今日も花曇り -6ページ目

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

どうしてだか、抵抗を感じる言葉って、たまにあります。

 

しばしば見かける言葉では、「読了」があります。

近年よく見るようになった気がしますが、以前から語そのものはあったのかもしれません。

なぜ苦手なのか、と聞かれても自分でもはっきりとはわからないのですが・・・

その本の中身よりも、とにかく読んだ事実自体をアピールしたい、というニュアンスを感じるからかもしれません。

 

でも使っている方はそんなつもりではないでしょうし、「読破」には抵抗ないのにどうして「読了」はダメなのか?というのも自分でもわからない。

 

読書つながりでいうと、「考えさせられる」というのも苦手です。

それだけでは、何を考えさせられたのか全然わからないから。

 

あと苦手なのは「ほぼほぼ」。

これもいつからあるのでしょうか。

なぜ「ほぼ」ではいけないのか。

 

これと同じような系列で「いまいま」というのがあります。

「現時点で」みたいな意味で使う人が多いのですが、これはかなりはっきり嫌い。

それこそ、忌々しい!と思ってしまいます。

 

こうして思い出していると、以前は「普通に」、「がっつり」、「ざっくり」、「要は」、「ヤバい」等も苦手でしたが、あまりに耳にする機会が多くて慣れてしまいました。

 

全く気にならない人も多いと思います。

書いていて、歳をとったのかなと思いました。

 

・・・と思ったら、こんなサイトがありました。

 

 

苦手な言葉ってたくさんあるんですねえ!

私は全然気にならないものもたくさんあって、本当に人それぞれなんだなと思いました。

 

 

母親の紹介で読んだのですが、本当に心を揺さ振られる本で、年に一冊あるかないかくらいの読書体験でした。

著者と母親には感謝するばかりです。

大変内容の濃い本なので、書きたいことも多くて長くなってしまいましたあせる

 

 

戦前の広島の宇品(うじな)という場所には、陸軍の船舶司令部というものがあり、宇品は兵や物資の船舶輸送を担う一大拠点だったそうです。

この本は、その船舶司令部の、主に第二次世界大戦中の歴史をたどったノンフィクションです。

 

戦争は、兵、兵器、補給物資などを、大量に輸送しなければなりません。

海に囲まれた日本は、戦時の輸送のほぼ全てを船に頼っていました。

しかし日本軍は輸送を軽視し、貧弱な輸送体制のまま広大な太平洋を戦場にした結果、悲惨な敗北を繰り返しました。

 

この本は、船舶輸送を軽視する軍に失望し、連合軍により徹底的に破壊されていく船舶輸送網に絶望しながら、職務としての作戦遂行に全力を尽くした船舶部の司令官たちの姿を詳細に描いています。

それによって、太平洋戦争とは何だったのかということや、日本の軍隊や軍人がどのようなものだったのかをも明らかにしています。

 

ところで、戦後の私たちの多くは、ほとんど自動的に軍イコール軍国主義のイメージを持っていると思います。

でも、戦前は、軍人として身を立てるというのは有望な進路だったようで、出世の手段として広く優秀な人が多く集まっていたことを改めて知りました。

陸軍大学校への入学は、当時の帝国大学への入学より難しいと言われたそうです。

 

この本では特に、田尻昌次中将と、佐伯文郎中将という、2人の船舶司令官の物語を描いています。

私自身は特に、宇品最後の司令官だった佐伯中将のことが心に残りました。

 

佐伯文郎は1940年に船舶司令官に任命され、その後は中国へ赴任したものの、鈴木宗作という船舶司令官の後任として、1944年に宇品へ呼び戻された人です。

日本が追い詰められ、既に特攻作戦が検討されていた時期でした。

 

宇品を出航する輸送船はことごとく撃沈され、もはや輸送そのものが特攻のようになっていた状況の中、大本営の命じる無謀な作戦に延々と人と船を送り続けなければならないのが、宇品の悲劇でした。

