四つの口 | 久蔵

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落語と歴史のブログ

海に囲まれた日本がそもそも鎖国なんかできたのか?



海域警備もろくにできないような船で塀もない海域から侵入してくる南蛮人の大きな船をくい止めたりはできない

逆に南蛮人の船に乗って海外に出ることもできる、法度で宣言しても海は閉ざすことの方が難しい

関ヶ原の戦い後の十七世紀から近世が始まり戦後平和になった、日本にはたくさん南蛮人が行き来したという

 

江戸時代は海外との交易は少なく閉鎖的だったと言われていたが、四つの口外交で海外との交易は積極的だったというのが現在の認識となっている

 

四つの口とは①長崎出島の蘭と清②対馬の朝鮮③松前の蝦夷④薩摩の琉球との交易のこと

 

 

非常に盛んで現地の役人や商人は鎖国という意識はないだろうと言われている

 

また琉球はヨーロッパ・インド・アジアの中継点となっており、大陸からも世界のあらゆる物資が入り琉球王国全盛時代だったという

日本と交易のない国の物資も琉球にはあり幕末には武器や阿片もあった、清国の状況を把握できた薩摩藩は武器は入手したが阿片は規制したという


そもそも江戸に幕府が開かれた頃はまだ鎖国という言葉はなかった、南蛮の宣教師からキリスト教の布教活動を禁止した禁教政策を実施したが

 

貿易は信長も秀吉も推奨していた、金銀銅の鉱山があった日本は豊かだった、国内でも高級品の生糸をシルクロード経由で輸入していた

 

 

幕府は室町時代には交流していたが途絶えた大陸の明との国交樹立を目指していたという、明の生糸はポルトガルが独占していた

よってポルトガルの生糸を出島や琉球から入手するしかなかった、しかしマージンは高く破格的に高価だった

アジアに先行進出していたポルトガルやスペイン・オランダ・イギリスは日本の金銀を手に入れ帝国主義先進国になっていった

 

家康はポルトガルを牽制し明から直接入手する方法などを考えたという、四つの口外交で役人や商人は輸出入のノウハウを得ていった

政治経済の中心は京都・大坂の上方から江戸に移った、江戸の生活は上方を意識して対抗心は旺盛だったが千年以上も都があった上方の豪商には今更叶わなかったという


 

そこで衣食住も遊びもアイデアとカネで対抗した、これらが発展し江戸の豪商は華美な江戸元禄文化を生んだ

元禄期は上方も江戸も豪商が文化を育み、一部の町人の生活もやがて豊かになっていったが格差は広がっていった


宵越しの銭は持たねえ!が江戸っ子の粋、持たないではなくて持てない・持たなくてもよかった、銭はない・いらないが正解

 

銭がなくても生きていけるのが江戸の町だった、落語の噺では江戸の町は火災が多い、毎日火事があったという

 

江戸っ子大工職人の仕事は絶えずその日の日銭で食べていけたという、翌日の銭を残す必要がないことから宵越しの銭は持たなくてよかった、ということらしい

 


その後、江戸にあるものは上方にも上方にあるものなら江戸にも、とお互い切磋琢磨して競い合ったという

 

同じようなもの似たようなものでも違いにこだわりがある、蕎麦に対してうどん、ダシ、酒、寿司、おにぎりの海苔、歌舞伎、落語など国内が上方と江戸のダブルスタンダードとなっていった

豪商から一般町人中心に文化を育んだのが文化文政の化政文化だという


十九世紀に入り来日欧米知識人の指摘によりようやく日本の状況は閉鎖的で鎖国であることに気づいたという

なぜなら外国に依存しなくてもほとんどのものが国内で賄えるのだから、欧米から閉鎖的と観られてもしょうがない

 

 

南蛮のものは殆ど国産化していたのでコスパの低い高価な舶来品は不要だった、必要なのは科学技術や医療などの西洋の先端知識だったという

近世日本は決して消極外交ではなかった、むしろ大陸と東南アジアとの交流は琉球を窓口にして盛んで莫大な利益をもたらしていた

松前を窓口に蝦夷・ロシアと、対馬を窓口に朝鮮との交流も盛んで国内特産品を輸出し輸入品は国内の生活を潤していた

長崎出島から入ってくる南蛮文化や舶来物は十分で欧米に依存する必要性はなくなりつつあり、アジア太平洋経済圏は確立していった

あらゆる物が天下の台所の上方大坂に集まった、将軍のお膝元の江戸庶民が求めていたものは上方から樽廻船で来る高品質の下物と呼ばれた

 


上方からの下(くだり)物以外はくだらないものとして、大坂と江戸の問屋組合が流通と品質管理を担っていたという

ロンドンやパリの人口をはるかに凌ぐ世界一の百万人都市江戸の元禄・化政文化は西洋文化に勝るとも劣らないレベルに達していたという

幕末につづく