今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

作曲されたのは、モーツァルトが亡くなった1791年。
グラスハーモニカは、水で濡らしたガラス円盤を回転させ、そこに指を触れて音を出す特殊な楽器で、そのころ流行したそうです。
楽器そのものはその後あまり演奏されなくなってしまったようですが、この小品は、モーツァルト最晩年の簡潔な美しさが今も愛されています。

私がこの曲を知ったのは、私がまだ音楽の仕事をしているとき、ピアニストの井上直幸氏がカザルスホールでの演奏会のアンコールとして取り上げたのがきっかけです。

 

 

 

 

当時は本家のグラスハーモニカによる演奏がどんなものかを知る機会はなかったのですが、ありがたいもので、今は動画で観ることができます。

 

 

 

 

ガラスで作られた楽器自体の姿も相まって、確かに、他の楽器にはないファンタジーがあります。

 

ただ私自身は、減衰する音の行方に奏者も聞き手もじっと耳を澄ますような、ピアノの、井上直幸氏による演奏のほうを今も好んで聴いています。

先日、読書会の課題本として幸田文『木』を読んで大変印象深かったのですが、その本が登場する映画ということで興味を持ちました。

 

 

 

舞台も東京、登場人物も全て日本人のれっきとした邦画ですが、監督は『パリ、テキサス』のヴィム・ヴェンダース。

一体なぜ?と思ったのですが、日本財団が実施したTHE TOKYO TOILET」プロジェクトのプロモーション短編映画の監督として、ヴェンダースに白羽の矢が立ったとのこと。

映画は、役所広司演じるトイレ清掃員の平山が、早朝に起き、公衆トイレを掃除し、仕事終わりに馴染みの店でささやかな晩酌をし、スタンドの明かりで読書をして就寝する。

その繰り返しの毎日の中で起こるさざ波のような出来事の積み重ねを描いた、静かなものでした。

 

『木』は、平山が読んでいるいくつかの本のうち一冊として登場します。

内容には特に言及されませんが、フィルムカメラで木の写真を撮ったり、室内でいくつも苗木を育てている平山は、木に愛着を持っていることは明らかで、そんな平山の木への共感を表す一冊として選ばれたのだろうと思いました。
なお、これを選択したのは脚本の高崎卓馬で、監督が提案したのはフォークナーの『野生の棕櫚』だったとのこと。

 

映画自体ですが、評価が難しい作品だと感じました。
そう言う時点で、私にとっては文句なしの名作とはいえない、ということになります。

 

この映画に対する評価を大きく左右するのは、平山の生き方に対する観客の評価や感情だと思います。

まさにその点について、この映画の制作者は平山の人生をどのようなものとして見せたいのかが、わかりづらいと感じたのです。

 

平山の生活は完璧なルーティーンで、非常に慎ましく、穏やかです。
一見、何も過不足ない生活に見えますが、平山自身、完全に満たされているわけではないことも、控えめに描写されます。

 

最もそれが分かるのは、映画の最終盤で、行きつけのスナックのママの元夫で末期がんを患った男(三浦友和)と、平山が影踏みをする場面だと思います。
男はふと、影は重なると濃くなるのか、何も変わらないのかと問うのですが、平山は、「なんにも変わらないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」と、少し気色ばんで言うのです。
ルーティーンのような毎日も、重なることで何かは変わっていく、そうあってほしいという、平山の願いからの言葉なのだろうと、私には思えました。

 

映画のラスト、いつものように車を運転して仕事に向かう平山の、泣き顔と笑顔が交互に現れては消えるような平山の表情を延々を映すシーンにも、それが示されていたと感じました。

 

ただ、そうであれば、いかに映画としての穏やかさを重視したかったのだとしても、もう少し平山の苦しみを描いたほうがよかった気がします。
平山のあの生活の平穏は、多くのおそらく大切なものを捨てていった結果のもので、平穏さの中にやはり後悔や寂しさのも含まれているのだと思うのです。
その生活が、どのような苦悩や挫折を経て選ばれたものなのかがわからないと、平山の心の中を観客が理解することがさすがに難しいと思いました。

 

