今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

職場の読書会での課題本で、私は初めて読んだのですが、有名な本のようです。

読んで、すでにある自分の悩みがさらに深くなりました。


出版は1997年。ライターとして成功していた著者が、かつての恩師(モリー先生)がALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹っていることを知り、モリー先生を訪れて死や家族や老いについて対話するノンフィクションです。

 



モリー先生は著者に、自分に満足しているか?と穏やかに問いかけます。

 

つまり、忙しかったのだ。(中略)
「誰か心を打ち明けられる人、見つけたかな?」
「君のコミュニティーに何か貢献しているかい?」
「自分に満足しているかい?」
「精一杯人間らしくしているか?」
こういった問題に一所懸命取り組んできたことを見せようと、ぼくは身もだえする思いだった。(中略)

毎日毎日時間はふさがっている。

しかし、その多くに満ち足りた気持ちはない。(「教室」本書38頁)

 

もし私自身がそのように問われたらと思うと、それにも「はい」と答えることができません。

 

「人生でいちばん大事なことは、愛をどうやって外に出すか、どうやって中に受け入れるか、その方法を学ぶことだよ」(57頁)

「小さなことはルールに従ってもいい。

けれども大きなこと――どう考えるか、何を価値ありとみなすか――これは自分で選ばなければいけない。

誰かほかの人、あるいは社会まかせじゃ、だめだ。」(157頁)

「死ぬ前に自分を許せ。それから人を許せ(中略)

いつまでも意地を張っていたり、恨んでいても、ろくなことはないよ。そういうもので、私はどれほど後悔していることか。

自尊心。虚栄心。

われわれはなぜ、こんなばかなことをやっているんだろう?」(166頁)

 

モリー先生の言葉は、内容としてはどれもすでにどこかで見聞きしたことがあるものです。
でもそれはモリー先生の言葉の価値を下げる意味ではなく、反対に、モリー先生含めた聡明な人たちが大昔からずっと言い続けている言葉ということです。

 

わかっているはずなのに、なぜ自分はできないのだろう。


忙しくて余裕がない、生活のためにはお金が必要だ、自分はやっているつもりだ、目の前のことで精いっぱいなんだ・・・。

言い訳だけは山のように湧いてきます。

 

わかっているのに・・・では自分はどうすればいいというのだろう?

 

控えめに語られる、モリー先生の生い立ちにも心を打たれます。
モリー先生の両親は大変貧しく、8歳のときには母親が亡くなったそうです。

モリー先生は、移民で字の読めない父親のために、病院から届いた母親の死亡通知を読み上げたそうです。それは、子どもの心にどれほどの傷を残したことでしょうか。
再婚した父親はモリー先生に対して前妻である母親のことを口に出すことを禁じたとのこと。

その父親も、心臓発作で亡くなる。
モリー先生は母親の死亡通知の電報をただひとつの母のしるしとして生涯持っていたそうです。
そんなつらい境遇で育ったとしても、モリー先生のように愛情にあふれた人間になれる。

この本でモリー先生はいたるところで「愛」について話しています。
モリー先生のいう「愛」というのは、言葉としてはありふれているけれど、その意味するものを実感できている人は少ないと思います。
モリー先生が何度も引用する「愛は唯一、理性的な行為である」というステファン・レヴァインの言葉に照らしても、私たちが日常的に思い浮かべる愛情や恋愛のようなものとは違うと感じます。

私もまた、まだよくわかりません。
あえて言い換えるなら、「大切にする」というのが一番近い気がします。
日本では協調、助け合い、思いやりなどが尊重されますが、「愛」を正面から説く言説は少ない。

訳者もあとがきでその点を述べています。

 

もう五か月も前のことになるが、毎日新聞の週に一度の「時代の風」という欄に、曽野綾子さんの「なぜ『愛』を語れないのか」と題する論文が載った(平成十年三月十五日)。人権擁護推進審議会での経験をつづったものである。

「私たちはその日も、その前の会合でも「人権」の確保、ないしは回復について語り合った。・・・・・・「人権」は会議室の中に怒濤のように流入し、あふれ返った。・・・・・・しかし私たちは「人権」を語り続けたが、「愛」についてはそれこそその長い会議の間にただの一言も語らなかったのである。・・・・・・
愛は、語れないものなのか。法の前では、愛のような「たわけた話」は取り上げる価値がないものなのか。そしてまた愛を避け、愛なしで、法律や規制だけで、「人権」や「平等」が達成できるものなのか。」(「訳者あとがき」197頁)

