テッド・チャンの中短編集『息吹』の冒頭に収められた短編です。
著者は最初の短編「バビロンの塔」を発表した1990年以降、わずかに2冊の短編集を発表したのみにもかかわらず、現代を代表するSF作家のひとりとみなされています。
本書のなかで私はこの「商人と錬金術師の門」が一番好きでした。
いわゆるタイム・トラベルものには既ににおびただしい作品がありますが、多くは過去が変わることによる現在と未来への影響を描いています。
でもこの「商人と錬金術師の門」では、いかなる場合でもすでに起こった事実は変えられないことが前提になっています。
語り手であるフワードは、妻との諍いで和解できぬままに事故で妻を失い、その後悔によって抜け殻のような人生を送っています。
過去の戻る手段があることを知り、何か、亡くなる前の妻の人生にかかわることができるのではないかと一縷の望みを抱いて過去へ赴くのですが、妻の死を防ぐことも、看取ることすらもできずに、結果は何も変わらない。
しかし妻が亡くなる前にフワードに遺した言葉を聞くことができ、救われます。
こうした構成自体は、独創的なものというわけではありません。
亡くなったり、もう会えない人の気持ちを後から知った人間の、後悔や慰めや感謝などが作品の受け手の心を打つ作品は、相当多いと思います。
フェリーニの『道』などまさにそうだし、それならば福音書の「ペテロの否認」だってそれにあたるといえると思います。
そのうえで私がこの作品に感心したのは、タイム・トラベルという枠を使うことによって、変えられるかもしれない結果を結局は何も変えられなかったとしても、「知る」というただそれだけの行為が人間にとってどれほど本質的なことかが浮かび上がる、その構成でした。
私が読んだことがある短編の中で、最も好きなもののひとつと感じます。
不思議なことです。
外側にある事実は何も変わらないのに、知ったことで、その人にとっての世界全体が全く変わってしまうのですから。
人間という生き物の本質の一部だと感じます。