また一方で、ヴェンダースはインタビューなどでは、

「平山は物質主義など現代的な欲望の真逆を行く人物です。独りで暮らしていても孤独ではない。生活のルーティンの中にも毎日新しいものを発見している。非常に豊かで満ち足りており、人生を愛している。」

「平山は自分や皆にとって、きっと一番良いものを見いだしているポスト・パンデミックのヒーローなのです」

などと発言しています。

 

 

このインタビューを読んだのは映画を観た後だったのですが、意外に感じました。
え、そうなの?と。
言われてみれば、映画のキャッチコピーも「こんなふうに生きていけたなら」です。

私は、制作者は平山をもっと複雑な人物として見ていると思っていました。

 

ただ、もし制作者が本当に平山を「ポスト・パンデミックのヒーロー」というのなら、さすがにそれはナイーヴに過ぎるのではないかと感じます。


たぶん私たちの圧倒的多数は、平山の生き方に漠然とした憧れは感じても、「あなたが望むなら明日から平山になれるけど、どうする?」と聞かれたとき、それを選択はしない、または、できないと思います。
皆が自分ひとり生きていくだけのミニマルな活動にとどまっていては家族も社会も回らない。それに、平山のような生活に豊かさを感じて満足するには、ある種の資質というか、才能も必要だと思います。そして、そのような資質を持つ人は多くはないと思います。

 

川上未映子さんが平山のことを「選択的没落貴族」と表現しているのは、すごく的確だと思いました。

 

 

また反対に、自分の選択としてではなく、やむを得ず平山のような生活に閉じ込められた人にとっては、それが豊かであると考えることは難しいと思います。

 

ただ、この映画が平山の生活を、現代の、特に都市に暮らす人たちが抱く憧れのようなものとして美しく映像にしていることも事実だと思います。
静かで、ミニマルで、時間や競争に追われることのない、穏やかな暮らし。


出てくるトイレがきれいすぎる、東京の描き方がヨーロッパ人が東京に抱く願望の範囲に納まっている、等の批判もできるとは思いますが、この映画はそもそもリアリティを追及した作品ではないので、私はそこまで気になりませんでした。

 

気になったといえば、平山がかける音楽が、ほとんど洋楽であること。
これはヴェンダースによるこだわりの選曲ですが、その歌詞も映画の内容に深く結びついている(らしい)ので、せっかく日本を描いた映画なのに、その音楽による大きな効果を母国語として味わえないのはいかにも残念でした。

 

この映画は、美しく丁寧に作られており、ヴェンダースという巨匠が日本人の美点を憧れをもって描いてくれたということで、観て不愉快になることはない作品です。役所広司の演技も、もちろん素晴らしい。
ただ、一種のおとぎ話にとどまってしまっているとも感じられるのが、少し物足りないところでした。

 

最近、「何となくいい映画っぽい」にとどまる映画は、あまり評価できなくなってきてしまいました。若い頃は、それも含めて片っ端から観る気力があったのに。
歳をとって、感受性が痩せてきたのでないといいのですが・・・。

 

木についての、著者の15の随筆をまとめた本です。
文庫で164頁の薄い本なのですが、木に対する著者の感情の動きの濃密さ、奥行、語彙の多彩さを消化するのは簡単ではなく、読むには思いのほか時間がかかりました。

職場の読書会での課題本として読んだのですが、著者の本は今まで読んだことがありませんでした。

こうして自分以外の人から素晴らしい本を知らされるのが、読書会の楽しみです。

著者は1904年生まれ。この本に収められた随筆は1971年から1984年に発表されたものといいますから、著者が60代半ばから80代手前くらいの体験をまとめたものになるのでしょうか。

読むと、とにかくその文章の才能に圧倒されます。
語彙の広さ、それを用いる柔軟さは、自分などでは想像もつきません。
それが父に幸田露伴をもつゆえの生来のものなのか、その環境ゆえの鍛錬や教養によるものなのかは、私にはわかりません。
ただ、それまで文筆活動を全くしていなかったにもかかわらず、露伴の没後すぐに発表された、父を追憶する作品がただちに認められたことからしても、やはり特別な才能なのではと思います。

