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今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

 イスラエルの首相、ベンヤミン・ネタニヤフの、汚職を告発する映画です。

 

 

この映画を観て震撼するのは、汚職そのものではなく(これ自体はありがちな話です)、汚職による失脚を逃れるために、司法制度を変え、戦争すら利用しようとする、その考え方です。

 

本当に、人間にそんなひどいことができるんだろうか?

自分の利益のために、何万もの人の死を利用するなんでことが?

曲がりなりにも民主的に選ばれた一国の首相が?

 

映画は、警察によるネタニヤフ首相と関係者への取り調べ映像と、関係者へのインタビューで構成されています。

現職の首相の取り調べ映像が流出するなんて、普通じゃありません。

驚くことに、それでもネタニヤフは今も首相なのです。

日本の政治がいくらひどいといっても、こんな映像が世界中で公開されたというのに権力トップがそのまま、ということはないでしょう。

イスラエルの政治状況の異常さが際立ちます。

 

机を叩きながら大声をあげ「全部嘘だ!」「覚えていない!」とばかり言うネタニヤフ、「私たちは全世界で王のように尊敬されている!」「警察がこんなことして恥ずかしくないのか!」と逆ギレして質問に全く答えない妻サラ、自分は兵役を逃れながら極右インフルエンサーとして威勢のいい息子ヤイル。

そして、その息子に後を継がせたいというネタニヤフ・・・

 

彼らは王族ではなく、民主的に選ばれた政治家とその家族のはずなのに、いつの間にか、自分たちはあらゆるものを手に入れる権利があると錯覚してしまったようなのです。

 

この映画が描いたのは権威主義者のマニュアルなんだ。

政治的野望のためにいかにしてメディアを自分の思い通りに操るのか?

いかにして裁判所を弱体化して法の支配を破壊するのか?

そして、いかにして暴力を使うか?

いかにして反対勢力を黙らせるか?

これらすべてが実にトランプ的だ。

単にトランプ流というだけでなく、これが21世紀の権威主義者たちの戦略の手引きだといえる。

(プログラム掲載の製作総指揮アレックス・ギブニーのインタビューより)

 

一方で、現職の首相とその家族であっても手加減のない取り調べを行い、デモに数十万人が参加し、何より命がけでこうした映像を外国へ提供する内部の人間があることに、この国の力も感じました。

 

この映画について一部では、イスラエルの歴史に関する認識不足や、ガザでの戦争についての踏み込みの浅さを指摘する批判もあるようです。例えば

 

 

ただこの点は、ブルーム監督自身が、イスラエルをめぐる政治的見解には足を踏み入れないよう細心の注意を払ったと述べていますし、私もその姿勢は正しい選択だったのではないかと感じます。

イスラエルの建国やシオニズムの問題にまで立ち入ると大きすぎる議論になってしまい、ネタニヤフ個人の責任とは論点がずれてしまうからです。

 

 

どんな背景があったとしても、ネタニヤフの行為は贈収賄ですから、明白な犯罪です。

私欲のために行動する人間に何万人もの殺人を許す権力を与えておくなど、恐ろしいことです。

 

道徳的に腐敗した人物が権力を持つと何が起きるのか。

本作からそれを知ってもらいたい。

(ブルーム監督)

 

 

小さな腐敗の兆候を軽視しないこと。

そして、真実を軽んじて民族的自尊心に訴える人間に警戒すること。

真実はその煙幕の向こう側にあるのです。

(製作総指揮 ギブニー氏。映画プログラムより)

 

「真実を軽んじて民族的自尊心に訴える人間に警戒すること」

耳が痛すぎる・・・。

ギブニー氏のによれば、近くAmazonなどでも配信が始まるはすだそう。

かなり話題になっているし、たくさんの人に観てほしいと思いましたが、東京でさえ上映は2館だけ。

今の日本では、権力が腐敗する危険を現実として感じるのはとても難しいのかもしれないと感じました。

 

Yahoo!ニュースにこんな記事がありました。(時間が経つとリンク切れになってしまうかもしれませんが)

 

 

英「サンデー・タイムズ」の記者ウィル・ロイドは、10年間で8280時間を読書に費やし、悟った。

「時間の無駄だった」と。(中略)
私は10年で8280時間を読書に費やしたのだ。

この人間離れした意志力を仮想通貨の取り引きに注いでいれば、いまごろ私は億万長者になっていただろう。

あるいはジムに通うこともできたはずだ。

 

なにをっ・・!?