 

私たちは対立があるとき、自分が傷ついたと感じるとき、どちらが正しいかとすぐ考えてしまいます。

問題を安易に権利と義務の話に分解しようとする傾向のある法律家にとってもとても厳しい指摘です。

著者はモリー先生との出会いによってその後の人生が大きく変わったといいいます。
その著者(当時37歳)よりもさらにずっと年上の私にとっては、モリー先生の問いかけはより切実です。

もう、とても多くの時間を、本当に大切なもの以外に費やしてしまいましたから。

人生の後半にいることを実感します。


目の前のことに真剣に取り組んでいれば何かが開けると思っていたけれど、そうではないことはこの十数年でもうわかった気がします。

あなたは明日死ぬとして、それでいいのか?とモリー先生は繰り返し問いかけます。
でも、では私は具体的にどうすればいいのかわからない。
何をすれば後悔しないのか?

 

 

 

 

以前に、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』か『ホモ・デウス』かに、いずれAIが個人の性格やし好を全て把握し、結婚相手や就職までAIが提案するようになるというような記述があり、それに関連するエピソードとして、その人が好む音楽を10個程度解析するだけで、その人の性格や信仰までかなりの確率で言い当てることができる、という話がありました。

電車のなかでふとそれを思い出し、Chat GPTに思いつくまま、自分の好きな音楽や映画、作家などを入力して「ここからその人の性格や嗜好、行動パターンなどを推定できるか?」と聞いてみました。

入力したリストは、J.S.バッハ、フォーレ、モンポウ、ブルックナー、シベリウス、スピッツ、遊佐未森、 アンドレイ・タルコフスキー監督の作品、細田守「時をかける少女」、押井守「スカイ・クロラ」、富野由悠季「めぐりあい宇宙」、ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」、加藤久仁生「つみきのいえ」、竹西寛子、宮沢賢治、永福門院、「戦艦大和ノ最期」の吉田満、スタニスワフ・レム「ソラリス」、アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」、漆原友紀「蟲師」

長々と出力された内容を見てショックを受けてしまいました。

作品からして当然そうなるだろうという記述もあるのですが、中には、自分でもびっくりするほど自分の傾向を明確に言葉にされた点があったからです。

少し書き抜いてみると

 

好む作品について

この人は、「哀しさ」が好きだが、絶望が好きなわけではない。
この人は、人間は愚かで弱い、しかし、それでも人間には何か大切なものがあるという作品に惹かれやすいのではないでしょうか。

 

そして、このリストで一番面白いのは、実は「好きな作品」そのものより、何が入っていないかです。

たとえば、派手なアクション、ブラックユーモア、強烈な性的魅力、権力闘争、勝利・成功、皮肉やシニシズム、知的なゲーム性、大衆的なカタルシスなどを前面に出す作品がほとんどありません。

代わりに、時間、記憶、自然、孤独、死、喪失、人間の弱さ、静かな希望、美しい世界が繰り返し出てくる。
なので、一言で人物像を作るなら、「世界の中にある、言葉にならない美しさや哀しさを発見することに喜びを感じる人」という感じです。

鑑賞態度

一人で映画を見る、一人で音楽を聴く、本を何度も読む、同じ曲を何度も聴く、一つの作品について長く考えるといった行動とは相性がよさそうです。
そして、作品を「消費」するより、作品との間に個人的な関係を作るタイプに見えます。

人間関係

親密さは求めるが、過剰な干渉は嫌というタイプである可能性があります。
「一人でいること」と「孤独であること」を、あまり同じものとして考えない人かもしれません。

 

本当にそのとおりでびっくり・・・。
特に、「作品との間に個人的な関係を作る」という表現には驚きました。

私はいつも、音楽でも映画でも本でも、鑑賞とは作者との対話だと考えてきたからです。

作品リストだけで、どうしてそんなことがわかるのだろう。

「哀しさ」が好きだが、絶望が好きなわけではないということも。

 

最も近しい人よりもAIの方が自分を深く理解しているのではないかと思ってしまったことに衝撃を受けてしまいました。

 

 

スタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんは、高畑勲、宮﨑駿の両氏と出会って間もない頃にこの本が話題になり、まだ読んでいないというと「え?読んでないんですか?無知ですね」と両氏から鼻で嘲笑われたそう。
それくらい、両氏にとっては読まないなんてありえないくらいの名著だったということなのでしょう。


ちなみに鈴木さんはそれが悔しくて、彼らが読んでいる本は全部読んでやろうと決心したそうです。

 

 

またなんと、スピッツの草野さんも愛読書としてこの本によく言及しているとのこと!