文章は率直、正直で、格好つけるところがありません。
その言葉の選び方は、古典的な教養からくるものなのか、著者の自由さからくるものなのか、無知な私ではそれすらわからないけれど、読むたびに「こんな表現ができるのか」と新鮮な驚きがあります。

こんなふうに文章が書けたら、と思うのですが、現代人が古典の教養を磨いたとしても、その延長には、著者のこうした文章はないように思えます。書いたとして、嫌味になるだけだではないかと。

この本にも少し触れられていますが、著者は生涯、和服で通したといいます(「木のきもの」)。
和服に自信があったわけではなく、洋服があまりに似合わないので躊躇しているうちに年をとってしまっただけ、といいますが、文章も、その人の生活や人生と切り離せないものなのだろうと感じます。
そういう意味で、この『木』のような文章は、現代の私たちの生活の中からはもう生まれないのではないかと思い、少し寂しく感じます。

今の私たちの言葉も、後の世代の人たちから見てそんなふうに感じてもらえるのだろうかと思うと、心もとないところです。

 

木という無言の生き物であっても、著者がそれと出会った際の感情の動きはには激しさがあります。

著者は倒木に涙し、ひのきの優れた性質にはひがみを感じ、屋久杉には恐怖に近い怯えを感じます。
私などからすると、少し木を擬人化し過ぎているのではないかと思うほどで、ここは自分と異なる部分だと感じました。

木は同じ生き物だけれど、動物とは全く違う形の生命なので、そこに人間の死生観をそのまま投影するには少しためらいがあります。
でも、著者が尋常ではない鋭敏な神経を持っていたことはよくわかります。

 

この本を読んだ続きで、著者の『父・こんなこと』(1949、1950)も読みました。
父である幸田露伴の強烈な人格に圧倒され、ときに苦しめられながらその最晩年に付き添った様子を書いた作品で、これも尋常でない質量を感じた本でした。

その父が登場し、著者がまだ子どものころの、水際の藤の花を父子で眺める場面のある「藤」が、この『木』のなかで私は一番好きでした。

 

しきりに花が落ちた。ぼとぼとと音をたてて落ちるのである。落ちたところから丸い水の輪が、ゆらゆらとひろがったり、重なって消えたりする。明るい陽がさし入っていて、そんな軽い水紋のゆらぎさえ照り返して、棚の花は絶えず水あかりをうけて、その美しさはない。沢山な虻が酔って夢中なように飛び交う。羽根の音が高低なく一つになっていた。しばらく立っていると、花の匂いがむうっと流れてきた。誰もいなくて、陽と花と蛇と水だけだった。虻の羽音と落花の音がきこえて、ほかに何の音もしなかった。ぼんやりというか、うっとりというか、父と並んで無言で佇んでいた。飽和というのがあの状態のことか、と後に思ったのだが、 別にどうということがあったわけでもなく、ただ藤の花を見ていただけなのに、どうしてああも魅入られたようになったのか、ふしぎな気がする。(本書「藤」より)

 

明るい陽射し、水、花、虫の羽音・・・その中でぼうっと佇んでいる様子を「飽和」と表現した著者の言葉の力に、静かな衝撃を受けます。
「水あかり」という言葉も、初めて知らされました。

 

私が読んだのは新潮社の文庫版なのですが、巻末の佐伯一麦氏の解説も大変いいものでした。
サマセット・モームの「いい文章というものは、育ちのいい人の座談に似ているべきだと言われている」との言葉を引いて著者の文章を論じているのに「なるほど」と思い、解説が、ルナールの『博物誌』の「木々の一家」の一節を引いて閉じられるのには、本書の内容と響き合って深い余韻を感じました。

 

以前、小川洋子さんの『ことり』を読んでからは、それまで全く気にとめなかった街中で聞こえてくる様々な小鳥の声に、耳を傾けるようになりました。
この『木』も同じように、都会にいても出会うことができる様々な木に目を向けさせてくれます。

 

本ばかりではもちろんいけないけれど、本は現実を見る目も養ってくれる、やはりありがたいものだと感じました。