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今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

今週末に参院選があります。

最近、参政党の支持率が全体で2位とか3位とかの報道に接しました。

参政党のことをあまり知らなかったので「そんなに支持があるのか」と驚きました。

 

支持を集める理由が知りたいと思い、参政党のウェブサイトにある政策の説明を読みました。

 

 

そして、とても多くの疑問や懸念を感じました。

 

普段、政治のことはほとんど書かないのですが、書くなら選挙前でなければ意味がないと思い、書いてみます。

なお、引用した文章は掲載されている文言そのままです。

 

参政党は3つの重点政策として

1.教育・人づくり
2.食と健康・環境保全
3.国のまもり

をあげています。

 

例えば1の説明の一部として、次の文章があります。

 

「かつて教えられていた日本の国の成り立ちや偉人の功績が十分に教えられず、日本は悪いことをした国だと教える教育が続いた」

 

いわゆる自虐史観をやめよと。

具体的にはたぶん、第二次世界大戦での軍国主義をいうのでしょう。

私はまず、ここでつまずいてしまいます。

 

私たち一般人の多くは、日本がなぜあんな愚行を犯したのか、歴史を知らず、まともに考えもしていないと、私自身は思っています。

自虐どころか、あれは軍の暴走が原因で国民は被害者だった、くらいの意識が近いのではないか。

 

その意味で私は、自分たちの戦争についての認識は、自虐にすら届いていない不十分なものだと思っています。

それに、歴史をきちんと知ること自体は、決して「自虐」ではありません。

 

教育の具体的な方針の一部としては、以下が書かれています。

 

<推進する主な教育内容>
・神話など祖先からの繋がりや為政者が民の幸福を願う国柄のあり方を学ぶ教育。

・祖先からの家族のつながりを考え、社会形成の中心としての家族の重要性を理解し、家族愛を育む教育。

 

これは、具体的に何を教えようというものなのか?

「為政者が民の幸福を願う国柄のあり方を学ぶ」とは、いったい何のことなのか?

意味がわからなすぎて、率直に言って気味が悪いと感じました。

 

「家族愛を育む教育」とは、何を教えるというのか?

愛情は、教育により育めるものなのか。

 

少子化対策としては

 

・社会進出一辺倒ではなく、お母さんや専業主婦は女性に与えられた大切な選択肢であることの理解を推進する(女性活躍推進法に専業主婦支援を追加)。

・3年間はしっかり育児に専念すること(長期育児休業)を奨励し、補正した女性就業率を再評価する(育児休業中の人は非就業としてカウント等、M字カーブの推奨・再定義)。

 

まるで、少子化は女性の考え方に問題があるかのような書き方で、悪い意味で衝撃を受けました。

もちろん出産や育児は、これ以上ないほど大切な行為です。他人の生命を引き受けるのですから。

でも、3年間も仕事をしないで子どもに付きっきりになることが、いろんな意味で、必ずしもいいとは私は思いません。

 

育児は苦しいし、ものすごく大変なこともある。

その中で、仕事をすることで社会とつながれる部分もあるし、経済的にも働く必要がある場合が多いです。

それを無職で安心して暮らせるほどの保障をこれから日本がしていけるとは、到底思えない。

 

労働力も必要です。働き盛りの人間が育児で3年間も完全に仕事から離れるなら、その分の労働力を何とかしなければなりません

この点、例えば今は多くの外国人も単純労働を担ってくれていますが、参政党は「非熟練及び単純労働者の受入人数を制限」することを主張しています。

 

環境保護政策は、

 

日本特有の自然生態系を維持し、貴重な遺伝子資源を守る

行き過ぎた人間の多様性(ダイバーシティ)推進よりも、まず「生物多様性」を守っていく。特に、花粉媒介者(ポリネーター)としての昆虫保護、昆虫の生育環境を包括的に保護する法律、行動計画は整備が必要である。

 

これも、非常に驚きました。

ダイバーシティの問題と生態系における多様性保護は、全く別の問題です。

それを無理やり逆説するという明らかな不合理を、公にしてはばからない。

仮にそれは措くとしても、ならぱ人間も生態系の一部なのだから、ダイバーシティは推進されるのではないのか。

そして、何故その文脈で、いきなり花粉媒介者を持ち出すのか?