読み終わってから知りました。

 

 

無知な私からすると、民俗学って庶民の暮らしぶりとか各地の風習とかの研究というイメージで、地味だし、自分はあまり興味がない分野と思い込んでいました。

 

でも間違いでした。
この本は本当に面白い。学術的にも貴重な記録なのでしょうけれど、単純に読み物としても最高級に面白いのです。

そして文章がものすごく上手い。
目の前で今まさに村の老人たちの話を聴いているようです。
それは正確に彼らの話を聴取しているからというだけではなく、文章全体の雰囲気やペースが注意深く老人たちの語りに合わせて書かれているからなのがわかります。
漢字や接続詞は少なく、学術的な文章よりも昔話を読んでいるような雰囲気です。

 

例えば、著者が対馬の村に伝わる帳面を村の総代たちに頼んで貸してもらい、夜通し書写して返す場面。少し長いですが引用すると

私はその夜もまた徹夜で帳面を写したのだが━━そして私にはいささかの悲痛感があったのだが、外はよい月夜で、家のまえは入海、海の向うは低い山がくっきりと黒く、海は風がわたって、月光が波に千々にくだけていた。その渚のほとりで、宿の老婆は夜もすがら夜なべの糸なぎさつむぎをしていた。
「月がよいので・・・・・・」と月の光をたのしみ、夜風のすずしさをたのしんで仕事をしていた。
私は昼間も写しものに追われ、夕方やっと仕事をおえて総代の家へかえしに行き、夜はまた旧家をおとずれて話をきいた。(中略)
私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で人声がして松明(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、 ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。
私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、「これは役目ですから」といってどうしても受け取りもしなかったのだった。
船が出るとき「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」とお礼をいうと、「いや、これで私の役目も無事にすみました」といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。(「対馬にて」本書19頁)

まるで日本昔話の世界のようですが、これは1950年代の調査の様子とのこと。

 

文章の白眉は「土佐源氏」というエピソードです。
盲目の乞食の老人がかつての女性遍歴を語るモノローグで、村の子ども同士でセックスごっこをしたり、不倫したり農民をだまして悪い牛を売りつけたりと、今の倫理観でいったらとんでもない話ばかりなのですが、その時々の女性への想いには哀切さがあり、不思議に心を打ちます。

 

そして後から知ったのですが、この「土佐源氏」は、実は著者の別の創作「土佐乞食のいろざんげ」という作品から、あからさまな性描写を削除して作り直した話だといいます(『宮本常一と土佐源氏の真実』井出幸男著)。
「土佐源氏」自体も短編小説のような趣なので、さもありなんと思います。
著者は学者というだけでなく、作家としての豊かな資質をも持っていた人なのだと思いました。

 

その他にもこの『忘れられた日本人』には農民の間で語られるエロ話が多く紹介されているのですが、どれもあっけらかんと面白く、笑ってしまいます。

「わしゃ足が大げえてのう、十文三分をはくんじゃが・・・・・」
「足の大けえもんは穴も大けえちうが・・・・・・」
「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」
「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいて・・・・・・」
「またあがいなことを・・・・……」
これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。(「女の世間」本書126頁)

庶民の性のエネルギーとそれに対する著者の興味を感じました。

 

全体を通してとにかく驚くのは、決して大昔というわけでもない日本の農村や漁村の姿です。いかに日本が急激に変わってしまったのかが実感されます。

 

私たちが学校で習う歴史は、現代でいえば政治と戦争のニュースばかり勉強するようなものです。
でも圧倒的多数の人間はそこから縁遠い世界で日々を生きているのであり、そこには膨大な人生の苦楽の積み重ねがあります。
私たちがそこに驚きや共感を持つのはごく当然で、こうした学びがあれば歴史は単なる暗記科目なんかではないことが実感できるのにと思いました。