そして佐伯司令官は輸送船が出港する際は必ず埠頭に立ち、船員を励まして見送ったといいます。

船舶部隊として駒を失うなか、鈴木宗作は「特攻」作戦に踏み切った。その後を継いだ佐伯文郎に残された仕事は、隷下の部隊を励まして回ること。間もなく海の藻屑と消えゆくであろう部隊に別れを告げて回ることしかなかった。(文庫版365頁)

そして1945年8月6日、広島に原爆が投下されます。

一瞬で市街地が壊滅したなか、爆心から離れた宇品にあった船舶司令部は、ほぼ無傷で残りました。

逐次に集まってきた情報によれば、広島市の災害は予想を超えて大きい。ほとんど全市が火の海で、にわかに信じがたいことではあるが、ほんの瞬間的数秒間に根こそぎ破壊されたらしい。(中略)

宇品地区の一角に無傷のまま残った自分たちだけが唯一の活動機能かもしれないという現実が浮かび上がってきた。

「 市内は火の海で、もう自動車も自転車も入れません」。

わなわなと金切り声をあげる参謀に、佐伯司令官は毅然として言った。

「われわれには、船がある」(文庫版386頁)

人間が経験したことのない事態に直面しながら、佐伯中将は原爆投下のわずか約30分後には、船舶と河川を使って救護・救援活動を開始します。

さらに、その被害が新型の原子爆弾によるものと判断し、独断で、本土決戦のために陸軍がかき集めていた虎の子の船舶部の全ての人員と船舶を被災者救護のために投入し、救護と復旧に全力をあげたのです。

 

非常時なのだから当然だと、今の私たちは考えるかもしれません。

しかし、軍人にとっては指揮命令系統が絶対です。

しかも、軍が本土決戦、一億玉砕を叫んでいた当時の世情にあって、命令もなしに独断で、全兵力を市民の救護のために投入した佐伯中将の行動は、尋常ではありません。

現に、海軍では兵学校の生徒数千人を全く動かさず温存したのです。

佐伯中将の行動には、著者でさえ当初は後日の脚色を疑ったといいます。

 

それにとどまらず、佐伯中将は、残留放射能の危険を把握しながら、船舶司令部を市の中心部へ前進させました。

市役所前に天幕を張り、絶え間なく指令を出しながら、夜は焼け跡に敷いたむしろに数時間身を横たえたといいます。

 

安全な宇品で指揮をとり続けることもできたのに、なぜそんなことをしたのか。

もちろん現場の部隊を鼓舞する意味もあるでしょう。

 

しかし著者は、多くの船員と兵を死地へ見送ることしかできなかった佐伯中将が、原爆が焼き払った広島を、今度は自分が命をかけて戦う戦場だと見定めたのではないかと書いています。

私自身もそう感じました。

 

 船舶部の救護活動は終戦まで続きました。

そして終戦。玉音放送を聞いた配下の全将兵に向けて、佐伯中将は次のような訓示を述べたといいます。

ここに船舶部隊の復員を命ぜられ、われわれはその光輝ある歴史を終結せんとす。 心情切々として、万感胸に迫るものあり(中略)

顧みれば明治二七年、宇品港頭に陸軍船舶部隊の発足を見てより、以来五十有年、 累次の聖戦に参加し、武勲を奉し、帝国陸軍船舶作戦に貢献寄与せる所極めて大なり

また戦に倒れ病に死したる幾多戦友に対しては、深く敬弔感謝の誠を捧ぐ (中略)

今や諸子、戎衣を解きて故山に帰らんとするに臨み、酷寒の北冥に、灼熱の南海身を挺して奮戦したるその労苦に対し、衷心より感謝するとともに、うたた惜別情、禁ずる能わず

今後における諸子の難苦荊棘(けいきょく)の前途に思いを馳すれば、惻々(そくそく)として胸を塞ぐものありも、希(こいねがわ)くは忠誠なる軍人の本分を自覚し、今次賜りたる聖論の奉体具現に努め、 益々自重自愛、以て戦後の復興のため、国民の中核たらんことを切望してやまず(本書420頁)