いったい何の議論をしたいのかすら、全くわかりません。

 

また、エネルギー問題については、

 

・パリ協定の離脱により炭素目標を撤回し、メガソーラー等コストの高い電源開発推進は即刻中止し企業の脱炭素投資を見直す。
・未だ科学的な議論の余地がある地球温暖化問題や、カーボンニュートラルの必要性の是非を判断するための、偏りのないエビデンスに基づく科学的な検証を実施する。

 

日本も大きく貢献した「京都議定書」の後を継いだのが「パリ協定」なのに、それを自ら棄てるというのでしょうか、環境問題における日本の国際的なプレゼンスを放棄するのでしょうか?

 

影響力の大きな国でパリ協定に参加していない(正確には離脱を通告した)のはアメリカだけです。

そのアメリカは、第一次トランプ政権で離脱、次のバイデン政権で復帰、第二次トランプ政権で再び離脱を宣言しました。

するとトランプ後、もし民主党政権となったら、改めてパリ協定に復帰するかもしれません。

日本が離脱した後にそんなことになれば、日本は国際的に完全に孤立します。

そのときは、ジャイアンの後ろにくっついていくスネ夫のように、日本も再加盟するというのでしょうか?考えられません。

 

与野党が対立のまま国会で議決または審議できない法案を、政府または衆参各院3分の1以上の要求があれば国民投票を実施し、その結果を斟酌した上で国会での採決を義務化(政府・国会要求型国民投票)。

 

 SNSやネット情報で、さしたる根拠もなく浮動票が雪崩のように動く現状を目にすると、恐ろしくて、日本国民にそんな判断は任せられないと感じます。

 

特に外交のような問題については、私たちは全く経験と知識がないため、現実には判断能力はないと思います。

自国の歴史すらまともに知らないのに、外国の政治や歴史、地理、宗教等を踏まえて外交方針を判断できる国民なんて、どれほどいるでしょうか・・・。

 

・・・と、

いろいろ書いてしまいましたが、実は、私は参政党自体を批判する気持ちは、あまりありません。

どんな主張であっても、結社の自由、言論の自由は、それこそ憲法が保障する大切な権利です。

既存政党に頼るのではなく、自分たちで何とかするという行動力も、傍観者としてしかいられなかった自分を省みれば、素直にすごいと思う。

 

でも、投票する人は、上で書いたような問題点を知らずに、もしも「日本人ファースト」というキャッチフレーズになんとなく共感し、票を投じようとするのなら、参政党の主張は本当に日本をよい方向に向かわせる内容なのか、どうかよく考えてほしいと思いました。

 

職場で読書部を作ったりしたこともあって、この一年くらい、読書自体について書いた本を意識して読んでいました。

そして改めて「なぜ読むのか?」と考えると、意外に難しいと感じました。

もちろん、単に「読みたい」という、「ご飯食べたい」と同じ場合もありますが、「読書は、したほうがよいもの」という価値判断もある気がします。

なぜ、読書は価値があるのか?

