先日、読書会の課題本として幸田文『木』を読んで大変印象深かったのですが、その本が登場する映画ということで興味を持ちました。

舞台も東京、登場人物も全て日本人のれっきとした邦画ですが、監督は『パリ、テキサス』のヴィム・ヴェンダース。
一体なぜ?と思ったのですが、日本財団が実施した「THE TOKYO TOILET」プロジェクトのプロモーション短編映画の監督として、ヴェンダースに白羽の矢が立ったとのこと。
映画は、役所広司演じるトイレ清掃員の平山が、早朝に起き、公衆トイレを掃除し、仕事終わりに馴染みの店でささやかな晩酌をし、スタンドの明かりで読書をして就寝する。
その繰り返しの毎日の中で起こるさざ波のような出来事の積み重ねを描いた、静かなものでした。
『木』は、平山が読んでいるいくつかの本のうち一冊として登場します。
内容には特に言及されませんが、フィルムカメラで木の写真を撮ったり、室内でいくつも苗木を育てている平山は、木に愛着を持っていることは明らかで、そんな平山の木への共感を表す一冊として選ばれたのだろうと思いました。
なお、これを選択したのは脚本の高崎卓馬で、監督が提案したのはフォークナーの『野生の棕櫚』だったとのこと。
映画自体ですが、評価が難しい作品だと感じました。
そう言う時点で、私にとっては文句なしの名作とはいえない、ということになります。
この映画に対する評価を大きく左右するのは、平山の生き方に対する観客の評価や感情だと思います。
まさにその点について、この映画の制作者は平山の人生をどのようなものとして見せたいのかが、わかりづらいと感じたのです。
平山の生活は完璧なルーティーンで、非常に慎ましく、穏やかです。
一見、何も過不足ない生活に見えますが、平山自身、完全に満たされているわけではないことも、控えめに描写されます。
最もそれが分かるのは、映画の最終盤で、行きつけのスナックのママの元夫で末期がんを患った男(三浦友和)と、平山が影踏みをする場面だと思います。
男はふと、影は重なると濃くなるのか、何も変わらないのかと問うのですが、平山は、「なんにも変わらないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」と、少し気色ばんで言うのです。
ルーティーンのような毎日も、重なることで何かは変わっていく、そうあってほしいという、平山の願いからの言葉なのだろうと、私には思えました。
映画のラスト、いつものように車を運転して仕事に向かう平山の、泣き顔と笑顔が交互に現れては消えるような平山の表情を延々を映すシーンにも、それが示されていたと感じました。
ただ、そうであれば、いかに映画としての穏やかさを重視したかったのだとしても、もう少し平山の苦しみを描いたほうがよかった気がします。
平山のあの生活の平穏は、多くのおそらく大切なものを捨てていった結果のもので、平穏さの中にやはり後悔や寂しさのも含まれているのだと思うのです。
その生活が、どのような苦悩や挫折を経て選ばれたものなのかがわからないと、平山の心の中を観客が理解することがさすがに難しいと思いました。
また一方で、ヴェンダースはインタビューなどでは、
「平山は物質主義など現代的な欲望の真逆を行く人物です。独りで暮らしていても孤独ではない。生活のルーティンの中にも毎日新しいものを発見している。非常に豊かで満ち足りており、人生を愛している。」
「平山は自分や皆にとって、きっと一番良いものを見いだしているポスト・パンデミックのヒーローなのです」
などと発言しています。
このインタビューを読んだのは映画を観た後だったのですが、意外に感じました。
え、そうなの?と。
言われてみれば、映画のキャッチコピーも「こんなふうに生きていけたなら」です。
私は、制作者は平山をもっと複雑な人物として見ていると思っていました。
ただ、もし制作者が本当に平山を「ポスト・パンデミックのヒーロー」というのなら、さすがにそれはナイーヴに過ぎるのではないかと感じます。
たぶん私たちの圧倒的多数は、平山の生き方に漠然とした憧れは感じても、「あなたが望むなら明日から平山になれるけど、どうする?」と聞かれたとき、それを選択はしない、または、できないと思います。
皆が自分ひとり生きていくだけのミニマルな活動にとどまっていては家族も社会も回らない。それに、平山のような生活に豊かさを感じて満足するには、ある種の資質というか、才能も必要だと思います。そして、そのような資質を持つ人は多くはないと思います。
川上未映子さんが平山のことを「選択的没落貴族」と表現しているのは、すごく的確だと思いました。
また反対に、自分の選択としてではなく、やむを得ず平山のような生活に閉じ込められた人にとっては、それが豊かであると考えることは難しいと思います。
ただ、この映画が平山の生活を、現代の、特に都市に暮らす人たちが抱く憧れのようなものとして美しく映像にしていることも事実だと思います。
静かで、ミニマルで、時間や競争に追われることのない、穏やかな暮らし。
出てくるトイレがきれいすぎる、東京の描き方がヨーロッパ人が東京に抱く願望の範囲に納まっている、等の批判もできるとは思いますが、この映画はそもそもリアリティを追及した作品ではないので、私はそこまで気になりませんでした。
気になったといえば、平山がかける音楽が、ほとんど洋楽であること。
これはヴェンダースによるこだわりの選曲ですが、その歌詞も映画の内容に深く結びついている(らしい)ので、せっかく日本を描いた映画なのに、その音楽による大きな効果を母国語として味わえないのはいかにも残念でした。
この映画は、美しく丁寧に作られており、ヴェンダースという巨匠が日本人の美点を憧れをもって描いてくれたということで、観て不愉快になることはない作品です。役所広司の演技も、もちろん素晴らしい。
ただ、一種のおとぎ話にとどまってしまっているとも感じられるのが、少し物足りないところでした。
最近、「何となくいい映画っぽい」にとどまる映画は、あまり評価できなくなってきてしまいました。若い頃は、それも含めて片っ端から観る気力があったのに。
歳をとって、感受性が痩せてきたのでないといいのですが・・・。