大丸有 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

大丸有(大手町丸の内有楽町)と言えば金融街と三菱の再開発

 

皇居の中の東御苑は無料公開

 

皇居周辺は都内有数の緑豊かな自然が残された静かな地区、であることは都民にもあまり知られていない

 

その一皮周辺の大丸有や日本橋・銀座は江戸時代から日本の中心として栄え明治にかけて再開発された

 

東京からワシントンに贈ったサクラの返礼

 

関東大震災で大正・昭和初期には近代の煉瓦街からビルヂィングに復興した、昭和後期から平成にかけては建替えラッシュで

 

商業施設のビルディングとして再開発に再開発を重ねた金融都市、であることは都民ならずとも世界中に知られている

 

丸ビルと新丸ビル、中央行幸通りのつきあたりが東京駅

 

江戸は金・上方は銀・町人には銭が流通していた、金銀銭の相場は日々変動しあきんどによる両替商は為替差益で商いが成立したという

 

円ドルユーロのような為替取引が既に江戸・上方間にあった、大坂堂島のコメ市場では商品先物取引も日常的に行われていた

 

 

文明開化前に近代の金融業のほとんどを既に実践していたことになる、明治初期は銀本位制でバンクは金行ではなく銀行に和訳された

 

金銀銭という四進法の複雑な両替はなくなり円銭厘の十進法に統一されドルとは固定相場だったので為替業務はむしろシンプルになった

 

 

金より銀交換が盛んになり金座より銀座が賑わった、銀座は商業地区となり地名は現在も日本中に残っている

 

江戸から東京に変わり、数寄屋橋から築地本願寺あたりが現在の銀座となっている

 



江戸日本橋の金座と銀座

 

日本橋にあった魚市場は昭和初期に本願寺南部の河岸に移転しその後、次の移転に出遅れ現在頓挫中

 

江戸時代からの金銀銭を投資した埋立て再開発事業が無かったら、温暖化している東京東部の大半は海の底の水の都だったのだろう

 

数寄屋橋から築地本願寺

 

①長崎出島の蘭と清②対馬の朝鮮③松前の蝦夷④薩摩の琉球との四つの口外交は盛んで

 

欧米とはお付き合いをするほどでもないくらいだったが開国せざるを得なかったのは大陸の清が阿片戦争で危機的な国際情勢だったから

 

日露戦争勝利を機に勝鬨橋を架けたという

 

南蛮貿易以来の武器をまた輸入するために欧米と取引をせざるを得なくなった、その役割は老舗政商の三井・三菱が担った

 

薩長土肥らから人材が生まれ、きれい事ではない仕事がたくさんあっただろう事は想像に難くない

 

三菱一号館美術館

 

老舗政商は財閥となり近代化を推進した、戦後同族資産は凍結株式処分され財閥解体したが企業体は残され現在は統廃合された