 

最近読んだ『読む力 現代の羅針盤となる150冊』(松岡正剛/佐藤優 著)は、東西の論壇130年間を見渡し、指針になる150冊をあげるという本でした。

本はいくつかのジャンルに分けて選ばれていて、例えば「海外を見渡す」であげられた52冊のうち最初の10冊を書くと

 

『道徳の系譜』 (ニーチェ) 1887年

『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」(テンニエス) 1887年

『民族心理学』(ヴント) 1900年

『歴史と階級意識』(ルカーチ) 1923年

『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー、アドルノ) 1947年

『ミニマ・モラリア」(アドルノ) 1951年

『パサージュ論」(ベンヤミン) 1982年 

『コミュニケイション的行為の理論』(ハーバーマス) 1981年

『第三の道』(アンソニー・ギデンズ) 1998年

『情報とエネルギーの人間科学』(ジャック・アタリ)1975年

 

こんな感じです。

佐藤氏と松岡氏の読書の量と範囲の広さに圧倒されつつも、たぶん彼らのリストによる本は、日本人の9割方は(もっとか?)生きている間にほとんど読まない、または読む力も時間もないだろうと感じました。

世界全体で考えれば、読む人はもっとずっと少ないでしょう。もっぱら、西欧文化のなかでの本なので。

 

両氏がすさまじい読書家なのはわかります。

ただ、それは彼らのような仕事には役立つのでしょうが、実社会や自分の人生にどう関わるのかは、よくわからない。

あの本にはこう書いてある、誰それはこう言っているということは、読めば「そうなのかあ」と感心はしても、それ以上の感慨はない。

 

すると一体、この『読む力』は誰に向けられて書かれた本なのかと疑問にも思いました。

ほとんどの人が読まない、読めない本を大量に薦める意味は、どこにあるのだろう?

学者になりたいという人のためなのか、とにかく世界全部を知りたい知識欲のある人たちのためなのか、それとも「自分たちすごい」と自慢したかったのか・・・。

これは結局、「なぜ読むのか?」という疑問にすぐに結びつきます。

 

吉本隆明の『読書の方法 なにを、どう読むか』は、そんな疑問を感じながら読んだ本でした。

 

冒頭でいきなり、読書は役に立たない、現実を軽視する危険のある毒であると書かれていて、びっくりします。

 

本を読むということは、ひとがいうほど生活のたしになることもなければ、社会を判断することのたしになるものでもない。また、有益なわけでも有害なわけでもない。生活の世界があり、書物の世界があり、いずれも体験であるにはちがいないが、どこまでも二重になった体験で、どこかで地続きになっているところなどないから、本を読んで実生活の役に立つことなどはないのである。

また、世界を判断するのに役たつこともない。書物に記載された判断をそのまま受け入れると、この世界はさかさまになる。重たいのは書物の判断で、軽いのは現実の体験からくる判断だというように。これがすべて優れた書物であればあるほど多量にもっている毒である。(本書8頁)

 

戦後を代表する思想家の言葉としてはかなり意外です。

確かに、ある主張に言葉と論理が与えられた途端に、ごちゃついた現実よりもなにか真実らしく高尚なもののであるかのように感じてしまうのは、危険です。

いかにもそれらしいフリをして全くの筋違いの言説はいくらでもありますから。

 

でも一方で、例えばヴィクトール・フランクル『夜と霧』で書かれていたように、極限状態で思想が人間の命を救うことがあるのも知っています。

また、(私には特定の信仰はありませんが)もしも神が本当に存在するなら、思想は世界(現実)に直接結びついていることになります。

だから、吉本氏の言葉をそのままは受け取れない。

吉本氏はたぶん、あえて、論壇という場所で理屈をこねまわすばかりになることへの、自戒と警告の意味で書かれたのかなと思いました。

 

では、私はなぜ読むのか?と改めて考えると・・・

 

今のところは、あまりに世界や人間についてわからないことが多すぎるため、それを理解したい、意味づけたいという気持ちのため、というのが一番大きい気がします。

世界を理解する補助線や武器として、自分以外の人の言葉が必要なのだと思います。

その作業の結果の意味のつらなりが、「物語」ということなのかもしれません。

 

言い換えれば、たぶん、目の前の世界をそのまま、ありのまま理解できる人には、読書や思想は必要ないのでしょう。

そこに言葉を付け加える必要はありませんから。

 

 

『攻殻機動隊』や『機動警察パトレイバー』で著名な押井守監督の、2008年の作品です。

当時もレンタルして観たはずですが、あまり印象に残っていませんでした。

 

