もない

 

以降は公家の家臣だった武家が優位な時代になった、しかし武家が公家を滅ぼすという下剋上は起こっておらず公武二元体制がずーっと続いた

 

 

将軍や天皇をも超えようと企んだのは織田信長だけであっただろうが道半ばで家臣に暗殺された、近世最後の下剋上は幕末に起こった、幕末につづく