と思ったのですが、実際読んでみると、

 

本の世界に深く没頭する読書という行為は、私たちの世代で終わる可能性がある。

そして執筆はもっぱら、チャットボットとセレブ児童書作家たちが担うようになるのだ。

となれば、残る私たちはプラトンの『国家』(第7巻)に出てくる、洞窟に住み、幻惑された人々のように、座って壁にゆらめく影を眺めることになるだろう。

 これは文明の崩壊を意味しているはずだ。

しかし、大半の人々は、本を読むより、そうしているほうが、きっと楽しいに違いない。

 

とあったので、著者は読書をおろそかにする風潮を皮肉っているようでした。

 

一口に読書といっても、いろんな機能があり、本の内容も本当にいろいろなので、簡単な話でもないと思います。

単に知識の取得というなら、確かに読書以外にもたくさんの手段があり、読書の優位性は薄れている気がします。

また読書をしているから優れた人間というわけではないことは、スターリンがすさまじい読書家だったことでも明らかなように、必ずしも関係しないようです。

 

でも読書には、それ以外でなかなか得られない「体験」があると思っています。

自分の人生なんて本当に狭い範囲の小さなものでしかないので、この世界で起こりうることを実際に経験したり、理解したりできるのは、本当にごく一部です。

本の中に書かれていることを何とか自分の中に取り込もうと格闘することで、自分の認識や世界観が少し変化せざるをえなくなる。

多くの場合、それは何らかの知識の取得でもあるわけですが、単純なそれではない。

 

よく読書のことを「インプット」という人がいます。

でも私の感覚では、本を理解するためには、読んだものを整理し位置づけながら読む必要があるので、頭の中の運動としてはアウトプットもしている感覚です。

 

それは独特の「体験」で、読書以外にはないとまでは言いませんが、他では得難いのは確かです。

 

読書が無駄というなら、人間の文化的な活動は、全て無駄ともいえるでしょう。

でも、効率的に情報処理するだけなら、機械のほうがよほど得意です。

効率よく生きるのがよい人生なら、人生まるごと機械に替わってもらったほうがよさそうです。

 

 

昔、まだ20代の頃に観た『萌の朱雀』(もえのすざく)という映画の音楽です。

監督の河瀨直美氏は、その後『殯の森』(もがりのもり)でカンヌ映画祭でグランプリを獲りました。

この作品は河瀬監督の映画デビュー作とのこと。

 

奈良吉野の山々の緑がきれいだった映画も好きでしたが、なんといっても、その音楽に静かな衝撃を受けました。

作曲は茂野雅道氏。

決して奇をてらった音楽ではなく、とても静かで、とてもシンプルなのですが、どうしてか、こんな映画音楽は聴いたことがないと感じました。

CDも買い、探し出して楽譜も買いました。

今思えば、よく出版されたなと思います。

たぶん、出版社の方も「これは楽譜として残すべきだ」と感じたのではと、勝手に解釈しています。

 

 

 

 

とても簡潔なテーマ(主題)なのですが、そこにつけられた和音の連結から、何かを思い出させるような、少し不安定なような、不思議な感慨を呼び起こされます。

なぜこの音楽がそんなイメージを喚起するのか、解き明かす能力がないのが悔しいです。

 

日本映画では、例えばジョン・ウィリアムズ、ニーノ・ロータ、マイケル・ナイマンやハンス・ジマーのように、映画音楽自体に光が当てられることは少ないように思うのですが、やっぱり音楽も、映画にとって大きな要素だと思います。

茂野氏は、素晴らしいアーティストだと思います。