『スカイ・クロラ』は、森博嗣の小説『スカイ・クロラ』シリーズの、最後(出版順だと最初)の作品です。

意外にも、小説を映画化するのは押井監督としては初めてとのこと。

 

 

 

 

ストーリーは、科学技術により思春期で成長や老化が止まる子どもとして生み出された「キルドレ」がいる世界が舞台。そこでは企業がビジネスとして戦争遂行を請け負っており、パイロットとしての高い適性を持つキルドレを雇用している。

彼らには老化も病気もないため、戦闘で命を落とすまで、待機と出撃の生活を繰り返すほかありません。そうしたギルドレの姿を描いた作品です。

 

基地に新たに配属されたパイロットのカンナミという少年と、基地司令官のクサナギという少女が主人公です。

 

最近になってアマプラで配信されていることに気づき改めて観たのですが・・・

 

冒頭の空戦シーン、機銃から飛び散る薬莢の金属音のリアルさだけでもう、作り手の本気が伝わってきて居住まいを正される気持ちでした。

(と言っても、本作ては戦闘シーンは少しで、全てすごいクオリティですが、それがメインの作品ではありません。)

 

観終わってみると頭の中がずっと余韻で満たされるようでした。

 

・・・もしかして、ものすごくいい映画なんじゃないか?

 

すぐには理解できず、さらに二回観たのですが、観るごとに、打ちのめされるほど素晴らしい映画であることがわかってきました。

 

私が観た範囲だけでいえば、もう迷いなく、これが押井監督の最高傑作だと言いたいです。

というよりも、日本の映画史に残るべき作品だと思いました。

前に観たときは、いったい何を観ていたのか・・・。

 

押井監督の作品は、実写を除けば、それなりに観てきた方だと思います。

でも、映像には感心する一方、いつも哲学的な長台詞に煙に巻かれて、観終わっても何だかよくわからないのが正直なところでした。

評価の高い『パトレイバー2』も「そんな政治談義がやりたいならこのアニメにする必要ないよね?」と思ったり。

 

また『押井守の映画50年50本』を読んだとき、取り上げられている映画がバイオレンスやSFばかりで、押井監督は結局のところ暴力とテクノロジーを撮りたい人なのかと感じ、観る側としては少し距離を置いていました。

 

でも『スカイ・クロラ』では、徹底的に人間が描かれていました。

キルドレたちは感情の起伏があまりなく、台詞も多くないのですが、わずかな会話や表情、無言の間の振る舞いなどから感情がにじみ出るようで、本当に繊細でした。

 

声は、カンナミが加瀬亮。クサナギが菊地凛子です。

二人とも俳優で、プロの声優ではないですが、私はとても好きでした。

特にカンナミは、やさしさと無気力さが混ざったような声がカンナミのイメージにすごく合っていました。

クサナギは難しい役ですし、賛否あったようですが、私はすごくよかったと思います。

たどたどしさは、子どもの身体のまま軍人を務めている少女の不自然さに合っていると感じました。

 

特にラスト直前の、司令官室でのカンナミとのやりとりは素晴らしいと思いました。

 

作中で、キルドレは、死亡した前任者の能力や肉体的特徴をコピーして生まれる、人工的な人間で、カンナミはクリタジンロウというパイロットのコピーであることが示唆されます。

そして、クサナギはクリタの恋人でした。

 

「クリタジンロウを殺した」

「ええ」

「彼が殺してくれと」

「ええ」

「彼を愛していた」

「・・・ええ・・カンナミ、その銃で私を撃って」

 

クサナギは3度相づちをうつだけなのですが、キルドレであることに絶望して、目の前にいる、自分が殺したはずの恋人の生まれ変わりであるカンナミに、全て終わらせてほしいと願う切なすぎる気持ちが伝わります。

 