吉田満『戦艦大和ノ最期』を読んた時にも感じたのですが、戦後の教育で文語をほぼ捨て去ってしまったのは、文化の断絶を招いたのではないかと残念に思います。

 

軍は解体され、最後はたった二人、篠原元参謀と残務整理にあたっていた佐伯中将が、とうとう全ての肩書を失って故郷仙台へ帰る場面には胸を衝かれます。

(昭和二十一年)四月一日、すべての肩書きを失った佐伯文郎が、広島を去る日がきた。彼が五六 歳となった春のことである。

朝の広島駅は喧噪に包まれていた。復員してきた元兵隊たち、疎開先から戻ってきた家族づれ、買い出しに向かう市民でごった返している。駅前の広場にはトタン屋択のヤミ市が軒を連ね、まるで祭のようなにぎわいだ。

この混雑のなかを切符売場の長い行列に並び、佐伯のために列車の席をひとつ確保することが篠原の最後の仕事となった。

くたびれた鞄を手に下げ、今は静かに故山青葉城下の仙台へ帰りゆく白髪のこの男が、かつて宇品の船舶司令官であったと気づく者は、もう誰もいない。

わずか半年前、原子爆弾に焼き尽くされた焦土に立ち、万という兵を率いて闘った司令官であることを知る人も、どこにもいない。

その後、佐伯中将は東京裁判でB級戦犯として禁錮(重労働)24年から26年の判決を言い渡されました。

佐伯中将は法廷で一度も争わず、収監された巣鴨プリズンでは、片隅にある花壇の植物の世話をする係を希望し、模範囚として過ごしたそうです。

 

佐伯中将のような人は、どうすればよかったのでしょうか。

無謀な作戦だと軍の中枢へ進言すればよかったのでしょうか。

でも、異動させられたり軍を辞めたりすれば、他の人間が代わりに行うだけです。

個人の運命は、歴史の流れや組織の大きな力から逃れられないことを思い知ります。

 

この本や、この本をきっかけとして読んだ半藤一利氏の『昭和史』を読むと、軍にあっても、理性的で心ある人々がたくさんいたことがわかります。

それなのに、どうして日本は太平洋戦争という愚行に突き進んでしまったのか・・・。

本当に愚かで悲しいことだとしか言えません。

 

それにしても、よくここまで取材されたと、本当に敬服します。

今までこのようなテーマで書かれた一般書は皆無の状況で、しかも著者は軍事が専門というわけではないらしいのに、貴重な一次資料を発掘し、読み込んで、現地に足を運び・・・。

本物のジャーナリストの仕事というのは本当にすごいと思いました。


また、驚いたのは、少なくない軍人が私家版の自伝や手記を残しており、貴重な戦時の記録になっていることです。この本でも、そうした記録をもとに書かれた部分が多いようです。

連合国による占領が決まった際、軍は記録の多くを破棄したそうですが、田尻中将はじめ、そうした人々が記憶と残された記録をつなぎ合わせて、戦争の記録を復元させたのです。

そのおかげで、私たちはこうして歴史を振り返ることができます。

 

記録というものは未来のために絶対に必要なもので、これを改ざんや隠滅するなど、絶対にやってはならないことだと思いました。

 

そうした貴重な資料も、巻末の参考資料の一覧を見ると、多くは出版されずに防衛研究所等の施設に保管されたままのようで、平素、私たちの目に触れることはありません。

著者がいなければ、ほとんどの日本人はこうした事実を知り得なかったのですから、著者には感謝するしかありません。

 

ただ、この本に書かれていることは、著者のおかげでたまたま知ることができたわけですが・・・

私たちが知らない真実はほかにも無数にあり、自分含め、人は真実など知らないまま、それに気づくことさえないまま生きているのだと改めて思い知らされました。

その結果、結局は、また同じ過ちを繰り返すしかないのではないかと、心寒く感じました。

 

 

小川洋子さんは、純文学の小説が得意でない私がそこそこの数の作品を読んでいる、数少ない作家です。

そして私はこのところ「なぜ人はフィクションを必要とするのか」をずっと考えていたのですが、小川さんがまさにその疑問に関係ありそうな題名の本を書かれていることを知って、読んでみました。

 

 

とてもいい本でした。

全部で120頁ちょっと、とても短く、とても平易に書かれていますが、小川さんの読書や創作に対する考えのエッセンスが詰まっていると感じました。

 

でも読んでみると、この本では特に「物語の役割」を明らかにすることに力が注がれているわけではなく、小川さんが読書体験や創作態度について語るなかで、小川さんが考える物語というものがうっすら浮かび上がる、という感じです。

 

一見、「物語とは何か」の答えにも見える記述もあります。

エリ・ヴィーゼルの『夜』について書かれた箇所

アウシュヴィッツの最初の夜に自分の神と魂が、殺害されたんだと感じ、そして自分と同じ少年の中に神を見た、ということがエリ・ヴィーゼルにとっての物語なのではないでしょうか。

とうてい現実をそのまま受け入れることはできない。そのとき現実を、 どうにかして受け入れられる形に転換していく。その働きが、私は物語であると思うのです。(本書25頁)

でも、小川さん自身の作品を読んだ感覚は、受け入れられない現実をそうやってどうにか受け入れる形に変換したものだとは思えないので、これは物語の役割のうちのひとつ、ということだと思います。

 

少し意外だったのは、この本で小川さんが紹介する本に、ノンフィクションの方が多かったことです。

上記のヴィーゼル『夜』のほかには

 

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』

柳田邦男『犠牲(サクリファイス)-わが息子・脳死の11日』

ポール・オースター編『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』

『ファーブル昆虫記』

パトリック・モディアノ『パリの尋ね人』

そして、『アンネの日記』・・・

 

それについても、この本で語られる小川さんの創作についての考えを知ると、納得できる気がします。

 

小川さんは小説を書くとき、死んだ人と会話するような気持ちになるといいます。

私は、自分の小説の中に登場してくる人物たちは皆死者だなと感じています。すでに死んだ人々です。だから、小説を書いていると死んだ人と会話しているような気持ちになります。(中略)

自分はまだ死んでいないのに、なんだか自分もかつては死者だったかのような、時間の流れがそこで逆転するような、死者をなつかしいと思うような気持ちで書いています。(本書67頁)

また小川さんは、小説は過去を表現するものだといいます。

小説を書いているときに、ときどき自分は人類、人間たちのいちばん後方を歩いているなという感触を持つことがあります。(中略)。

 先を歩いている人たちが、人知れず落としていったもの、こぼれ落ちたもの、そんなものを拾い集めて、落とした本人さえ、そんなものを自分が持っていたと気づいていないような落とし物を拾い集めて、でもそれが確かにこの世に存在したんだという印を残すために小説の形にしている。そういう気がします。(本書75頁)

そうして、過去の死者の声に、じっと耳を澄ませる。

モディアノは、寄せられた批評の中で最も心打たれた一文として、次のような言葉を挙げています。

「もはや名前もわからなくなった人々を死者の世界に探しに行くこと、文学とはこれにつきるのかもしれない」

書くことに行き詰まった時、しばしば私はこの文章を読み返します。そして心を落ち着かせ、死者の声を聞き取ろうと、じっと耳を澄ませます。次に書くべき言葉をじたばた探そうとするのではなく、耳を澄ませる。するとまた、書くことのリズムが戻ってくるような気がするのです。(本書77頁)

 

そうした営みを説明するには、確かにノンフィクションの方がわかりやすいのかもしれません。

過去の事実が拾い集められて物語となっていく様子を、まさに読者は体験するからです。

 

どんな小さな過去でも、名も知れない死者でも、そこに至る事実の連なりが必ずあり、何らかの物語をすでに内に持っている。それに静かに耳を傾ける、小川さんはそういう作家なのだと思いました。