本作は小説をかなり忠実に映画化していますが、このシーンを含む物語の結末は、小説と大きく異なります。

それぞれ、カンナミは正反対の方法でクサナギを救おうとするのですが、映画のほうがカンナミをヒロイックに描いています。

 

劇中で、「ティーチャー」と呼ばれる(名の由来は映画では不明)、出会ったら生きて帰れないと信じられている敵方の戦闘機が登場します。

カンナミは最後に、編隊から離れてただ一機、そのティーチャーに向かっていきます。

クサナギに代わり、世界の「定め」の象徴であるティーチャーを打ち負かすことで、「何かを変えられる」ことを示そうとします。

 

ここから最後までのシーンは、私が知っている映画のラストシーンのなかで、最も美しく悲しいもののひとつです。

 

滑走路で仲間たちは無言で待つのですが、カンナミは還りません。

滑走路を見つめ、誰も何も言わない。

落胆し、悲しみはするけれど、諦めているようにも思えます。

自分たちの運命を受け入れているように見える。

帰還すると一機少なくなっていた、それが彼らの日常です。

 

背景に音楽もなく、広々とした滑走路に吹き渡る風の音だけが聞こえます。

滑走路に立ったクサナギは煙草をくわえ、火をつけようとしますが、ゆっくりと口から離し、振り返って静かに立ち去ります。

残るのはただ、青空、滑走路、風の音だけ。

こんなに胸をうつラストシーンは他にない気がします。

 

音楽は川井憲次氏。

押井作品のほとんどで音楽を作られている監督の盟友ですが、本作の音楽はこれ以上ないほど作品の空気に合っていて、映画の印象の1/3は音楽によると言いたいくらいです。

押井作品の音楽では『天使のたまご』(作曲菅野由弘)と双璧と感じました。

特にカンナミが最後の出撃のため飛び立つシーンの音楽は、カンナミの思いと重なり、観る度に涙が出ます(それだけに、エンドロールの音楽は絢香の歌ではなく本作のテーマ曲にもとづいた曲のほうがよかったのでは・・・と個人的には思います)。

 

彼らは、死が自分を終わらせてくれるまで、同じ毎日を繰り返します。

それに抗おうとしても、システムの前に個人は敗れる運命にあることが映画でも示されます。

ただ、それでもカンナミはクサナギを救ったのだと、私たちは感じます。

カンナミのように命をかける勇気はなくても、どうしてか胸を打たれる。

怠惰で臆病な自分でも、何か尊いものに触れた気持ちになります。

 

それにしても、押井監督はこんなにすごい監督だったのかと・・・

監督自身、後年になって「一番気に入っている」「監督としての成熟を感じた最初の作品」と語っていることを知りました。

 

 

そもそも、長編小説を1本の映画にすること自体すごく難しいことで、私自身、あまり満足を感じたことがありません。

『スカイ・クロラ』は小説も読んだのですが、映画になったことで欠けてしまったと感じる部分はほとんどありませんでした。

結末の変更も含め、映画になったことでいっそう人物の輪郭がはっきりし、希望のある内容になったと思います。

脚本の伊藤ちひろ氏の功績なのかもしれませんが、立派な仕事だと感心しました。

 

また、この映画は日テレ開局55周年記念作品として制作されたとのこと。

日テレはジブリを子会社化したことでも分かるように日本のアニメーションに大きな貢献をしている放送局だとは思うのですが、押井監督で、しかもこんな絶対に大ヒットが望めないストーリーで作品を作らせるとは、懐の深い会社だとこれも感心してしまいました。

 

『攻殻機動隊』や『パトレイバー』と比べると格段に知名度が低い本作ですが、今からでも、少しでも多くの人にこの作品を知ってもらいたい、そして、押井監督にもまたアニメーションを作ってもらいたいという気持ちです。

宮崎監督だって82歳で『君たちはどう生きるか』を公開したのですから。

 

まだまだ素晴らしい作品を作ってほしいと願っています。